吾妻鏡入門第廿六巻

貞應二年癸未(1223)十一月大

貞應二年(1223)十一月大一日己亥。戌刻。歳星犯辰星。又熒惑入大微之由。司天之輩申之。

読下し                     いぬのこく さいせいしんせい おか   また けいわくたいび  い   のよし   してんのやから これ  もう
貞應二年(1223)十一月大一日己亥。戌刻。歳星辰星を犯す。又、熒惑大微@に入る之由。司天之輩 之を申す。

参考@大微は、太微。参考の【12】

現代語貞應二年(1223)十一月大一日己亥。午後八時頃、歳星木星が辰星水星の軌道を犯しました。又、熒惑星火星がしし座シグマ星とおとめ座ベータ星の中間にある太微に入ったと、天文方の連中が言ってます。

貞應二年(1223)十一月大七日乙丑。始行天變御祈等。

読下し                     てんぺん  おんいのりら  しぎょう
貞應二年(1223)十一月大七日乙丑。天變の御祈等を始行す。

現代語貞應二年(1223)十一月大七日乙丑。天の動きの異常にお祈りを始めました。

貞應二年(1223)十一月大十九日丁巳。戌刻。太白星犯哭星第一星。前右京亮重宗申之。

読下し                      いぬのこく たいはくせい こくせいだいいっせい おか   さきのうきょうのさかんしげむね これ もう
貞應二年(1223)十一月大十九日丁巳。戌刻。太白星 哭星第一星@を犯す。 前右京亮重宗 之を申す。

参考@哭星第一星は、やぎ座ガンマ星。参考の【13】

現代語貞應二年(1223)十一月大九日丁巳。午後八時頃、太白星金星がやぎ座ガンマ星を犯しました。と前右京亮重宗が云ってます。

貞應二年(1223)十一月大廿七日乙丑。勝長壽院鎭守社。改當時御在所〔寺奥〕可奉崇他所之由。有其沙汰隱岐入道行西奉行之。」今日豊前守從五位下藤原朝臣能直於京都卒。年五十二。當時鎭西事。一方奉行之。有不慮事之時。子息次郎親秀相継可致沙汰之由。蒙兼日仰云々。

読下し                       しょうちょうじん  ちんじゅしゃ
貞應二年(1223)十一月大廿七日乙丑。勝長壽院の鎭守社。

とうじ   ございしょ  〔てらおく〕   あらた  たしょ  あげ たてまつ べ   のよし  そ    さた あ     おきのにゅうどうぎょうさい これ ぶぎょう
當時の御在所〔寺奥〕を改め他所へ崇め奉る可し之由、其の沙汰有り。隱岐入道行西 之を奉行す。」

きょう ぶぜんのかみじゅごいげ ふじわらあそんよしなお きょうと  をい  そっ    とし ごじうに   とうじちんぜい  こと  いっぽうこれ  ぶぎょう
今日豊前守從五位下 藤原朝臣能直 京都に於て卒す。年五十二。當時鎭西の事、一方之を奉行す。

ふりょ   ことあ   のとき    しそくじろうちかひであいつ    さた いた  べ   のよし  けんじつおお    こうむ   うんぬん
不慮の事有る之時は、子息次郎親秀相継ぎ沙汰致す可し之由、兼日仰せを蒙ると云々。

現代語貞應二年(1223)十一月大二十七日乙丑。勝長寿院を守る神様の鎮守社を、現在の場所〔寺の奥〕から他へ移すようにと命じました。隠岐入道行西二階堂行村が担当します。」

今日、豊前守従五位下 藤原大友能直が、京都で亡くなりました。年は52才です。現在九州について、二人の一方の担当でした。万が一の時には、息子の次郎親秀が世襲して業務に当たるように、あらかじめ仰せを受けていたんだそうな。

貞應二年(1223)十一月大廿九日丁夘。辰刻。雨降雷鳴。明年可被建若君御所事。於奥州御亭。有評議。但就日來天變。今日雷鳴等。猶有思惟之由。奥州被仰。依之召陰陽師等。猶當座以來問。未刻有卜筮。雖非最吉。宜之由。各占申畢。次天變雷鳴等事被尋仰。知輔朝臣委細申之云々。

読下し                       たつのこく あめふ かみなりな
貞應二年(1223)十一月大廿九日丁夘。辰刻、雨降り雷鳴る。

みょうねん たてられ  べ  わかぎみ ごしょ   こと  おうしゅう おんてい  をい    ひょうぎあ
明年、建被る可き若君の御所の事、奥州の御亭に於て、評議有り。

ただ  ひごろ  てんぺん  つ     きょう   らいめいら  なお しゆい あ   のよし  おうしゅうおお られ   これ  よっ  おんみょうじら  め
但し日來の天變に就き、今日の雷鳴等、猶思惟有る之由、奥州仰せ被る。之に依て陰陽師等を召す。

なお とうざ  きた    もっ  と    ひつじのこく ぼくぜいあ    さいきち ならず いへど  よろ    のよし おのおの うらな もう をはんぬ
猶當座に來るを以て問う。未刻 卜筮 有り。最吉 非と雖も、宜しき之由、 各 占い申し畢。

つぎ  てんぺん らいめいら  ことたず  おお  られ    ともすけあそん いさい これ  もう    うんぬん
次に天變、雷鳴等の事尋ね仰せ被る。知輔朝臣 委細之を申すと云々。

現代語貞應二年(1223)十一月大二十九日丁卯。午前八時頃雨が降って雷が鳴りました。来年建てる予定の若君三寅用の御所について、義時さんの屋敷で検討会がありました。但し、最近の天の運航の異常や、今日の雷などおかしな事を考慮しなければと、義時さんは心配しています。そこで陰陽師を呼びました。その会議の場へ来たので聞きました。午後二時頃に占いをしました。最も良い最高の吉ではないけれど、まあいいんじゃないかとそれぞれが占った結果を云いました。次に天の運航異変や雷について質問されました。安陪知輔さんが詳しく説明をしましたとさ。

貞應二年(1223)十一月大卅日戊辰。リ。子刻雷電。風雨殊甚。今日御所造營事。猶被經評議。被召陰陽師等被尋問。國道朝臣。知輔。親職。リ賢。泰貞。信賢。リ茂。以上七人皆參。各占申不快之由。就中。近日天變頻示。歳星犯房星。本文之所載。五星犯房。人進失度云々。明年御歳七。令當計都星給。旁不可有御作事之由。國道朝臣申之云々。此事。猶仰六波羅。可被問于京都陰陽師等云々。

読下し                     はれ ねのこくらいでん  ふうう こと  はなは     きょう   ごしょ ぞうえい  こと  なおひょうぎ  へ られ
貞應二年(1223)十一月大卅日戊辰。リ、子刻雷電、風雨殊に甚だし。今日、御所造營の事、猶評議を經被る。

おんみょうじら   めされ  じんもんされ    くにみちあそん  ともすけ  ちかもと  はるかた  やすさだ のぶかた はるしげ  いじょう  しちにんみなさん
陰陽師等を召被、尋問被る。國道朝臣、知輔、親職、リ賢、泰貞、信賢、リ茂、以上の七人皆參ず。

おのおの  ふかいのよし  うらな もう    なかんづく   きんじつてんぺんしき   しめ   さいせいぼうせい おか
 各 不快之由を占い申す。就中に、近日天變頻りに示し、歳星房星を犯す。

ほんもんの の   ところ  ごせい ぼう  おか      ひとすす    ど   うしな   うんぬん みょうねん おんとししち けいとせい あた  せし  たま
本文之載せる所、五星@Aを犯すは、人進みて度を失うと云々。明年 御歳七。計都星Bに當ら令め給ふ。

かたがが おんさくじあ  べからずのよし  くにみちあそんこれ  もう    うんぬん
 旁 御作事有る不可之由、國道朝臣之を申すと云々。

かく  こと  なお ろくはら  おお      きょうと  おんみょうじらに とはれ  べき  うんぬん
此の事、猶六波羅に仰せて、京都の陰陽師等于問被る可と云々。

参考@五星は、五惑星。
参考A
房星は、房宿でさそり座西部参考の【14】
参考B計都星は、インドの神話の星。

現代語貞應二年(1223)十一月大三十日戊辰。晴れですが夜中の十二時頃に雷が鳴って風雨が特に激しかった。今日、若君三寅用御所の新設について、昨日に続き検討会がありました。陰陽師達を呼びつけて質問をしました。安陪國道さん・安陪知輔・安陪親職・安陪晴賢・安陪泰貞・安陪信賢・安陪晴茂の七人全員が集まりました。それぞれ「よくありません」と占いました。特に最近天の運航の異変が多く、歳星木星がさそり座西部の房宿星を犯しています。「占いの本によると五房星を犯している時は、人は余分な事をして失敗をするんだそうな。来年はお歳が七歳なので計都星に当たります。皆さん工事はしてはなりません。」と国道さんが言いましたそうな。この内容について、六波羅を通して京都の陰陽師に質問してみようとの事だそうな。

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