吾妻鏡入門第廿六巻

貞應三年甲申(1224)九月大

貞應三年(1224)九月大五日戊辰。霽。故奥州禪室御遺跡庄園。御配分于男女賢息之注文。武州自二品賜之。廻覽方々。各々有所存者。可被申子細。不然者。可申成御下文之旨被相觸。皆歡喜之上。曾無異儀歟。此事。武州下向最前。内々支配之。潜披覽二品之處。御覽畢之後。仰曰。大概神妙歟。但嫡子分頗不足。何樣事哉者。武州被申云。奉執權之身。於領所等事。爭強有競望哉。只可省舎弟等之由存之者。二品頻降御感涙云々。仍今日爲彼御計之由。及披露云々。又故前奥州禪室者。存日京官外國共被避任之間。就常儀。偏雖稱前奥州。於没後今者。可奉号右京權大夫之旨。被定下云々。」子刻。三浦駿河前司義村西御門家燒亡。不及他所。此間下方聊物忩云々。

読下し                   はれ  こおうしゅうぜんしつ ごゆいせき  しょうえん  だんじょ けんそくに ごはいぶんの ちうもん
貞應三年(1224)九月大五日戊辰。霽。故奥州禪室が御遺跡の庄園、 男女 賢息于御配分之注文、

ぶしゅう にほんよ   これ  たま     かたがためぐ  み
武州二品自り之を賜はり、方々廻り覽る。

おのおの しょぞんあ   ば   しさい  もうされ  べ    しからずんば おんくだしぶみ な  もう  べ   のむねあいふれられ
各々、所存有ら者、子細を申被る可し。不然者、御下文を成し申す可し之旨相觸被る。

みなかんきの うえ  あへ  いぎ な   か
皆歡喜之上、曾て異儀無き歟。

かく  こと  ぶしゅう げこう  さいぜん   ないない  これ  ささ  くば  ひそか  にほんひら  み   のところ  ごらんおはんぬののち  おお    い
此の事、武州下向の最前に、内々に之を支へ配り、潜に二品披き覽る之處、御覽 畢 之後、仰せて曰はく。

たいがいしんみょうか ただ ちゃくし ぶんすこぶ ふそく  なによう    ことや てへ
大概神妙歟。但し嫡子が分頗る不足。何樣たる事哉者り。

ぶしゅうもうされ  い       しっけんの み たてまつ  りょうしょら  こと  をい      いかで あなが  きょうぼううあ     や
武州申被て云はく。執權之身を奉り、領所等の事に於ては、爭か強ちに競望有らん哉。

ただ  しゃていら  はぶ    べ   のよし  これ  ぞん    てへ    にほんしきり  ごかんるい  おと   うんぬん
只、舎弟等に省かる可し之由、之を存ずる者り。二品頻に御感涙を降すと云々。

よっ  きょう か   おんはか    な   のよし  ひろう  およ    うんぬん
仍て今日彼の御計りと爲す之由、披露に及ぶと云々。

また  こさきのおうしゅうぜんしつは  あ    ひ    きょうかんげこく とも  さ   にん  られ  のあいだ  つね  ぎ   つ     ひと   さきのおうしゅう しょう   いへど
又、故前奥州禪室者、存りし日は、京官外國@共に避け任ぜ被る之間、常の儀に就き、偏へに前奥州と稱すと雖も、

ぼつご   いま  をい  は   うきょうごんのだいぶ  ごう たてまつ べ  のむね  さだ  くだされ   うんぬん
没後の今に於て者、右京權大夫と号し奉る可き之旨、定め下被ると云々。」

ねのこく  みうらのするがぜんじよしむら  にしみかど  いえしょうぼう   たしょ  およばず  かく  あいだ  げほう いささ ぶっそう  うんぬん
子刻、三浦駿河前司義村が西御門の家燒亡す。他所に不及。此の間、下方聊か物忩と云々。

参考@京官外國は、二つ以上の官職を兼務は出来ないが、京都朝廷内の官職(内官・京官)と朝廷から離れた地方官(外官・外國)とは兼務できる。

現代語貞應三年(1224)九月大五日戊辰。晴れました。亡き義時さんの遺産の荘園を、男女の子供達に配分する書き出しを、泰時さんが二位家政子様から戴き、兄弟に回覧しました。皆喜んで、異議はないようです。
実はこの事について、泰時が鎌倉へ着くやいなや、内緒でこれを押さえて二位家政子様がご覧になって、おっしゃられるには「まあいいんじゃないの。でも本家を継ぐ嫡男の分がとても少ないねー。どうしたことでしょう。」と云われました。
泰時さんは答えて「執権職を継ぐわけですから、所領については、どうして取り合いをする必要がありましょうか。ひとえに兄弟達に分け与えるべきだと心得ております。」と云うと、二位家政子様は涙を流して感激しておりました。それで今日、二位家政子様の計らいとして皆に披露したんだそな。
又、亡き義時さんは、ありし日には、京都朝廷から内官として右京大夫、外官として陸奥守を任命されていたので、一般的には外官を称して前奥州と云うのだが、亡くなった今は内官の「右京権大夫」と呼ぶようにしようとお決めになられましたとさ。

夜中の十二時頃に、駿河前司三浦義村の西御門の家が燃えました。他へ類焼はしませんでした。この頃、下々の間では多少物騒がしいようです。

貞應三年(1224)九月大九日壬申。リ。陸奥守義氏浴新恩。美作國新野保以下數ケ所云々。

読下し                   はれ  むつのかみよしうじ しんおん  よく    みまさかのくに にいののほう いげ すうかしょ  うんぬん
貞應三年(1224)九月大九日壬申。リ。陸奥守義氏 新恩に浴す。 美作國 新野保@以下數ケ所と云々。

参考@新野保は、岡山県津山市新野東らしい。西中・新野山形も入るかも?旧美作国勝北郡新野庄。

現代語貞應三年(1224)九月大九日壬申。晴れです。陸奥守足利義氏が、褒美を追加されました。美作国新野保以下数か所だそうな。

貞應三年(1224)九月大十三日丙子。リ。戌刻熒惑犯南斗之由。司天申之。

読下し                     はれ いぬこのこく けいわく なんと  おか   のよし  してん これ  もう
貞應三年(1224)九月大十三日丙子。リ。 戌刻 熒惑、南斗@を犯す之由、司天之を申す。

参考@南斗は、斗宿で、いて座中東部。 参考の【20】

現代語貞應三年(1224)九月大十三日丙子。晴れです。午後八時頃に、熒惑星火星が射手座中東部の斗宿を犯したと天文方が報告しました。

貞應三年(1224)九月大十五日戊寅。鶴岳放生會式月延引。今日被遂行。相州爲若君御奉幣御使也。束帶々釼云々。

読下し                    つるがおか ほうじょうえ しきげつえんいん   きょう すいこうされ
貞應三年(1224)九月大十五日戊寅。鶴岳の放生會 式月延引し、今日遂行被る。

そうしゅう わかがみ  ごほうへい  おんしたるなり  そくたいたいけん  うんぬん
相州 若君の御奉幣の御使爲也。束帶々釼と云々。

現代語貞應三年(1224)九月大十五日戊寅。鶴岡八幡宮の生き物を放つ放生会を延期したので、今日実施しました。相州時房さんが若君三寅の代参です。束帯に帯剣だそうな。

貞應三年(1224)九月大十六日己夘。陰リ。寅刻。太白犯辰星云々。今日。流鏑馬已下神事如例。相州參宮同昨日。三浦駿河前司。出羽守以下候廻廊。小山判官朝政警固馬塲。

読下し                     くも  はれ  とらのこく  たいはく しんせい おか   うんぬん  きょう   やぶさめ  いげ    しんじ れい  ごと
貞應三年(1224)九月大十六日己夘。陰りリ。寅刻、太白 辰星を犯すと云々。今日、流鏑馬已下の神事例の如し。

そうしゅうの さんぐうきのう  おな    みうらのするがぜんじ  たんばのかみ いげ かいろう  こう   おやまのほうがんともまさ ばば   けいご
相州の參宮昨日に同じ。三浦駿河前司、出羽守 以下廻廊に候ず。小山判官朝政 馬塲を警固す。

現代語貞應三年(1224)九月大十六日己卯。曇りのち晴れ。午前四時頃に太白星金星が辰星水星を犯しました。
今日、流鏑馬を始めとする奉納は何時もの通りです。時房さんの代参は昨日と同じです。駿河前司三浦義村・出羽守中条家長
以下の御家人が回廊に来ました。小山判官朝政は、馬場の警備です。

貞應三年(1224)九月大十七日庚辰。夘刻地震。天變御祈等被行之。

読下し                      うのこくぢしん  てんぺん おいのりらこれ  おこなはれ
貞應三年(1224)九月大十七日庚辰。夘刻地震。天變の御祈等之を行被る。

現代語貞應三年(1224)九月大十七日庚辰。午前六時頃に天変のお祈りを行いました。

十月へ

吾妻鏡入門第廿六巻

inserted by FC2 system