吾妻鏡入門第廿六巻

貞應二年癸未(1223)五月小

貞應二年(1223)五月小四日丙午。若君御方御物忌也。周防守親實奉行之。

読下し                   わかぎみ  おんかた  ものいみなり   すおうのかみちかざね これ ぶぎょう
貞應二年(1223)五月小四日丙午。若君の御方の御物忌也。 周防守親實 之を奉行す。

現代語貞應二年(1223)五月小四日丙午。若君三寅さんの悪い縁起を払うため謹慎する儀式です。周防守中原親実が指揮担当です。

貞應二年(1223)五月小五日丁未。二品渡御若君御方。奥州被參。有御酒宴。被召歌女等。各施藝。太有其興。奥州解衣裝。被纏頭。駿河前司。伊賀次郎左衛門尉以下皆如此云々。

読下し                   にほん  わかぎみ  おんかた  わた  たま   おうしゅうまいられ   ごしゅえんあ     うため ら  めされ
貞應二年(1223)五月小五日丁未。二品、若君の御方に渡り御う。奥州參被る。御酒宴有り。歌女等を召被る。

おのおの げい  ほどこ  はなは  そ きょうあ     おうしゅういしょう  と      てんとうされ
 各 藝を施し、太だ其の興有り。奥州衣裝を解き、纏頭@被る。

するがのぜんじ  いがのじろうさえもんのじょう いげ みなかく  ごと    うんぬん
駿河前司、伊賀次郎左衛門尉以下皆此の如しと云々。

参考@纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。

現代語貞應二年(1223)五月小五日丁未。二位家政子様が、若君三寅の所へ来ました。義時さんも来ました。宴会があり、歌を商売にする女性をお呼びになりました。それぞれが芸を披露してとても興味深いものでした。奥州義時さんは上着を脱いで、褒美として芸人の肩に懸けてあげました。駿河前司三浦義村・伊賀次郎左衛門尉光宗を始め皆同様にしましたとさ。

貞應二年(1223)五月小十二日甲寅。申刻大地震。

読下し                      さるのこくおおぢしん
貞應二年(1223)五月小十二日甲寅。申刻大地震。

現代語貞應二年(1223)五月小十二日甲寅。午後四時頃大地震です。

貞應二年(1223)五月小十四日丙辰。若君御物忌也。物忌字注札。付御簾等。護持僧大進僧都觀基參籠。三條藏人親實云。禁裏仙洞式者。被置御物忌札之上。不憚人出入之由。雖申之。奥州固可令忌給之旨被申之間。臺所番衆。并侍大番勤仕之輩者可參籠。其外近所上臺所等人々出入。一切停止之。向後御物忌可守此式之由云々。

読下し                     わかぎみ  ものいみなり  ものいみ  じ   ふだ  ちう    おんみすら  つ
貞應二年(1223)五月小十四日丙辰。若君の御物忌也。物忌の字を札に注し、御簾等に付ける。

 ごじそう だいしんそうづかんき さんろう
護持僧大進僧都觀基參籠す。

さんじょうくらんどちかひろ い
 三條藏人親實 云はく。

 きんり   せんとう  しきは   ものいみふだ  お   れ   のうえは    ひと  でいり  はばか らずのよし  これ  もう    いへど
禁裏や仙洞の式者、御物忌札を置か被る之上は、人の出入を憚ら不之由、之を申すと雖も、

おうしゅう かた いみせし たま  べ   のむねもうされ  のあいだ  だいどころ ばんしゅうなら   さむらい おおばんごんじのやからは さんろうすべ
奥州 固く忌令め給ふ可き之旨申被る之間、 臺所の 番衆并びに 侍の 大番勤仕之輩者 參籠可し。

 そ   ほか  ちか  ところ じょうだいところら ひとびと  でいり    いっさいこれ  ちょうじ    きょうこう おんものいみ  かく  しき  まも  べ    のよし  うんぬん
其の外は近き所の上臺所等の人々の出入は、一切之を停止す。向後の御物忌は此の式を守る可し之由と云々。

現代語貞應二年(1223)五月小十四日丙辰。若君三寅の悪い縁起を払うため謹慎する儀式です。「物忌(謹慎中)」の字を札に書いて御簾にぶら下げました。お経でお守りする護持僧の大進僧都観基が来て尾籠りをしました。三条蔵人親実が云うには、「天皇や上皇のやり方は、「物忌札」を置いた場合は、人がそばへ出入りするのはかまいません。」と云いましたが、義時さんは、「いや、きちんと謹慎すべきだ。」と云われたので、台所の当番と警備の侍で当番に当たっている者だけは来てかまわない。その他は、若君三寅に近い上の台所への人々の出入りは一切禁止します。今後の物忌ではこのように決めて守ることにしましたとさ。

貞應二年(1223)五月小十八日庚申。陰。相州。武州飛脚自京都到來。去十四日午尅。大上法皇崩御于持明院殿之由申之。依御腫物數月御惱也。尊号之後纔三ケ年。御年四十五云々。奥州參二品御方。申此由給云々。

読下し                     くもり  そうしゅう ぶしゅう  ひきゃくきょうとよ   とうらい
貞應二年(1223)五月小十八日庚申。陰。相州、武州の飛脚京都自り到來す。

さんぬ じうよっかうまのこく  だいじょうほうおう じみょういんどのに ほうぎょ    のよしこれ  もう
去る十四日午尅、 大上法皇 持明院殿@于崩御する之由之を申す。

おんはれもの よっ  すうつき  ごのうなり  そんごうの こうき  さんかねん  おんとししじうご  うんぬん
御腫物に依て數月の御惱也。尊号之後纔に三ケ年。御年四十五と云々。

おうしゅうにほん  おんかた  まい    こ   よし  もう  たま    うんぬん
奥州二品の御方に參り、此の由を申し給ふと云々。

参考@持明院殿は、高倉天皇の第二皇子で守貞親王。子の後堀川天皇の即位で異例の太上天皇号を贈られ院政をしいた。後高倉院とも。

現代語貞應二年(1223)五月小十八日庚申。曇り。相州時房・武州泰時の伝令が京都から到着しました。
先日の14日の昼頃に大上法皇持明院殿がお亡くなりになったと報告しました。出来物に数か月悩まされていました。太上天皇を賜って三年。お年は45歳だそうな。義時さんは尼御台所政子様の所へ出かけて、この事を伝えたそうな。

貞應二年(1223)五月小十九日辛酉。朝雨降。於二品御亭。如駿河前司有沙汰。暫可被閣御作事等之由被定。依彼崩御事也。伊賀三郎左衛門尉光資爲御訪使節。可令上洛云々。

読下し                      あさあめふ     にほん  おんてい  をい    するがのぜんじ ごと     さた あ
貞應二年(1223)五月小十九日辛酉。朝雨降る。二品の御亭に於て、駿河前司の如きに沙汰有り。

しばら おんさくじら  さしおかれ  べ   のよしさだ  られ    か   ほうぎょ  こと  よっ  なり
暫く御作事等を閣被る可き之由定め被る。彼の崩御の事の依て也。

いがのさぶろうさえもんのじょうみつすけ  おんとぶら   しせつ  な    じょうらくせし  べ   うんぬん
 伊賀三郎左衛門尉光資、 御訪いの使節と爲し、上洛令む可しと云々。

現代語貞應二年(1223)五月小十九日辛酉。朝のうち雨。二位家政子様の屋敷で駿河前司三浦義村達に命令がありました。しばらく建築を控えておくようにお決めになられました。それは持明院殿の葬儀だからです。伊賀三郎左衛門尉光資は、お弔いへの幕府の公式派遣者として、京都へ出かけましたとさ。

貞應二年(1223)五月小廿四日丙寅。若君渡御二品御方。駿河守〔重時〕三浦駿河次郎等供奉。是常儀也。

読下し                     わかぎみ にほん おんかた  わた  たま   するがのかみ 〔しげとき〕  みうらのするがじろう ら  ぐぶ     これつね  ぎなり
貞應二年(1223)五月小廿四日丙寅。若君 二品の御方に渡り御う。駿河守〔重時〕、三浦駿河次郎等供奉す。是常の儀也。

現代語貞應二年(1223)五月小二十四日丙寅。若君三寅が二位家政子様の屋敷へ出かけられました。駿河守重時・三浦駿河次郎泰村がお供をしました。これはいつもの事です。

貞應二年(1223)五月小廿七日己巳。土御門院自土佐國可有遷御于阿波國之間。祠候人數事尋承之。可注進之旨。被仰遣阿波守護小笠原弥太郎長經之許。四月廿日爲御迎。已進人於土州訖之由。長經所言上也。」今日。若君息災御祈祷等。内外共被行之云々。

読下し                      つちみかどいん  とさのくによ   あわのくにに せんぎょあ   べ  のあいだ  しこう  にんずう  こと
貞應二年(1223)五月小廿七日己巳。土御門院、土佐國自り阿波國于遷御有る可き之間、祠候の人數の事、

これ  たず うけたまは  ちうしんすべ  のむね  あわしゅご おがさわらのいやたろうながつねの もと  おお  つか  され
之を尋ね 承り、注進可き之旨、阿波守護 小笠原弥太郎長經 之許へ仰せ遣は被る。

しがつはつかおんむか   ため  すで  どしゅう  をい  ひと  すす おはんぬのよし  ながつねごんじょう  ところなり
四月廿日御迎への爲、已に土州に於て人を進め 訖 之由、長經言上する所也。」

きょう    わかぎみ そくさい  ごきとうら   ないがいとも  これ  おこな れ     うんぬん
今日、若君の息災の御祈祷等、内外共に之を行は被ると云々。

現代語貞應二年(1223)五月小二十七日己巳。土御門院は、土佐国から阿波国へお移りになられる時に、お供をするメンバーについてお尋ねして、書き出すように、阿波国の守護小笠原弥太郎長経の所へ命令を伝えさせました。「4月20日にお迎えのため、既に土佐へ人を行かせています。」と長経が云って来ました。」
今日、若君三寅が元気なように願うお祈りを、内宮外宮共に行わせましたとさ。

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