吾妻鏡入門第廿六巻

貞應二年癸未(1223)八月小

貞應二年(1223)八月小三日癸酉。小雨。今日評議。付所領致訴訟之輩相語武士寄附事。又出擧利爲多々利。其沙汰出來事。不能武士口入之由。被仰六波羅云々。

読下し                    こさめ  きょう ひょうぎ  しょりょう  つ   そしょういた  のやから  ぶし   あいかたら きふ     こと
貞應二年(1223)八月小三日癸酉。小雨。今日評議@。所領に付き訴訟致す之輩、武士を相語い寄附する事A

また  すいこ  り   たたり   ため  そ    さた い   きた    こと   ぶし   くにゅう  あたはずのよし   ろくはら  おお  られ    うんぬん
又、出擧Bの利多々利の爲、其の沙汰出で來るの事、武士の口入に不能C之由、六波羅に仰せ被ると云々。

参考@評議は、群議とか評定。
参考A
武士を相語い寄附する事は、寄沙汰と云い御家人の名を使えば質流れをまぬかれるから(一種の徳政)。
参考B出擧は、律令下で政府から種籾を貸し与え、同量の利子を添えて返納させていた。そこから利子のつく貸借を出挙と呼ぶ。公出擧は50%限度。私出擧は100%限度。
参考C武士の口入に不能は、御家人以外は幕府は介入しないの意味。

現代語貞應二年(1223)八月小三日癸酉。小雨です。今日の幕府での会議は、領地を奪い返すため訴訟を起こす連中が、武士に寄付したことにして質流れをまぬかれる事、又借金の利子が多すぎると言って逃れるために訴訟を起こしても、御家人以外には口を出すことは無いと、六波羅に伝えましたとさ。

解説所領の質を訴訟されると武士の名を使って寺社や権門勢家に寄付して取上げられるのを免れる事について、御家人以外は幕府は取り扱わない。

貞應二年(1223)八月小廿日庚寅。小雨降。今日。南新御堂供養。本尊弥勒像也。是梵宇。右大將家姫君御早世之時。爲御追善。既欲被建立之處。幕下薨御之間。今被果彼御素願云々。當日奉行。民部大夫行盛。進士判官代隆邦也。導師弁僧正定豪。御布施三十物百也。奥州。式部大夫朝時。駿河守重時朝臣已下。人々着廊給。

読下し                    こさめふる   きょう  みなみしんみどう  くよう   ほんぞん みろくぞう なり
貞應二年(1223)八月小廿日庚寅。小雨降。今日、南新御堂の供養。本尊は弥勒像也。

 こ   ぼんう     うだいしょうけひめぎみ おんそうせいのとき  ごついぜん  ため  すで  こんりゅうされ   ほっ    のところ
是の梵宇は、右大將家姫君@御早世之時、御追善の爲、既に建立被んと欲する之處、

ばっか こうごのあいだ  いま か   ごそがん   はたされ   うんぬん
幕下薨御之間、今彼の御素願を果被ると云々。

とうじつ  ぶぎょう    みんぶたいふゆきもり  しんじほうがんだいたかくになり  どうし  べんのそうじょうていごう  おんふせ  みえぶつひゃくなり
當日の奉行は、民部大夫行盛、進士判官代隆邦也。導師は 弁僧正定豪。御布施は三十物百也。

おうしゅう  しきぶのやいふともとき  するがのかみしげときあそん いげ   ひとびとろう  つ   たま
奥州、 式部大夫朝時、 駿河守重時 朝臣已下の人々廊に着き給ふ。

参考@姫君は、大姫。大姫は建久八年(1197)に亡くなり、頼朝は建久十年(1199)に亡くなっている。

現代語貞應二年(1223)八月小二十日庚寅。小雨が降ってます。勝長寿院内での新しいお堂の開眼供養です。本尊は弥勒菩薩です。このお堂は、頼朝様の姫君大姫が若くしてお亡くなりになったので、追善供養のため建立したいと思ったのですが、頼朝様が亡くなってしまったので果たせず、やっと今願いがかなったのです。今日の指揮担当は、民部大夫二階堂行盛と進士判官代橘隆邦です。指導僧は、弁僧正定豪。お布施は三十種類を一袋の入れたのが百個です。奥州義時さん・式部大夫北条朝時・駿河守北条重時さんなど大勢が廊下に座りました。

貞應二年(1223)八月小廿七日丁酉。霽。二位家新御所御持佛堂〔号廊御堂〕造畢之間。被奉安置本尊〔運慶作〕。是右大臣家御平生之時御本尊也。即今日被遂供養。導師内大臣僧都親慶。

読下し                     はれ
貞應二年(1223)八月小廿七日丁酉。霽。

にいけ    しんごしょ  おんじぶつどう 〔ろうのみどう   ごう  〕  つく をはんぬのあいだ  ほんぞん 〔うんけいさく〕   あんち たてまつられ
二位家が新御所の御持佛堂〔廊御堂と号す〕造り 畢 之間、本尊〔運慶作〕を安置し奉被る。

これ  うだいじんけ ごへいせいのとき  ごほんぞんなり  すなは きょう くよう   と   られ    どうし  ないだいじんそうづしんけい
是、右大臣家御平生之時の御本尊@也。即ち今日供養を遂げ被る。導師は内大臣僧都親慶。

参考@右大臣家御平生之時の御本尊は、建保4年11月23日の運慶作大威徳明王像ではないだろうか?

現代語貞應二年(1223)八月小二十七日丁酉。二位家政子様の新しい屋敷の守り本尊を祀る持仏堂〔廊下のお堂と云います〕を造り終えたので、本尊〔運慶作〕をお祀りしました。これは右大臣実朝様生前の守り本尊です。すぐに今日、開眼供養式典をしました。指導僧は内大臣僧都親慶です。

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