嘉禄元年乙酉(1225)九月大
嘉祿元年(1225)九月大三日辛酉。武州終日參候御所中。如駿河前司義村。隱岐入道行西。殊有密談等。理世沙汰歟云々。 |
読下し ぶしゅう しゅうじつ ごしょ なか さんこう
するがのぜんじよしむら おきのにゅうどうぎょうさい ごと こと みつだんら
あ
嘉祿元年(1225)九月大三日辛酉。武州
終日 御所の中に參候し、駿河前司義村、 隱岐入道行西@の如きと、殊に密談等有り。
りせい さた か うんぬん
理世Aの沙汰歟と云々。
参考@隱岐入道行西は、二階堂行村。
参考A理世は、世を治めること。治世。Goo電子辞書から
現代語嘉祿元年(1225)九月大三日辛酉。武州泰時さんは、一日中御所の中に居て、駿河前司三浦義村・隠岐入道行西二階堂行村などと、特に密談をしていました。おそらくこれからの政治問題についてでしょう。
嘉祿元年(1225)九月大八日丙寅。於多胡江河原。爲立八万四千基石塔。弁僧正門弟等相具之。武州。駿州。三浦駿河前司以下被行向之。被沙汰云々。 |
読下し たごえがわら をい はちまんよんせんき せきとう た
ため べんのそうじょう もんていら これ あいぐ
嘉祿元年(1225)九月大八日丙寅。多胡江河原@に於て、八万四千基Aの石塔を立てん爲、
弁僧正 が門弟等之を相具す。
ぶしゅう すんしゅう みうらのするがぜんじ いげ これ ゆ
むか れ さた され うんぬん
武州、駿州、三浦駿河前司以下之に行き向は被、沙汰被ると云々。
参考@多胡江河は、田越川で、逗子市内を沼間(東逗子駅)あたりから逗子駅そばを通って逗子海岸へ流れる川。
参考A八萬四千は、釈尊のお説きになった教え「経」の数と謂われる。
現代語嘉祿元年(1225)九月大八日丙寅。田越川の河原で、八万四千の石塔を立てるため、弁僧正定豪が弟子たちを連れて行きました。泰時さん・駿河守重時・駿河前司三浦義村などがこれに合流して、実施しました。
嘉祿元年(1225)九月大十二日庚午。故大夫判官光季遺領事。有其沙汰。彼子息四郎季村等拝領之。常陸國塩籠庄〔元和田平太知行之〕以下云々。 |
読下し こたいふほうがんみつすえ ゆいりょう こと そ さた あ か しそく しろうすえむら
ら これ はいりょう
嘉祿元年(1225)九月大十二日庚午。故大夫判官光季が遺領の事、其の沙汰有り。彼の子息
四郎季村等之を拝領す。
ひたちのくに
しおごのしょう 〔もと わだのへいた これ ちぎょう 〕 いげ うんぬん
常陸國 塩籠庄@〔元は和田平太之を知行すA〕以下と云々。
参考@塩篭庄は、茨城県東茨城郡城里町塩子(シオゴ)。(旧七会村)
参考A元は和田平太之を知行すから、関東御領→和田義盛→和田胤長→伊賀光季→?→伊賀季村となるようだ。
現代語嘉祿元年(1225)九月大十二日庚午。故大夫判官伊賀光季の以前の領地について、その決定がされました。彼の息子の四郎季村がこれを与えられました。それは常陸国塩釜庄〔元は和田平太胤長が支配していました〕他だそうな。
嘉祿元年(1225)九月大廿日戊寅。武州召集奉行人等。令對面給。有被仰含事。各就賢不肖而可被加賞罸之由云々。 |
読下し ぶしゅう ぶぎょうにんら め
あつ たいめんせし たま おお ふく
られ ことあ
嘉祿元年(1225)九月大廿日戊寅。武州
奉行人等を召し集め、對面令め給ひ、仰せ含め被る事有り。
おのおの けんふしょう つ て
しょうばつ くは られ べ のよし うんぬん
各 賢不肖@に就き而、賞罸を加へ被る可き之由と云々。
参考@賢不肖は、史記に「善悪賢不肖を正し」とある。賢いと愚か。不肖の息子。
現代語嘉祿元年(1225)九月大二十日戊寅。泰時さんは、幕府の裁判員の奉行達に面会して、命じる事がありました。「それぞれが善悪や賢いそうでないをきちんと見極めて、公平に賞罰を与えるように。」との事だそうな。