吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉禄元年乙酉(1225)八月大

嘉祿元年(1225)八月大一日己丑。雨降。申酉刻可有日蝕之由。宿曜師與暦道日來相論。雖然依雨降而現否難决云々。

読下し                    あめふ    さるとりのこく にっしょくあ  べ   のよし  すくようじ と   れきどう ひごろ そうろん
嘉祿元年(1225)八月大一日己丑。雨降る。申酉刻 日蝕有る可き之由、宿曜師@與暦道A日來相論す。

しか   いへど  あめふ    よって あらわ   いな  けっ  がた    うんぬん
然りと雖も雨降りに依而 現るや否や决し難きと云々。

参考@宿曜師は、「宿」は二十八宿、「曜」は七曜のことで、「宿曜経」に基づき、星の運行で人の運勢や吉凶を占う天文暦学を行う人。Goo電子辞書から
参考A暦道は、陰陽寮(おんようりよう)の学科の一。暦法を暦生に教授し、別に漏刻の学を付属させた。後世、賀茂氏が世襲。Goo電子辞書から

現代語嘉祿元年(1225)八月大一日己丑。雨降りです。午後四時頃から六時頃に日食があるはずだと、天文方宿曜師と陰陽師暦担当とが普段から論争しています。しかしながら雨降りなので、出るか出ないか決着がつきませんでしたとさ。

嘉祿元年(1225)八月大二日庚寅。御所侍内千鳥飛行。驚有御沙汰。及御占。御病事火事之由。以申酉刻而國道占申之云々。舊御所中千鳥常集云々。

読下し                   ごしょ さむらいない ちどり ひこう     おどろ    ごさた あ     おんうらな   およ
嘉祿元年(1225)八月大二日庚寅。御所の侍内@に千鳥飛行す。驚きて御沙汰有り、御占いに及ぶ。

ごびょう  こと   かじ のよし  さるとりのこく もって くにみちこれ  うらな もう    うんぬん  きゅうごしょちう  ちどり つね  あつ     うんぬん
御病の事、火事之由、申酉刻を以而國道之を占い申すと云々。舊御所中は千鳥常に集まると云々。

参考@侍内は、侍所の内。侍所は、御家人の出仕所。治承4年12月12日の記事では、「十八ケ間」とある。

現代語嘉祿元年(1225)八月大二日庚寅。御所の侍詰所の侍所の中を千鳥が飛び抜けていきました。びっくりして占いをさせました。病気や火事について、飛んだ時刻の午後四時頃から六時頃を安陪國道が占って報告したんだそうな。昔の御所は、千鳥が年中集まっていたんだそうな。

嘉祿元年(1225)八月大十五日癸卯。霽。鶴岳放生會延引。依二品御事觸穢也。

読下し                     はれ  つるがおか ほうじょうええんいん   にほん  おんこと  しょくえ  よっ  なり
嘉祿元年(1225)八月大十五日癸卯。霽。鶴岳の放生會延引す。二品の御事の觸穢に依て也。

現代語嘉祿元年(1225)八月大十五日癸卯。晴れました。鶴岡八幡宮の生き物を放って贖罪する儀式の放生会を延期しました。二位家政子様の死の穢れによってです。

嘉祿元年(1225)八月大廿七日乙卯。霽。今日二品御葬家御佛事。竹御所御沙汰也。導師弁僧正定豪。曼陀羅供庭儀如例。御布施取十五人。二條侍從教定〔參議雅經子〕役御加布施〔砂金百兩〕。未刻。一條太政大臣家御臺所。臨時御佛事被修畢。導師莊嚴房律師行勇。請僧十口。御布施取同前。主馬判官爲奉行而下向。導師御布施。錦被物〔一重〕。同横皮〔在銀打枝。縁以金銀打窠文付之〕。錦六端入銀籠。色々呉綾十段。錦裹物一重。加布施。金百兩。其外濟々焉。請僧十口分。各錦横皮。水精念珠〔懸銀打枝〕。凡毎物盡美盡善。万人以之爲壯觀。但説法依時移而。請僧御布施之間及秉燭。已如無作法。今日。伊賀四郎左衛門尉朝行。同六郎右衛門尉光重蒙厚免。自配所歸參。是依二位家御追福。所被行恩赦也。

読下し                     はれ  きょう にほん ごそうけ おんぶつじ  たけごしょ    ごさた  なり  どうし   べんのそうじょうていごう   まんだらぐ  ていぎ れい  ごと
嘉祿元年(1225)八月大廿七日乙卯。霽。今日二品御葬家御佛事、竹御所@が御沙汰也。導師は弁僧正定豪。 曼陀羅供の庭儀例の如し。

おんふせとり   じうごにん   にじょうじじゅうのりさだ 〔さんぎまさつね  こ 〕   おんかぶせ  〔さきんひゃくりょう〕   えき
御布施取は十五人。二條侍從教定〔參議雅經が子〕御加布施〔砂金百兩〕を役す

ひつじのこく いちじょうだじょうだいじんけみだいどころ  りんじ  おんぶつじ  しゅうされをはんぬ  どうし  しょうごんぼうりっしぎょうゆう  しょうそうじっく  おんふせとりまえ  おな
 未刻、 一條太政大臣家御臺所A、 臨時の御佛事を修被 畢。 導師は莊嚴房律師行勇。請僧十口。御布施取前に同じ。

しゅめのほうがんぶぎょう な   て げこう    どうし  おんふせ  にしき かづけもの 〔ひとえ〕    おな   おうひ  〔 ぎん  うちえだ あ     ふち  きんぎん   もっ  うち かもん これ  つ    〕
主馬判官奉行と爲し而下向す。導師の御布施。錦の被物〔一重〕。同じく横皮〔銀の打枝在り。縁は金銀を以て打文之を付ける〕

にしき ろくたん ぎんかご い    いろいろごあやじったん  にしき ふくろもの ひとえ   かぶせ    きんひゃくりょう  そ  ほか さいさい をはんぬ
錦 六端 銀籠に入る。色々呉綾十段。錦の裹物 一重。 加布施は、金百兩。其の外 濟々 焉。

しょうそう  じっくぶん  おのおの にしき  おうひ  すいしょう ねんじゅ 〔ぎん  うちえだ  か   〕   およ  ものごと  び  つく  ぜん  つく
請僧は十口分。 各 錦の横皮B。水精の念珠〔銀の打枝に懸く〕。凡そ物毎に美を盡し善を盡す。

ばんにん これ もっ  そうかん  な     ただ  せっぽうとき  うつ    よって  しょうそう おんふせのあいだ へいしょく およ   すで  さほう な     ごと
万人 之を以て壯觀と爲す。但し説法時を移すに依而、請僧の御布施之間 秉燭に及ぶ。已に作法無きが如し。

きょう   いがのしろうさえもんのじょうともゆき   おな   ろくろううえもんのじょうみつしげ こうめん  こうむ   はいしょよ   きさん
今日、伊賀四郎左衛門尉朝行、同じく六郎右衛門尉光重 厚免を蒙り、配所自り歸參す。

これ  にいけ   ごついぶく  よっ    おんしゃ おこな れるところなり
是 二位家の御追福に依て、恩赦を行は被 所也。

参考@竹御所は、よし子(女編に美)。又、22巻建保四年(1216)三月五日条で金吾将軍姫君(14歳)と初出演。吾妻鏡では、天福二年(1234)七月二十七日の死亡記事に御歳32歳となっている。双方の記事から数え年で逆算すると1203の生まれのはずだが、書誌には建仁二年(1202)生まれとなっている。満年齢で計算してしまったのか、何か別な資料に基づいているのか分からない。分かったら教えて欲しい。尊卑分脈では、母は木曾義仲の娘とされるが、屋敷が比企谷なので比企能員の娘若狭局と推測されている。なお頼家と若狭局の間に生まれた一幡が建仁3年に6歳なので妹か?
参考A一条太政大臣家御台所は、一条能保の女(一条全子)。西園寺公経(従一位太政大臣)の妻であろう。
参考B横皮(おうひ)は、右肩にかける袈裟。

現代語嘉祿元年(1225)八月大二十七日乙卯。晴れました。今日、二位家政子様の49日(三日前)の法事を竹の御所よし子が実施しました。指導僧は、弁僧正定豪。曼荼羅供を庭で坊さんがぐるぐる歩きながらお経を上げる行道を何時もの様にしました。お布施を差し出す人は15人。二条侍従教定〔参議雅経の息子〕はおまけのお布施〔砂金百両〕を勤めました。午後二時頃、一条太政大臣家の奥さん(一条能保の孫)名義の臨時の法事を実施しました。指導僧は荘厳房律師退耕行勇。お供の坊さんは十人。お布施を出す人は前と同じです。主馬判官三善宗平が実施者代理として鎌倉へ来ました。指導僧へのお布施は、錦のかぶりもの一枚。同様に右肩にかける袈裟〔銀で模様を描く。縁は金銀の鋲で止めています〕。錦六反は銀の籠に入れてます。色とりどりの呉の綾織十反。錦の袋入りひとつ。おまけは金百両、その他にも色々です。お供の坊さんは十人、それぞれに錦の右肩にかける袈裟。水晶の数珠〔銀の枝に掛ける〕。それは、全ての物が綺麗に揃えられて、奉納されています。皆壮観な眺めだと感心してます。ただし、儀式が続いて、お供の坊さんの分のお布施は灯りを灯す時間になってしまい、作法もあったもんではありません。」

今日、伊賀四郎左衛門尉朝行と同六郎右衛門尉光重は、許されて流罪先から帰ってきました(伊賀氏の乱)。二位家政子様の法事によって恩赦がなされたからです。

嘉祿元年(1225)八月大廿八日丙辰。丑刻雷鳴。

読下し                      うのこくらいめい
嘉祿元年(1225)八月大廿八日丙辰。丑刻雷鳴。

現代語嘉祿元年(1225)八月大二十八日丙辰。午前二時頃、雷が鳴りました。

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