吾妻鏡入門第廿六巻

貞應三年甲申(1224)十月小

貞應三年(1224)十月小一日甲子。今日。武州招請駿河前司義村。小山判官朝政。出羽守以下宿老。勸盃酒。及贈物云々。

読下し                    きょう   ぶしゅう するがぜんじよしむら  おやまのほうがんともまさ  でわのかみ いげ   すくろう しょうせい
貞應三年(1224)十月小一日甲子。今日、武州 駿河前司義村、 小山判官朝政、 出羽守以下の宿老を招請し、

はいしゅ  すす   おくりもの  およ    うんぬん
盃酒を勸め、贈物に及ぶと云々。

現代語貞應三年(1224)十月小一日甲子。今日、泰時さんは、駿河前司三浦義村や小山判官朝政・出羽守中条家長などの長老を招待して、酒を勧め、贈り物をしましたとさ。

貞應三年(1224)十月小十日壬子。宰相中將實雅卿可被配流越前國之由被定之云々。

読下し                   さいしょうちうじょう さねまさきょう  えちぜんのくに はいるされ  べ   のよし  これ  さだ  られ    うんぬん
貞應三年(1224)十月小十日壬子。宰相中將 實雅卿@は、 越前國へ配流被る可き之由、之を定め被ると云々。

参考@宰相中將實雅は、一条能保の三男。義時の娘婿。

現代語貞應三年(1224)十月小十日壬子。宰相中将一条実雅さんを、越前国へ流罪にすることに、決定しましたとさ。

貞應三年(1224)十月小十六日己酉。天變御祈被行之。嶋津左衛門尉忠久爲奉行。又一方供料沙汰進云々。
 愛染護摩  弁僧正   藥師護摩   左大臣律師
 不動護摩  大進僧都  北斗護摩   信濃法眼
 七曜供   助法眼珎譽 三万六千神祭 リ幸
 天地災變祭 リ職    属星祭    信賢
 太白星祭  文元    熒惑星祭   重宗

読下し                     てんぺん  おいの  これ  おこな れる  しまづのさえもんのじょうただひさ ぶぎょう  な
貞應三年(1224)十月小十六日己酉。天變の御祈り之を行は被。 嶋津左衛門尉忠久 奉行を爲す。

また  いっぽう  くりょう   さた   すす    うんぬん
又、一方の供料の沙汰を進むと云々。

  あいぜんごま     べんのそうじょう        やくしごま         さだいじんりっし
 愛染護摩  弁僧正     藥師護摩   左大臣律師

  ふどうごま       だいしんそうづ         ほくとごま         しなのほうげん
 不動護摩  大進僧都    北斗護摩   信濃法眼

  しちようく       すけのほうげんちんよ     さんまんろくせんしんさい はるゆき
 七曜供@   助法眼珎譽   三万六千神祭 リ幸

  てんちさいへんさい はるもと            ぞくしょうさい        のぶかた
 天地災變祭 リ職      属星祭    信賢

  たいはくせいさい  ふみもと            けいこくせいさい      しげむね
 太白星祭  文元      熒惑星祭   重宗

参考@七曜供は、一週間の日月火水目金七天体信仰の護摩炊き。

現代語貞應三年(1224)十月小十六日己酉。星の運航の異常に対し、悪いことが怒らないよう天変にお祈りを捧げました。島津左衛門尉忠久が指揮担当しました。又、一方のお供え物を負担しましたとさ。

愛染明王への護摩焚きは、弁僧正。   薬師如来への護摩焚きは、左大臣律師。
お不動様への護摩炊きは、大進僧都観基。北斗星への護摩炊きは、信濃法眼道禅。
七曜のお経は、助法眼珍誉。      三万六千神は、安陪晴幸。
天地災変祭は、安陪晴職。       属星祭は、安陪信賢。
太白星(金星)祭は、安陪文元。     螢惑星(火星)祭は、安陪重宗。

貞應三年(1224)十月小廿八日辛酉。阿波國麻殖〔ヲエ〕保預所左衛門尉C基。与地頭小笠原太郎長經。日來有相論事。今日。於兩國司御前。遂一决。C基申云。當保者。依康頼法師功。自右大將家拝領。于今相傳領掌之處。長經稱謀反跡。申賜訖。非正理。早可被返付之由云々。長經申云。C基。去承久三年兵乱之時候院中。著腹巻加官軍。剩於自宅。出立和田新兵衛尉朝盛法師。令向戰塲云々。C基重云。伯父左衛門尉仲康。与朝盛入道者朋友也。於其所。令對面之外。全不同心云々。而彼兵乱之比。C基遣于當國守護人佐々木弥太郎判官高重之状云。爲男種之者。雖一人御大切也。麻殖人々。奉付御邊神妙也者。其状忽然出來之間。備披覽。逆節無疑之趣有沙汰。被弃損C基訴訟云々。

読下し                     あわのくに おえのほう あずかりどころ さえもんのじょうきよもと と   ぢとう おがさわらのたろうながつね  ひごろ そうろん  ことあ
貞應三年(1224)十月小廿八日辛酉。阿波國 麻殖保@預所の 左衛門尉C基 与、地頭 小笠原太郎長經、 日來相論の事有り。

きょう   りょうこくし   ごぜん   をい    いっけつ  と     きよもともう    い
今日、兩國司の御前に於て、一决を遂ぐ。C基申して云はく。

とうほうは   やすよりほっし   こう  よっ    うだいしょうけ よ   はいりょう   いまに そうでん りょうしょうのところ  ながつねむほん あと しょう     もう  たま   をはんぬ
當保者、康頼法師の功に依て、右大將家自り拝領し、今于相傳し領掌之處、 長經謀反の跡と稱し、申し賜はり 訖。

せいり  あらず  はや  かえ  つ   られ  べ   のよし  うんぬん  ながつねもう    い
正理に非。早く返し付け被る可き之由と云々。 長經申して云はく。

きよもと  さんぬ じょうきゅうさんねん へいらんのとき いんちう そうら   はらまき  つ   かんぐん  くは
C基、去る 承久三年 の兵乱之時 院中に候ひ、腹巻を著け官軍に加はる。

あまつさ じたく  をい   わだのしんひょうえのじょうとももりほっし いでたた   せんじょう むか  せし    うんぬん
剩へ自宅に於て、和田新兵衛尉朝盛法師を出立せ、戰塲に向は令むと云々。

きよもとかさ    い       おじ さえもんのじょうなかやすと  とももりにゅどうは ほうゆうなり  そ  ところ  をい   たいめんせし のほか  まった どうしんせず  うんぬん
C基重ねて云はく。伯父左衛門尉仲康与、朝盛入道者朋友也。其の所に於て、對面令む之外、全く同心不と云々。

しか    か   へいらんのころ  きよもと  とうごくしゅごにん ささきのいやたろうほうがんたかしげに つか    のじょう  い
而るに彼の兵乱之比、C基、當國守護人佐々木弥太郎判官高重于 遣はす之状に云はく。

だんしゅたるのもの  ひとり  いへど ごたいせつなり  おえ   ひとびと  ごへん  ふ  たてまつ  しんみょうなりてへ
男種爲之者、一人と雖も御大切也。麻殖の人々、御邊に付し奉るは神妙也者り。

 そ  じょうこつぜん  いできた  のあいだ  ひらん  そな    ぎゃくせつ うたが な  のおもむき さた あ     きよもと  そしょう  きえんされ    うんぬん
其の状忽然と出來る之間、披覽に備う。 逆節 疑い無き之趣の沙汰有り。C基の訴訟を弃損被ると云々。

参考@麻殖保は、徳島県吉野川市鴨島町麻植塚。

現代語貞應三年(1224)十月小二十八日辛酉。阿波国麻植保の庄園現地管理人預所職の左衛門尉平清基と、幕府派遣の地頭の小笠原太郎長経とが、普段年貢について争いごとがあります。今日、両国司執権の泰時と連署の時房の面前で、訴訟対決をしました。
清基が訴えて云うには、「元検非違使の平康頼法師の手柄によって、頼朝様から(6巻文治2年閏7月22日)与えられ、現在まで相続して管理していたのに、長経が謀反した人の跡地だと申請して与えられたのです。それは正論ではありませんので、早く返還してください。」との事。
長経は反論して云いました。「清基は、承久3年の承久の乱に際に後鳥羽院のもとへ行き、鎧を着けて朝廷軍に参加していました。そればかりか、自分の家から和田新兵衛尉朝盛法師を出発させ、戦場へ向かわせました。」とさ。
清基は、又発言しました。「伯父の左衛門尉仲康と朝盛さんはお友達です。その場所で対面された事以外は、全然味方した訳ではありませんでした。」だとさ。しかし、その承久の乱の時に、清基は、阿波国守護人の佐々木弥太郎判官高重に出した手紙に書いてあるのは、「男どもは一人でも戦に使えるので大切です。麻植の人々をあなたの味方に付けますので、神妙でしょう」とあります。この手紙が突然出て来たので見せました。朝廷側についたことは明白だと決定しましたので、清基の訴訟は却下されましたとさ。

貞應三年(1224)十月小廿九日壬戌。リ。宰相中將〔實雅卿〕於京都解官。配越前國云々。
 參議從三位行右近衛中將兼美作權守藤原朝臣實雅卿。入道前中納言能保卿男。母從五位下行備前守藤家恒女。
 建仁三年正月五日叙從五位下〔皇太后宮。去年朔旦御給。于時名字實俊〕。元久三年四月三日任侍從。承元四年正月五日叙從五位上〔宜秋門院當年御給。改俊字爲雅〕。同十四日兼越前介。建保五年正月廿八日任伊豫守〔侍從如元〕。十二月十二日止守。六年三月六日還任伊豫守。四月九日任左少將。承久元年正月五日叙正五位下〔臨時〕。二年正月六日叙從四位下〔春宮當年御給。少將如元〕。四月六日轉右中將。三年七月廿八日遷讃岐守。十一月廿九日叙從四位上〔臨時〕。貞應元年八月十六日任參議〔右中將如元。其身在關東〕。十一月廿二日叙正四位下。二年正月廿七日兼美作權守。十月廿八日叙從三位。

読下し                     はれ さいしょうちうじょう 〔さねまさきょう〕   きょうと  をい  げかん   えちぜんのくに はい   うんぬん
貞應三年(1224)十月小廿九日壬戌。リ。宰相中將 〔實雅卿〕 京都に於て解官し、越前國へ配すと云々。

  さんぎ じゅさんみぎょう うこのえのちうじょう けん みまさかごんんかみ ふじわらのあそんさねまさきょう にゅうどうさきのちうなごんよしやすきょう  だん
 參議從三位行 右近衛中將 兼 美作權守  藤原朝臣實雅卿。 入道前中納言能保卿 が男。

  はは じゅごいのげぎょうびぜんのかみとうのいえつね おんな
 母は 從五位下行備前守藤家恒 が女。

  けんにんさんねんしょうがついつか じゅごいのげ  じょ    〔 こうたいごうぐう   きょねんさくたんごきゅう  ときにみょうじ    さねとし 〕   げんきゅうさんねんしがつみっか じじゅう  にん
 建仁三年正月五日 從五位下に叙さる〔皇太后宮。去年朔旦御給。時于名字は實俊〕。元久三年四月三日 侍從に任ず。

  じょうげんよねんしょうがついつか じゅごいのじょう  じょ    〔せんしゅうもんいん  とうねん  ごきゅう   とし  じ   あらた  まさ   な  〕    おな    じうよっかえちぜんのすけ かね
 承元四年正月五日 從五位上に叙さる〔宜秋門院が當年の御給。俊の字を改め雅と爲す〕。同じき十四日越前介を兼る。

  けんぽうごねんしょうがつにじうはちにち いよのかみ  にん  〔じじゅうもと  ごと  〕   じうにがつじうににちかみ  と
 建保五年正月廿八日 伊豫守に任ず〔侍從元の如し〕。十二月十二日守を止む。

  ろくねんさんがつむいかいよのかみ げんにん  しがつここのかさしょうしょう にん
 六年三月六日伊豫守に還任す。四月九日左少將に任ず。

  じょうきゅうがんねんしょうがついつか しょうごいげ  じょ    〔りんじ〕    にねんしょうがつむいか じゅしいげ   じょ     〔 とうぐう とうねん  ごきゅう    しょうしょうもと ごと  〕
 承久元年正月五日 正五位下に叙さる〔臨時〕。二年正月六日從四位下に叙さる〔春宮當年の御給。少將元の如し〕

  しがつむいかうちうじょう  てん    さんねんしちがつにじうはちにち さぬきのかみ せん   じういちがつにじうくにち じゅしいじょう  じょ     〔りんじ〕
 四月六日右中將に轉ず。 三年七月廿八日  讃岐守に遷す。十一月廿九日 從四位上に叙さる〔臨時〕

  じょうおうがんねんはちがつじうろくにち さんぎ  にん   〔うちうじょうもと    ごと      そ   み かんとう   あ   〕   じういちがつにじうににち しょうしいげ    じょ
  貞應元年八月十六日  參議に任ず〔右中將元の如し。其の身關東に在り〕。十一月廿二日 正四位下に叙さる。

  にねんしょうがつにじうしちにち みまさかごんのかみ かね  じうがつにじうはちにち じゅさんみ  じょ
  二年正月廿七日  美作權守を兼る。 十月廿八日 從三位に叙さる。

現代語貞應三年(1224)十月小二十九日壬戌。晴れです。宰相中将一条実雅さんは、京都で官職を解任され、越前国へ流罪となりました。

参議 従三位行 右近衛中将兼務美作権守 藤原実雅。出家した入道前の中納言一条能保さんの息子。
お母さんは、従五位下行備前守藤原家恒の娘
建仁3年1月5日 従五位下に任命〔皇太后宮権限の去年12月1日の定期授与で。その時は実俊と名乗りです〕。元久3年4月3日侍従に任命。
承元4年1月5日従五位上に任命〔宣秋門院権限の年間定期授与で。俊の字を雅に変えた〕。同14日越前国次官の介を兼務です。
健保5年1月28日 伊予守に任命されました〔侍従は前のまま〕。12月12日守を辞めさせられる。
6年3月6日伊予守に再任命。4月9日左少将に任命。
承久1年1月5日 正五位に任命〔臨時の授与〕。2年1月6日従四位下に任命〔皇太子(仲恭天皇)の年間定期授与。少将はそのまま〕。
4月6日右中将に転任。3年7月28日讃岐守に転任。11月29日従四位上に任命〔臨時の授与〕。
貞応1年8月16日参議に任命〔右中将元のまま。関東在住〕11月22日正四位下に任命。
2年1月27日美作権守を兼務。10月28日従三位に任命。

説明宰相中將實雅は、一条能保の三男。義時の娘婿。越前へ配流なのに、没年記事と同じ書き方をしているのが疑問。四年後に変死をするらしい。

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