嘉祿元年乙酉(1225)六月大
嘉祿元年(1225)六月大二日辛卯。霽。二位家御惱之間。武州爲御沙汰。今日御祈等被始行天地災變咒咀等祭國道朝臣。屬星鬼氣親職。三万六千神。熒惑大土公泰貞。太白星重宗。泰山府君宣賢。天曹地府重宗等奉仕之。 |
読下し はれ にいけ ごのうのあいだ ぶしゅう おんさた な きょう おいのりら しぎょうされ
嘉祿元年(1225)六月大二日辛卯。霽。二位家御惱之間、武州御沙汰と爲し、今日、御祈等を始行被る。
てんちさいへんじゅそ
ら まつり くにみちあそん ぞくしょうきき ちかもと さんまんろくせんしん
けいこくだいどくう
やすさだ たいはくせい しげむね
天地災變咒咀等の祭は國道朝臣。屬星鬼氣は親職。
三万六千神、熒惑@大土公は泰貞。太白星Aは重宗。
たいさんふくん
のぶかた てんそうちふ しげむねら これ ほうし
泰山府君は宣賢。天曹地府Bは重宗等之を奉仕す。
参考@熒惑星(ケイコクセイ)は、火星。
参考A太白星(タイハクセイ)は、金星。
参考B天曹地府祭は、陰陽道で、冥官(みょうかん)を祭って戦死者の冥福などを祈る儀式。六道冥官祭。
現代語嘉禄元年(1225)六月大二日辛卯。晴れました。二位家政子様が具合が悪いので、武州泰時さんの実施として、今日お祈りを始めました。天地災変呪詛の祭は安陪國道さん。属星祭・鬼気祭は安陪親職。三万六千神と螢惑星(火星)大土公は安陪泰貞。太白星(金星)は安陪重宗。泰山府君祭は安陪宣賢。天曹地府は安陪重宗が勤めました。
嘉祿元年(1225)六月大三日壬辰。彼御不例聊御減云云。 |
読下し か ごふれい
いささ ごげん うんぬん
嘉祿元年(1225)六月大三日壬辰。彼の御不例聊か御減と云云。
現代語嘉禄元年(1225)六月大三日壬辰。二位家政子様が多少回復しました。
嘉祿元年(1225)六月大五日甲午。御祈等重而被行之云々。 |
読下し おいのりら かさ
て これ おこな れ うんぬん
嘉祿元年(1225)六月大五日甲午。御祈等重ね而之を行は被ると云々。
現代語嘉禄元年(1225)六月大五日甲午。お祈りを重ねて行いましたとさ。
嘉祿元年(1225)六月大八日丁酉。霽。二位家依御不例之事。今日子刻。被始御逆修。導師信濃僧都道禪云云。 |
読下し はれ にいけ ごふれい の こと よっ きょう
ねのこく おんぎゃくしゅ はじ られ
嘉祿元年(1225)六月大八日丁酉。霽。二位家、御不例之事に依て、今日子刻、御逆修を始め被る。
どうし しなののそうづどうぜん うんぬん
導師は信濃僧都道禪と云云。
現代語嘉禄元年(1225)六月大八日丁酉。晴れました。二位家政子様は病気によって、今日夜中の十二時頃に生きているうちに死後を祈る儀式の逆修を始めたそうな。指導僧は信濃僧都道禅だそうな。
嘉祿元年(1225)六月大十日己亥。霽。前陸奥守正四位下大江朝臣廣元法師〔法名覺阿〕卒。七十八。日來煩痢病云云。 |
読下し はれ さきのむつのかみ
しょうしいのげ
おおえのあそんひろもとほっし 〔ほうみょうかくあ〕 そつ しちじうはち ひごろりびょう わずら うんぬん
嘉祿元年(1225)六月大十日己亥。霽。前陸奥守
正四位下@大江朝臣廣元法師〔法名覺阿〕卒。七十八A。日來痢病を煩うと云云。
参考@前陸奥守正四位下は、一般的に位階を先に書き官職を後に書く、正四位下前陸奥守。
参考A七十八歳は、尊卑分脈では八十三歳になっている。号を源、限一代とあるそうだ。ご門葉扱いである。
現代語嘉禄元年(1225)六月大十日己亥。晴れました。正四位下前陸奥守大江広元さん〔出家して覚阿〕が亡くなりました。享年78才。このところ下痢を患っていましたそうな。
嘉祿元年(1225)六月大十二日辛丑。二位家御不例自去七日御増氣。爲御祈。武州爲御沙汰。有三万六千神御祭。御使藤勾當頼高也。 |
読下し にいけ ごふれい さんぬ なぬかよ おんましげ
嘉祿元年(1225)六月大十二日辛丑。二位家の御不例去る七日自り御増氣@。
おいのり ため ぶしゅう おんさた な さんまんろくせんしん
おまつりあ おんし とうのこうとうよりたかなり
御祈の爲、武州の御沙汰と爲し、三万六千神の御祭有り。御使は藤勾當頼高也。
参考@増氣は、病の気(やまいのけ)が増えるの意味で、具合が余計に悪くなる。
現代語嘉禄元年(1225)六月大十二日辛丑。二位家政子様の御病気が先日の七日から悪くなってきています。お祈りのために泰時さんの負担で、三万六千神のお祭をしました。代参は藤原匂当頼高です。
嘉祿元年(1225)六月大十三日壬寅。リ。今日相當故京兆周闋。武州新造釋迦堂被遂供養。導師弁僧正定豪。請僧二十口。相州已下人々群集。 |
読下し
はれ きょう
こけいちょう しゅけつ
あいあた ぶしゅうしんぞう しゃかどう くよう と られ
嘉祿元年(1225)六月大十三日壬寅。リ。今日故京兆の周闋に相當り、武州新造の釋迦堂@の供養を遂げ被る。
どうし べんのそうじょうていごう しょうそう にじっく そうしゅう いげ ひとびとさんしゅう
導師は
弁僧正定豪。 請僧は二十口。相州已下の人々群集す。
参考@新造釋迦堂は、鎌倉市浄明寺釈迦堂にあった。貞應三年(1224)十一月十八日条に立柱。清涼寺式釈迦如来像で、現在は東京都目黒区行人坂の大円寺に2017.12.04に見に行った。
現代語嘉禄元年(1225)六月大十三日壬寅。晴れです。今日は、亡き義時さんの一周忌に当たり、泰時さんが新しく建てた釈迦堂で法事を行いました。指導僧は、弁僧正定豪。お供の坊さんは20人です。時房さんをはじめ人々が集まりました。
嘉祿元年(1225)六月大十六日乙巳。曇。辰刻。二品御絶入。諸人成群。然而即令復本御。遂日御増氣之間。昨〔十五日〕可令移于新御所給之由。被仰之處。甲辰日有憚之。可爲來廿一日之由。陰陽師勘申。仍延引畢。 |
読下し
はれ
たつのこく にほん たえい たま しょにんむれ な しかしながら すなは ふくほんせし
たま
嘉祿元年(1225)六月大十六日乙巳。曇。辰刻。二品絶入り御う。諸人群を成す。
然而、 即ち復本令め御う。
ひ お おんましげのあいだ さく 〔じうごにち〕 しんごしょに うつ せし たま べ のよし おお
られ のところ こうしん ひの はばか あ
日を遂いて御増氣之間、昨〔十五日〕新御所于移り令め給ふ可き之由、仰せ被る之處、甲辰@の日之憚り有り。
きた にじういちにちたるべ のよし
おんみょうじかん
もう よっ えんいん をはんぬ
來る廿一日爲可き之由、陰陽師勘じ申す。仍て延引し畢。
参考@甲辰は、甲が陽の木、辰は陽の土で相剋である。木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
現代語嘉禄元年(1225)六月大十六日乙巳。曇りです。午前八時頃に、二位家政子様の意識が無くなりました。皆集まってきました。しかしながら、すぐに息を吹き返しました。日毎に具合が悪くなってきているので、昨日〔15日〕新築の建物へ移りたいと云われるけど、甲辰の相剋なので止めた方が良い。来る21日が良いと陰陽師が云うので、延期しました。
嘉祿元年(1225)六月大廿一日庚戌。霽。二品渡御新御所之事。兼被點今日訖。然戌日有憚之由。醫師行蓮依令申而隱岐入道爲奉行。召國道朝臣以下陰陽師六人。而被尋仰之處。戌日有憚之條無本説之由。令申之間。可召决行蓮之旨。仰行西。仍國道朝臣問云。戌日渡御可憚事何文哉。行蓮答云。無所見。士女説也。國道云。士女説皆有由緒。何由緒哉。行蓮閉口而起座畢。隱岐入道此旨令披露聞人咲之。次及晩。猶御絶入之間。於路次定有事歟之由。相州。武州被計申之間。彼六人重而擇申云云。」廿六日乙卯。今日渡御可宜之由。一同擇申之。武州被仰云。乙卯四不出日可有其憚歟云云。彼輩申云。四不出日者。出行忌之。今御移徙之儀也。不可有憚云云。仍治定畢。 |
読下し
はれ にほん しんごしょ
とぎょ の こと かね きょう
てん られをはんぬ
嘉祿元年(1225)六月大廿一日庚戌。霽。二品新御所に渡御之事、兼て今日を點じ被訖。
しか いぬのひはばか あ のよし くすしゆきつら
もうせし よって おきのにゅうどうぶぎょう な
くにみちあそん いげ おんみょうじろくにん め
然るに戌日憚り有る之由、醫師行蓮申令むに依而、隱岐入道@奉行と爲し、國道朝臣以下陰陽師六人を召す。
しか たず
おお られ のところ いぬのひ
はばか あ のじょう
ほんせつな のよし もうせし のあいだ ぎょうれん め けっ べ のむね ぎょうさい おお
而して尋ね仰せ被る之處、戌日
憚り有る之條
本説無き之由、申令む之間、行蓮を召し决す可き之旨、行西に仰す。
よっ くにみちあそん と い いぬのひ
とぎょはばか べ ことなにぶんや ぎょうれん
こた い しょけんな しじょ せつなり
仍て國道朝臣問うて云はく。戌日の渡御憚る可き事何文哉。行蓮
答へて云はく。所見無し。士女の説也。
くにみちい
しじょ せつみなゆいしょあ なん
ゆいしょや ぎょうれんくち と て ざ
た をはんぬ おきのにゅうどう こ むね ひろう
せし き ひとこれ わら
國道云はく。士女の説皆由緒有り。何の由緒哉。行蓮口を閉ざし而座を起ち畢。
隱岐入道此の旨披露令め聞く人之を咲う。
つい ばん
およ なおたえい たま
のあいだ ろじ をい さだ ことあ か のよし そうしゅう ぶしゅうはか もうされ のあいだ か ろくにんかさ て
たく もう うんぬん
次で晩に及び、猶絶入り御う之間、路次に於て定めし事有る歟A之由、相州、武州計り申被る之間、彼の六人重ね而擇し申すと云云。」
にじゅうろくにちきのとう とぎょ
よろ べ のよし いちどうこれ たく もう ぶしゅうおお
られ い
廿六日乙卯、渡御宜しかる可き之由、一同之を擇し申す。武州仰せ被て云はく。
きのとう しふしゅつび そ はばか あ べ か
うんぬん
乙卯四不出日Bは其の憚り有る可き歟と云云。
か やからもう い
しふしゅつうびは
いでゆきこれ い いま ごいし の
ぎなり はばか あ べからず うんぬん よっ
ちじょう をはんぬ
彼の輩申して云はく。四不出日者、出行之を忌む。今御移徙之儀也。憚り有る不可と云云。仍て治定し畢。
参考@隱岐入道は、行西で二階堂行村。
参考A事有る歟は、死んでしまうかもしれない。
参考B四不出日は、出るのが縁起が悪い日。乙卯。戊午。辛酉。壬子。
現代語嘉禄元年(1225)六月大二十一日庚戌。晴れました。二位家政子様の新築への引っ越しについて、予め今日に決めていました。しかし、「戌の日は遠慮した方が良い。」と医者の行蓮が云うので、隠岐入道行西二階堂行村が担当して、安陪國道さんを始めとする陰陽師6人を呼びました。そしてその旨を聞いたところ、「戌の日は遠慮すべきなんて話はありません。」と云いながら、「行蓮を呼んで対決させよう。」と行西二階堂行村に命じました。そして、国道さんが問い詰めたのは「戌の日のお渡りを遠慮すべきだとは、どの文章にあるんですか。」行蓮は答えて「文書にはありません。世間の人が云っているのです。」国道は「世間の説には由緒があるものです。どんな由緒ですか。」行蓮は答えられずに席を立ちました。隠岐入道行西二階堂行村がこの内容を報告した所、聞いてる人は笑いました。
そして、夜になって又も意識が無くなりましたので、引っ越しの途中の道で死んでしまうこともあるのかなーと、時房・泰時が考えて云ったので、陰陽師の六人はなおも占いましたとさ。」
二十六日乙卯の引っ越しが縁起が良いと、陰陽師が声を揃えて進言しました。泰時は「乙卯は四つの出かけるには縁起の悪い日の四不出日じゃないの。」と云いました。陰陽師の連中が答えて「四つの不出日は出て行くのを嫌うもので、今度のは引っ越しですから、遠慮する必要はありませんね。」と云うので、決定しました。