吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿元年乙酉(1225)五月小

嘉祿元年(1225)五月小一日辛酉。弁僧正定豪。大藏卿法印良信。駿河前司義村。隱岐入道行西。并陰陽權助國道等依召而參會。二品以行西被仰出云。當時世上病死之者及數千爲攘其災。心經尊勝陀羅尼各萬巻可被書寫供養。且可爲何樣哉。可計申云云。僧正申云。屈千口僧。可被講讀一千部仁王經歟云云。又僧正法印申云。嵯峨天皇御宇。疫癘發。五畿七道夭亡之族甚多。仍染震筆。令御書寫心經給。以弘法大師。被遂供養云云。就之心經等書寫之事。猶可宜之由。有其沙汰。則書寫供養日時可擇申之旨。被仰國通(道)。以今月十四日。廿二日所擧申也。

読下し                   べんのそうじょうていごう おおくらきょうほういんりょうしん するがのぜんじよしむら  おきのにゅうどうぎょうさいなら
嘉祿元年(1225)五月小一日辛酉。弁僧正定豪、 大藏卿法印良信、 駿河前司義村、 隱岐入道行西@并びに

おんみょうのごんのすけくにみち ら めし よってさんかい    にほん  ぎょうさい  もっ  おお  い   され  い
 陰陽權助國道 等 召に依而參會す。二品A、行西を以て仰せ出だ被て云はく。

とうじ せじょうびょうしの ものすうせん  およ  そ わざわい はら    ため  しんぎょう そんしょうだらに おのおの まんがん  しょしゃくようされ  べ
當時世上病死之者數千に及ぶ其の災を攘はん爲、心經、尊勝陀羅尼、各、 萬巻の書寫供養被る可き。

かつう なにようたるべ  や   はか  もう  べ     うんぬん
且は何樣爲可き哉。計り申す可きと云云。

そうじょうもう    い       せんく  そう  くっ    いっせんぶ  におうきょう  こうどくされ  べ   か   うんぬん
僧正申して云はく。千口の僧を屈し、一千部の仁王經を講讀被る可き歟と云云。

また そうじょう  ほういんもう    い        さがてんのう   おんう  えきれいはっ   ごきしちどう ようぼうのやからはなは おお
又、僧正と法印B申して云はく。嵯峨天皇の御宇、疫癘發し五畿七道夭亡之族甚だ多し。

よっ  しんぴつ  そ     しんぎょう おんしょしゃせし  たま    こうぼうだいし   もっ     くよう   と   られ    うんぬん
仍て震筆を染め、心經を御書寫令め給ひ、弘法大師を以て、供養を遂げ被ると云云。

これ  つ   しんぎょうら  しょしゃのこと  なおよろ      べ   のよし  そ    さた あ
之に就き心經C等の書寫之事、猶宜しかる可き之由、其の沙汰有り。

すなは しょしゃくよう   にちじ  たく  もう  べ   のむね  くにみち  おお  られ    こんげつじうよっか    にじうににち  もっ  あ   もう  ところなり
則ち書寫供養の日時を擇し申す可き之旨、國道に仰せ被る。今月十四日から廿二日を以て擧げ申すD所也。

参考@隱岐入道行西は、二階堂行村。
参考A
二品は、北条政子。
参考B僧正と法印は、定豪と良信。
参考C
心經は、般若心経。
参考
D擧げ申すは、推挙する。

現代語嘉禄元年(1225)五月小一日辛酉。弁僧正定豪・大蔵卿法印良信・駿河前司三浦義村・隠岐入道行西二階堂行村と陰陽権助安陪國道が呼ばれて集まりました。二位家政子様が、二階堂行村を通して仰せになったのは、「現在世の中では伝染病のための死者が数千にも及んでいるので、そのたたりをお祓いするために、般若心経・尊勝陀羅尼経のそれぞれを一万巻書き写して供養をするか、それとも他に方法がないか考えるように。」との事です。僧正定豪が云うには、「千人の坊さんに千部の仁王経を読ませてはいかがでしょうか。」又、定豪と法印良信が云うのには、「嵯峨天皇の時代に、癩病(ハンセン病)が流行って、日本中に死者がとても多かったのです。そこで、天皇自ら筆を取って、般若心経をお書きになり、弘法大師に供養させたそうです。」それを聞いて、般若心経を書き写すのが、一層良い事だと、お決めになりました。すぐに、実施の縁起の良い日を占うように、安陪國道に命じられました。今月の14日と22日が良いと、推薦しました。

嘉祿元年(1225)五月小二日壬戌。午刻。京都使者到來。去月廿日改元。改元仁二年爲嘉祿元年。

読下し                   うまのこく  きょうと  ししゃ とうらい    さんぬ つきはつかかいげん  げんにんにねん あらた  かろくがんねん  な
嘉祿元年(1225)五月小二日壬戌。午刻。京都の使者到來す。去る月廿日改元す。元仁二年を改め嘉祿元年と爲す。

現代語嘉禄元年(1225)五月小二日壬戌。昼頃に京都朝廷からの使いが到着しました。先月の20日に改元して、元仁二年を嘉禄元年にしました。

嘉祿元年(1225)五月小三日癸亥。二品御方鰭板中門并織戸可被立之由。有其沙汰。然夏季可有其憚哉否。武州以御書。令問陰陽師給。入六月之後可被造。於鰭板者雖爲五月不可憚之由申之云云。

読下し                   にほん  おんかた   はたいたちうもんなら    おりど   た   られ  べ   のよし  そ   さた あ
嘉祿元年(1225)五月小三日癸亥。二品の御方に、鰭板@中門并びに織戸Aを立て被る可き之由、其の沙汰有り。

しか     かき そ  はばか あ   べ   や いな   ぶしゅうおんしょ もっ    おんみょうじ  と   せし  たま
然るに夏季其の憚り有る可き哉否や。武州御書を以て、陰陽師に問は令め給ふ。

ろくがつ  はい  ののちつくられ  べ     はたいた  をい  は   ごがつたり  いへど はばか べからずのよし  これ  もう    うんぬん
六月に入る之後造被る可き。鰭板に於て者、五月爲と雖も憚る不可之由、之を申すと云云。

参考@鰭板は、板囲い・板塀などに用いる幅広の板。またその板囲い・板塀など。
参考
A織戸は、片開きの折り戸のことらしい。つまり、板塀の中門に折り戸をつけて政務御所との区切りを付け、政子の御所を独立させ、病気の政子に静かな環境を考慮しているのか?

現代語嘉禄元年(1225)五月小三日癸亥。二位家政子様の建物に、板塀の中門と折戸を建てるように、お決めになられました。しかし、夏場に建設をしてよいものか、泰時さんは手紙で陰陽師にお聞きになりました。「六月に入ってから建築した方が良い。板塀は五月でも縁起が悪い事はありません。」と、報告しました。(陰陽師の意見が割れてますね)

嘉祿元年(1225)五月小六日丙寅。武州除服事。被問人々。而此秡者。葬禮沙汰陰陽師可勤歟。他人可用歟事也。權助國通(道)并大監物光行入道等申云。葬禮沙汰人可勤也云云。次源内左衛門尉景房申云。陰陽師令請。可令勤行事也云云。

読下し                   ぶしゅう   じょふく  こと  ひとびと  と   れる
嘉祿元年(1225)五月小六日丙寅。武州、除服@の事、人々に問は被。

しか    こ   はら  は   そうれいさた  おんみょうじ  つと  べ   か   た   ひと  もち    べ   か   ことなり
而るに此の秡へ者、葬禮沙汰・陰陽師 勤む可き歟。他の人を用いる可き歟の事也。

ごんのすけくにみちなら    だいけんもつみつゆきにゅうどうらもう    い     そうれいさたにん  つと  べ   なり  うんぬん
 權助國道 并びに大監物光行入道等申して云はく。葬禮沙汰人が勤む可き也と云云。

つい げんないさえもんのじょうかげふさもう    い     おんみょうじ  う   せし    ごんぎょうせし べ   ことなり  うんぬん
次で源内左衛門尉景房申して云はく。陰陽師が請け令め、勤行令む可き事也と云云。

現代語嘉禄元年(1225)五月小六日丙寅。泰時さんは、父義時の喪明けについて、人々にお聞きになりました。しかし、このお祓いは、葬礼を担当した者なのか、或いは陰陽師が勤めるべきか、それとも他の人に頼むべきかの話です。陰陽師権助安陪国道、それに大監物源光行入道などが云うのには、「葬礼を担当した人が勤めるべきでしょう。」次に源内左衛門尉景房がいうのには、「陰陽師が請け負って勤めるべきでしょうよ。」との事です。

参考@除服は、喪明け。

嘉祿元年(1225)五月小十一日辛未。式部大夫〔朝時〕除服。リ幸勤秡云云。

読下し                     しきぶのたいふ 〔ともとき〕 じょふく    はるゆきはら    つと    うんぬん
嘉祿元年(1225)五月小十一日辛未。式部大夫〔朝時〕除服@す。リ幸秡へを勤むと云云。

参考@除服は、喪明け。

現代語嘉禄元年(1225)五月小十一日辛未。式部大夫朝時が喪明けをしました。安陪晴幸がお祓いを勤めましたとさ。

嘉祿元年(1225)五月小十二日壬申。武州并駿河守〔重時〕陸奥四郎〔政村〕同五郎〔實義〕大炊助〔有時〕等除服秡事。去年故右京兆葬禮者。主計大夫知輔依致沙汰而可令勤之處。所勞之間。以子息爲名代。令行之云云。

読下し                     ぶしゅうなら    するがのかみ 〔しげとき〕   むつのしろう  〔まさむら〕   おな    ごろう  〔さねよし〕  おおいのすけ 〔ありとき〕  ら
嘉祿元年(1225)五月小十二日壬申。武州@并びに駿河守〔重時A、陸奥四郎〔政村B、同じき五郎〔實義C、大炊助〔有時D等の

じょふく  はら    こと  きょねん こうけいちょう そうれいは  かぞえのたいふともすけ さた いた     よって つと  せし  べ   のところ
除服の秡への事、去年故右京兆の葬禮者、主計大夫知輔 沙汰致すに依而勤め令む可き之處、

しょろうのあいだ  しそく  もっ   みょうだい な     これ  おこな せし    うんぬん
所勞之間、子息を以て名代と爲し、之を行は令むと云云。

参考@武州は、泰時で長男。
参考
A重時は、極楽寺流で三男。
参考B政村は、常盤流四郎で五男。
参考C
實義は、金沢流五郎で六男。實泰と名を替える。
参考D
有時は、伊具流妾腹なので六郎扱いの四男。

現代語嘉禄元年(1225)五月小十二日壬申。泰時さん、それに駿河守重時・陸奥四郎政村・同五郎実義・大炊助有時達は、喪明けのお祓いについては、故義時さんの葬礼は主計大夫知輔が担当したので、勤めるべきであるが、病気なので息子が代理として実施したそうな。

説明次男の朝時は、自分で勝手にやった。朝時以来名越流は自分らが本流だと思っているので後々、泰時系の得宗家とぶつかる。

嘉祿元年(1225)五月小十七日丁丑。巳刻地震。

読下し                      みのこく ぢしん
嘉祿元年(1225)五月小十七日丁丑。巳刻地震。

現代語嘉禄元年(1225)五月小十七日丁丑。午前十時頃に地震です。

嘉祿元年(1225)五月小廿日庚辰。千僧供養之事有其沙汰。爲衆僧座。於鶴岳廟庭。被造假屋等云云。

読下し                    せんぞうくようの こと   そ   さた あ     しゅうそう  ざ   ため つるがおかびょうてい をい    かりや ら   つくられ    うんぬん
嘉祿元年(1225)五月小廿日庚辰。千僧供養之事、其の沙汰有り。衆僧の座の爲、 鶴岳廟庭に 於て、假屋等を造被ると云云。

現代語嘉禄元年(1225)五月小二十日庚辰。千人の坊さんでお経を上げる法事について、決定がありました。坊さん達の座席を鶴岡八幡宮の庭に仮設小屋を作るそうな。

嘉祿元年(1225)五月小廿二日壬午。天リ風靜。於鶴岳八幡宮而千二百口僧供養有之。寅刻衆會。各着座於左右廻廊并假屋等。先仁王經一巻轉讀之。次誦心經尊勝陀羅尼等十返。亦心經尊勝陀羅尼各一千巻被摺之。次彼經各百巻。以金泥令書寫畢。是者諸國彼毎一宮可被奉納一巻宛云云。次有供養之儀。導師弁僧正定豪。十物十五種〔被物。砂金。裹物。帖絹。染物。染付。帷糸。白布。藍摺。綿。色革。錢貨。准布〕。加布施。紫宿衣一領。千僧布施。口別。裹物一。帖絹一疋。袋米一〔三斗納之〕。二百僧分。被物一重。帖絹一疋。袋米一〔同上〕。此外諸人加曳出物。布錢扇經袋等物巨多不知其數云云。天下疫氣流布。又炎旱渉旬之間。爲彼御祈。勸諸御家人之人。及此作善。大膳亮廣仲。左近大夫將監佐房等爲奉行云云。

読下し                     そらはれかぜしずか つるがおかはちまんぐう をいて せんいひゃっく  そうくよう これあ     とらのこくしゅうえ
嘉祿元年(1225)五月小廿二日壬午。 天リ風靜。 鶴岳八幡宮に 於而千二百口の僧供養之有り。寅刻衆會。

おのおの  さゆう  かいろうなら    かりや ら  をい  ざ   つ     ま にんのうきょういっかんこれ てんどく    つい  しんぎょう そんしょうだらにら じっぺんとな
 各、 左右の廻廊并びに假屋等に於て座に着く。先ず仁王經一巻之を轉讀@す。次で心經、尊勝陀羅尼等十返誦う。

また  しんぎょう そんしょうだらに おのおの いっせんかんこれ すられ
亦、心經、尊勝陀羅尼 各 一千巻之を摺被る。

つい  か  きょうおのおのひゃっかん こんでい  もっ  しょしゃせし をはんぬ  これは  しょこくか  いちのみやごと いっかんあて ほうのうされ  べ     うんぬん
次で彼の經 各 百巻、金泥を以て書寫令め 畢。 是者、諸國彼の一宮毎に一巻宛を奉納被る可きと云云。

つい  くよう の ぎ あ     どうし べんのそうじょうていごう
次で供養之儀有り。導師は弁僧正定豪。

じうぶつ じうごしゅ 〔かずけもの  さきん つつみもの  ちょうけん そめもの  そめつけ   いし    しらぶ   あいずり  わた  いろがわ  せんか   じゅんぷ 〕     かぶせ   むらさき すくいいちりょう
十物十五種〔被物、砂金、裹物、帖絹、染物、染付、帷糸、白布、藍摺、綿、色革、錢貨A、准布〕。加布施は、紫の宿衣B一領。

せんぞう  ふせ   くべつ  つつみものいち ちょうけんいっぴき  ふくろまいいち 〔さんとこれ  おさ  〕   にひゃくそうぶん かずけものひとえ ちょうけんいっぴき ふくろまいいち 〔どうじょう〕
千僧の布施、口別に、裹物C一、 帖絹一疋、 袋米一〔三斗之を納む〕。二百僧分、被物一重、 帖絹一疋、 袋米一〔同上〕

こ   ほか  しょにんひきでもの  くは    ぬの  ぜに おうぎ きょうぶくろら ものあまた   そ   かず  し   ず  うんぬん  てんか  えっき るふ
此の外、諸人曳出物を加う。布、錢、扇、經袋等の物巨多、其の數を知ら不と云云。天下に疫氣流布す。

また  えんかんしゅん わた のあいだ  か  おいの    ため  ごけにん  すす  もう    のひと   こ   さぜん  およ
又、炎旱旬に渉る之間、彼の御祈りの爲、御家人に勸め諸くる之人、此の作善に及ぶ。

だいぜんのりょうひろなか さこんたいふしょうげんすけふらら ぶぎょう な    うんぬん
 大膳亮廣仲、 左近大夫將監佐房D等 奉行を爲すと云云。

参考@転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。
参考
A錢貨は、鐡銭で鉄で出来た銭の模造品で、銭の魔力をまじないに使う。
参考
B宿衣は、どてら。
参考
C裹物は、風呂敷様の布で包んだもの。
参考D左近大夫將監佐房は、大江。

現代語嘉禄元年(1225)五月小二十二日壬午。空は晴れて風邪は静かです。鶴岡八幡宮で、1200人でお経を上げる法事がありました。午前四時に始まりました。それぞれ左右の回廊と仮設小屋に座りました。まず、仁王経一巻を摺り読みです。ついで般若心経・尊勝陀羅尼経などを十回唱えました。又、般若心経・尊勝陀羅尼経を千巻も版木で摺ったのを奉納しました。ついで、そのお経百巻を金泥(金粉交じりの漆)で書き写しました。これは、諸国の一の宮に一巻づつ奉納するためだそうな。次にお経をあげました。指導僧は弁僧正定豪です。

指導僧へのお布施は、十個に分けた15種類の物です〔被り物・砂金・包み物(風呂敷包)・紬・染物・染付・帷子・白布(晒し絹)・藍摺り・真綿・色皮・銭・貨幣代わりの布〕。おまけのお布施は、紫の略服(狩衣・水干等)一揃え。
千人の坊さんのお布施は、人毎に、包み物一・紬一疋・袋米一〔三斗入り〕。200人の坊さんには、被り物一・紬一疋・袋米〔同上〕。
この他に、御家人達が引き出物を出しました。布・銭・扇・お経を入れる袋など沢山あって、数えきれませんでしたとさ。

世間に伝染病が流行り、日照りが十日以上も続いたので、そのお祈りのために、喜捨を御家人にも勧めたので、この良い行いをすることになったのです。大膳亮広仲と左近大夫将監大江佐房が、担当をしましたとさ。

説明布施や引き出物に銭と出るのは初見。

嘉祿元年(1225)五月小廿四日甲申。去夜雨降。炎旱之間。窮民愁緒之處。法會之後忽有此甘雨。爰知諸天垂感應。國土可歌豊饒者哉。

読下し                     さんぬ よ あめふ    えんかんのあいだ きゅうみんしょうしょのところ  ほうえののち たちま  こ   かんう あ
嘉祿元年(1225)五月小廿四日甲申。去る夜雨降る。炎旱之間、 窮民愁緒之處、 法會之後 忽ち此の甘雨有り。

ここ  しょてんかんのう  たれ    し     こくどほうぎょう  うた  べ   ものや
爰に諸天感應を垂るを知り、國土豊饒を歌う可き者哉。

現代語嘉禄元年(1225)五月小二十四日甲申。前夜雨が降りました。日照りが続いて困った農民が嘆き悲しんでいたけど、法事の後すぐにこの有難い雨が降りました。きっと、神様達から御利益が下った事を知って、国土が満たされることを謳歌すべきでしょう。

嘉祿元年(1225)五月小廿九日己丑。二位家御不例云云。

読下し                       にいけ    ごふれい  うんぬん
嘉祿元年(1225)五月小廿九日己丑。二位家、御不例と云云。

現代語嘉禄元年(1225)五月小二十九日己丑。二位家政子様の具合が悪いそうな。

六月へ

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