吾妻鏡入門第廿六巻

貞應三年甲申(1224)十一月大 (二十日改元為元仁元年)

貞應三年(1224)十一月大九日辛未。陰。亥刻地震。今日。伊賀四郎左衛門尉朝行。同六郎右衛門尉光重等。依流刑赴鎭西云々。

読下し                     くもり  いのこくらいめい  きょう   いがのしろうさえもんのじょうともゆき  おな   ろくろううえもんのじょうみつしげら
貞應三年(1224)十一月大九日辛未。陰。亥刻地震。今日、伊賀四郎左衛門尉朝行、同じき六郎右衛門尉光重等、

るけい   よっ  ちんぜい  おもむ   うんぬん
流刑に依て鎭西へ赴くと云々。

現代語貞應三年(1224)十一月大九日辛未。曇りです。午後十時頃雷です。今日、伊賀四郎左衛門尉朝行と同じ伊賀六郎右衛門尉光重は、流罪として九州へ向かいましたとさ。

貞應三年(1224)十一月大十三日乙亥。リ陰。申刻雷鳴甚雨。

読下し                      はれくもり さるのこくらいめい はなは あめ
貞應三年(1224)十一月大十三日乙亥。リ陰。申刻雷鳴、甚だ雨。

現代語貞應三年(1224)十一月大十三日乙亥。晴れたり曇ったり。午後四時頃に雷が鳴って大雨です。

貞應三年(1224)十一月大十四日丙子。霽。式部大夫親行。伊具馬太郎盛重等止出仕。被召放所領。是依扈從相公羽林上洛之科也。

読下し                       はれ  しきぶのたいふちかゆき  いぐうまたろうもりしげら  しゅっし  と     しょりょう  め  はなたれ
貞應三年(1224)十一月大十四日丙子。霽。式部大夫親行、伊具馬太郎盛重等出仕を止め、所領を召し放被る。

これ  しょうこううりん じょうらく こしょうの とが  よっ  なり
是、相公羽林上洛に扈從之科に依て也。

現代語貞應三年(1224)十一月大十四日丙子。晴れました。式部大夫源親行と伊具右馬太郎盛重は、職を解かれ、領地を没収されました。それは、一条実雅の京都行に勝手にお供をした罰なのです。

貞應三年(1224)十一月大十五日丁丑。申刻雷鳴。

読下し                      さるのこくらいめい
貞應三年(1224)十一月大十五日丁丑。申刻雷鳴。

現代語貞應三年(1224)十一月大十五日丁丑。午後四時頃雷です。

貞應三年(1224)十一月大十八日庚辰。霽。武州爲故右京兆周關御追福。被建立伽藍。今日立柱。右近將監景綱奉行云々。

読下し                       はれ  ぶしゅう  こうけいちょう  しょうけつごついぶく ため  がらん  こんりゅうされ
貞應三年(1224)十一月大十八日庚辰。霽。武州、故右京兆の周御追福の爲、伽藍を建立@被る。

きょうりっちゅう  うけんしょうげんかげつな ぶぎょう   うんぬん
今日立柱。右近將監景綱 奉行すと云々。

参考@伽藍を建立は、新造釋迦堂で、鎌倉市浄明寺釈迦堂にあった。嘉禄元年(1225)六月十三日条で完成供養。清涼寺式釈迦如来像で、現在は東京都目黒区行人坂の大円寺にある。

現代語貞應三年(1224)十一月大十八日庚辰。晴れました。武州泰時さんは、亡き右京兆義時さんの一周忌の供養に向けて、お堂を建てる事にしました。今日柱建てです。右近将監尾藤景綱が指揮担当です。

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