貞應二年癸未(1223)四月大
貞應二年(1223)四月大八日庚辰。去々年合戰賞。雖似有究沙汰。縡繁多之間。自然依有相漏之類今日重被行之。 |
読下し おととし かっせん しょう きは
さた あ に いへど ことはんたのあいだ
貞應二年(1223)四月大八日庚辰。去々年の合戰の賞、究める沙汰有るに似たりと雖も、縡繁多之間、
じねん あいもる のたぐいあ よっ きょう かさ
これ おこな れ
自然に相漏る之類有るに依て、今日重ねて之を行は被る。
現代語貞應二年(1223)四月大八日庚辰。一昨年の承久の乱での褒美は、全て処理し尽くしたように見えるけれど、数が多く忙しすぎたので、思わず漏れてしまったのがあるので、今日追加してその処理を行いました。
貞應二年(1223)四月大九日辛巳。以女房上野局。被補染殿別當職云々。 |
読下し
にょぼう
こうづけのつぼね もっ そめどのべっとうしき ぶされ うんぬん
貞應二年(1223)四月大九日辛巳。女房 上野局 を以て、染殿別當職に補被ると云々。
現代語貞應二年(1223)四月大九日辛巳。女官の上野局を、幕府の服飾制作所の筆頭に任命しましたとさ。
貞應二年(1223)四月大十一日癸未。若君御衣。鼠喰切之。今日巳尅。石山禪尼奉見付云々。 |
読下し
わかぎみ
ごい ねずみこれ くいき きょう みのこく いしやまぜんに みつ たてまつ うんぬん
貞應二年(1223)四月大十一日癸未。若君の御衣、鼠之を喰切る。今日巳尅、石山禪尼見付け奉ると云々。
現代語貞應二年(1223)四月大十一日癸未。若君三寅の着物がネズミに食い破られました。今日午前十時頃に石山禅尼が見つけましたとさ。
貞應二年(1223)四月大十三日乙酉。若君出御南庭。有手鞠御會。又駿河三郎光村。筑後九郎知氏。伊賀左衛門太郎宗義。佐々木八郎信朝。騎競馬。其後各又决相撲勝負云々。嶋津三郎兵衛忠義爲行事。 |
読下し
わかぎみなんてい い たま てまり おんえ あ
貞應二年(1223)四月大十三日乙酉。若君南庭へ出で御う。手鞠の御會有り。
また するがのさぶろうみつむら ちくごのくろうともうじ いがのさえもんたろうむねよし ささきのはちろうのぶとも くらべうま
の
又、駿河三郎光村、筑後九郎知氏、伊賀左衛門太郎宗義、佐々木八郎信朝、競馬を騎る。
そ ご おのおのまた すまい しょうぶ けっ うんぬん しまづのさぶろうひょうえただよし ぎょうじたり
其の後 各又、相撲の勝負を决すと云々。 嶋津三郎兵衛忠義 行事爲。
現代語貞應二年(1223)四月大十三日乙酉。若君三寅が公邸の南庭へ出て、手毬の会がありました。又、駿河三郎三浦光村・筑後九郎八田知氏・伊賀左衛門太郎宗義・佐々木八郎信朝が競馬をしました。その後、それぞれはまた、相撲の勝負を戦いました。島津三郎兵衛忠義が行事です。
貞應二年(1223)四月大十六日戊子。今曉。被行泰山府君祭。是鼠奉喰御衣事。卜筮之處。可令愼病事給之由依占申也。 |
読下し
こんぎょう たいさんふくんさい おこな れ
貞應二年(1223)四月大十六日戊子。今曉、泰山府君祭@を行は被る。
これ ねずみ ごい く たてまつ こと ぼうぜいのところ やまい こと つつ せし
たま べ のよし うらな もう よっ なり
是、鼠御衣を喰い奉る事、卜筮之處、病の事を愼ま令め給ふ可き之由、占い申すに依て也。
現代語貞應二年(1223)四月大十六日戊子。今朝の夜明けに泰山府君祭を行いました。これは、ネズミにお着物を食われたので、占ったら病気に気を付けるようにと出たからです。
解説@泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。
貞應二年(1223)四月大十九日辛夘。勝長壽院奥御堂。同傍御亭等上棟也。隱岐入道行西。伊賀次郎左衛門尉光宗等奉行之。 |
読下し
しょうちょういんおく みどう おな かたわ おんていら じょうとうなり
貞應二年(1223)四月大十九日辛夘。勝長壽院奥の御堂、同じく傍らの御亭等の上棟也。
おきのにゅうどうぎょうさい いがのじろうさえもんのじょうみつむねら これ ぶぎょう
隱岐入道行西、
伊賀次郎左衛門尉光宗等之を奉行す。
現代語貞應二年(1223)四月大十九日辛卯。勝長寿院の奥のお堂と同様に傍へ建てた別邸の棟上げ式です。隠岐入道行西二階堂行村・伊賀次郎左衛門尉光宗が指揮担当です。
貞應二年(1223)四月大廿八日庚子。若君出御西御壷。有例手鞠會。此間令懸烏糞給。有驚御沙汰。占申。御病事之由云々。 |
読下し
わかぎみにし
おんつぼ い たま れい てまりえ あ こ あいだ からす
ふん か せし たま
貞應二年(1223)四月大廿八日庚子。若君西の御壷に出で御う。例の手鞠會有り。此の間、
烏 糞を懸け令め給ふ。
おどろ おんさた あ うらな もう おんやまい ことのよし うんぬん
驚きの御沙汰有り。占い申すに、御病の事之由と云々。
現代語貞應二年(1223)四月大八日庚子。若君三寅は、西の坪庭へ出て、手毬の会がありました。その間に烏にフンをかけられました。驚いて言いつけたので、占ったところ、病気の予告でしたとさ。
貞應二年(1223)四月大廿九日辛丑。駿河前司義村。去夜自田村歸參。今日獻盃酒於若君御方。奥州并隱岐入道。伊賀次郎左衛門尉。苅田右衛門尉參入。石山禪尼又女房少々祗候云々。 |
読下し
するがのぜんじよしむら
さんぬ よ たむら よ きさん きょう
はいしゅを わかぎみ おんかた けん
貞應二年(1223)四月大廿九日辛丑。駿河前司義村、去る夜田村自り歸參す。今日、盃酒於若君の御方に獻ず。
おうしゅうなら おきのにゅうどう いがのじろうさえもんのじょう かりたのうえもんのじょう まい い いしやまぜんに またにょぼう しょうしょうしこう うんぬん
奥州并びに隱岐入道、伊賀次郎左衛門尉、
苅田右衛門尉 參り入る。石山禪尼 又女房
少々祗候すと云々。
現代語貞應二年(1223)四月大二十九日辛丑。駿河前司三浦義村は、昨夜(平塚の)田村から帰ってきました。今日、お酒を若君三寅の御所へ献上しました。奥州義時と隠岐入道二階堂行村・伊賀次郎左衛門尉光宗・苅田右衛門尉義季が来て交ざりました。石山禅尼と女官が少々つきあいましたとさ。
貞應二年(1223)四月大卅日壬寅。百恠御祭五座被行之。知輔。親職。リ賢。忠業。泰貞等奉仕。依烏矢恠也。伊賀六郎右衛門尉光重奉行之。 |
読下し ひゃっけおんさい ござ
これ おこな れ ともすけ ちかもと
はるかた ただなり やすさだら ほうし
貞應二年(1223)四月大卅日壬寅。百恠御祭は五座之を行は被る。知輔、親職、リ賢、忠業、泰貞等奉仕す。
からす や あやし よっ なり いがのろくろううえもんのじょうみつしげ これ ぶぎょう
烏の矢の恠に依て也。
伊賀六郎右衛門尉光重 之を奉行す。
現代語貞應二年(1223)四月大三十日壬寅。魔物除けの百怪祭を五人で行いました。知輔・親職・晴賢・忠業・泰貞が勤めました。烏のフンをかけられた穢れのせいです。伊賀六郎右衛門尉光重が指揮担当です。