吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉禄元年乙酉(1225)十月大

嘉祿元年(1225)十月大三日庚寅。雨降。相州。武州參御所給。當御所可被移於宇都宮辻子之由。有其沙汰。又可被建若宮大路東頬歟之旨。同及群儀云々。

読下し                    あめふる そうしゅう  ぶしゅう  ごしょ   まい  たま
嘉禄元年(1225) 十月大三日庚寅。雨降。相州、武州、御所へ參り給ふ。

とうごしょ を   うつのみやずし   うつされ  べ   のよし   そ    さた あ
當御所於宇都宮辻子
@へ移被る可し之由、其の沙汰有り。

また  わかみやおおじ ひがしつら たてられ べ   か の むね  おな    ぐんぎ  およ    うんぬん
又、 若宮大路 東頬Aに建被る可き歟之旨、同じく群儀に及ぶと云々。

参考@宇都宮辻子は、鎌倉市雪ノ下二丁目27の宇都宮稲荷の東西の路地。
参考A若宮大路東頬は、宇都宮辻子から北側一帯と思われる。

現代語嘉祿元年(1225)十月大三日庚寅。雨降る。時房さん・泰時さんが御所へ来ました。この御所を宇都宮辻子へ移そうと検討されました。又、若宮大路に沿った東側にたてようかと、検討されましたとさ。

嘉祿元年(1225)十月大四日辛卯。霽。相州。武州相具人々而。宇都宮辻子并若宮大路等。令巡檢。而始被打丈尺。隱岐入道行西爲奉行。事始以下日時事。被尋問國道朝臣。今月十三日。十二月五日。兩日之間可有御意之由申之。然來廿二日。故二品百ケ日也。其御佛事以後。是依可被始而十二月五日可用之旨。令治定畢。可被破却舊御所云々。今日。天火日也云々。

読下し                    はれ  そうしゅう  ぶしゅう  ひとびと  あいぐ   て    うつのみやずし なら   わかみやおおじら じゅんけんせし
嘉禄元年(1225) 十月大四日辛卯。霽。相州、武州、人々を相具し而、宇都宮辻子并びに若宮大路等を巡檢令め、

はじ  て じょうしゃく う たれ
始め而丈尺を打被る
@

おきのにゅうどうぎょうさい ぶぎょう  な    ことはじめ いげ  にちじ   こと  くにみちあそん  じんもんさる
 隱岐入道行西、奉行を爲す。事始以下の日時の事、國道朝臣に尋問被る。

こんげつじゅうさんにち じゅうにがついつか りょうじつのかん  ぎょい あ  べ   のよし   これ  もう     しか  きた  にじゅうににち    こにほん  ひゃっかにちなり
 今月十三日、 十二月五日の兩日之間A、御意有る可し之由、之を申す。然し來る廿二日は、故二品の百ケ日也。

そ   おんぶつじ いご     これ  はじ  られ  べ    よって じゅうにがついつか  もち    べ   のむね  ちじょうせし をはんぬ
其の御佛事以後に、是を始め被る可しに依而十二月五日を用いる可し之旨、治定令め畢。

きゅうごしょ  はきゃくさる  べ    うんぬん   きょう   てんかにち なり  うんぬん
舊御所は破却被る可し
Bと云々。今日、天火日C也と云々。

参考@始め而丈尺を打た被るは、距離を測る。丈尺制は1200年代の都市で京都と奈良だけが打たれ、大宰府は打たれていない。農村では未だに町反歩制を撮っている時代である。一丈は十尺で約3m。若宮大路は丈尺制で出来ているが、頼朝の時代か泰時の時代か不明。幅が十一丈で両端に一丈の堀があるので、土部分は九丈である。
参考A兩日之間は、二つのうち、どちらか一つの意味である。お日柄が良い。
参考B舊御所は破却被る可しは、この時代の建築の引越しルールが分かる。感覚が現代とは違うようで、連続させずに壊してから引っ越すのは、古い因縁を断ち切るの意味があると思われる。又、古材を再利用(リサイクル)する。家具が殆どないので、引越しも楽なようである。
参考C天火日は、月によって縁起の悪い日が変わる。正月・五・九は子の日。二・六・十月は卯の日。三・七・十一月は午の日。四・八・十二月は酉の日。

現代語嘉祿元年(1225)十月大四日辛卯。晴れました。時房さん・泰時さんは、人々を連れて、宇都宮辻子と若宮大路とを調べて歩き、初めて距離を測りました。隠岐入道行西二階堂行村が指揮担当をしました。着工式を始めとする日時の縁起について、安陪國道さんにお聞きになりました。今月の13日・12月5日の間がよろしいかと思いますが、22日は二位家政子様の百か日ですので、その法事の後にした方が良いので、12月5日にしましょうと、お決めになりました。古い方の御所は取り壊す事にしましたとさ。今日は、10月の卯の日は天火日なので縁起の悪い日です。

参考「鎌倉市史」の著者である「高柳氏」の説では、「保制(ほうせい)」をとっていたはずと云ってる。室町時代に「由比保」があったのは確か。鎌倉文書には「保々に仰せて・」と書かれている。各保ごとに「保司(ほうじ)」と云う役人が置かれていたらしい。侍所別当から保司に命令が出ている。保司は五人組ならぬ五十人組。
他に「戸主(へぬし)」の単位があり、一戸主は五丈×十丈で百五十坪(450u)。普通の御家人に与える屋敷の広さが一戸主。室町時代になると間別銭を取るようになるので、間口の狭い奥行きのある「うなぎの寝床」が増える。泰時の執権館を計ると八戸主。北条一族の屋敷は小さいのでも三戸主以上ある。国大付属小学校北側での発掘された武士の屋敷はぴったり五戸主。
嘉祿元年(1225)十月大十一日戊戌。子刻大地震。

読下し                     ねのこくおおぢしん
嘉祿元年(1225)十月大十一日戊戌。子刻大地震。

現代語嘉祿元年(1225)十月大十一日戊戌。夜中の12時頃に大地震です。

嘉祿元年(1225)十月大十三日庚子。雨降。雷鳴。今日。御所造營勘文被召之。矢野外記大夫爲奉行。於御前令披閲云々。其状云。
 擇申 可被立御所雜事日時
  始木作日時
   今月廿三日庚戌   時辰申
   十一月七日甲子   時巳未
  居礎日時
   廿三日庚辰     時巳申
  立柱上棟日時
   十二月五日辛卯   時卯午
    立柱次第 先西 次東 次南 次北
   嘉祿元年十月十三日          陰陽權助安部國道
 擇申可被立御門雜事日時
  始木作日時
   今月廿三日庚戌   時辰午
   十一月七日甲子   時巳未
  立柱日時
   十七日甲戌     時巳未
   廿三日庚辰     時辰巳
   廿五日壬申     時巳未
  嘉祿元年十月十三日

読下し                       あめふる らいめい  きょう    ごしょ ぞうえい  かんもん  これ  め さる
嘉禄元年(1225) 十月大十三日庚子。雨降。雷鳴。今日。御所造營の勘文、之を召被る。

やののげきだいぶ ぶぎょう   な     ごぜん  をい  ひらん せし    うんぬん  そ   じょう  い
矢野外記大夫
@奉行を爲し、御前に於て披閲令むと云々。其の状に云はく、

  えら   もう     ごしょ   た   らる  べ   ぞうじ   にちじ
 擇び申す 御所を立て被る可く雜事の日時

    こづくり はじ    にちじ
  木作
A始めの日時

       こんげつにじうさんにち かのえいぬ とき  たつさる
   今月廿三日  庚戌 時は辰申

       じういちがつなぬか きのえね  とき  みひつじ
   十一月七日 甲子 時は巳未

   いしずえ すえ    にちじ
  礎を居える
B日時

       にじうさんにち かのえたつ とき  み さる
   廿三日  庚辰 時は巳申

   りっちゅうじょうとう  にちじ
  立柱上棟の日時

       じうにがついつか  かのとう  とき  う うま
   十二月五日 辛卯 時は卯午

         りっちゅう  しだい   ま   にし  つぎ ひがし つぎ みなみ つぎ  きた
    立柱の次第 先ず西 次に東 次に南 次に北

      かろくがんねんじうがつじうさんにち                  おんみょうごんのすけあべのくにみち
   嘉祿元年十月十三日          陰陽權助安部國道

  えら  もう   ごもん   た   らる  べ   ぞうじ    にちじ
 擇び申す御門を立て被る可く雜事の日時

    こづくり はじ    にちじ
  木作始めの日時

       こんげつにじうさんにち かのえいぬ とき  たつうま
   今月廿三日  庚戌  時は辰午

      じういちがつなぬか きのえね  とき  みひつじ
   十一月七日 甲子 時は巳未

    りっちゅう  にちじ
  立柱の日時

       じうしちにち   きのえいぬ とき  みひつじ
   十七日 甲戌  時は巳未

       にじうさんにち かのえたつ  とき  たつみ
   廿三日 庚辰  時は辰巳

       にじうごにち みずのえさる とき  みひつじ
   廿五日 壬申 時は巳未

   かろくがんねんじうがつじうさんにち
  嘉祿元年十月十三日

参考@外記大夫は、矢野倫重。播磨国矢野庄。(この人の日記が残っている。建治三年記写真版・永仁三年記筑波大学)
参考A
木作は、現在の刻みらしい。
参考B礎を居えるは、礎石建築であったことが分かる。後に路盤建築になり、柱石を丸くし裾の曲線によって雨の跳ね上がりを防ぎ長持ちさせるようになる。路盤建築は鎌倉では建長寺が最初。

現代語嘉祿元年(1225)十月大十三日庚子。雨降りで雷です。今日、御所建設の縁起日の上申書を提出させました。矢野外記大夫倫重が担当として御前に開いて見せました。その書かれた内容は、

選びました御所を立てる準備の日時
 材木を削り始める木作始めの日時は
   今月23日庚戌、時間は午前八時から午後四時
  11月7日甲子、時間は午前十時から午後二時。
 礎石をすえる日時は
  23日庚辰、時間は午前十時から午後四時。
 柱立と棟上げ式の日時は
  12月5日辛卯、時間は午前六時から正午。柱立の順は、最初に西、次が東、その次が南、最後に北。
 
 嘉禄元年10月13日  陰陽権助安部國道

選びました門を立てる準備の日時
 材木を削り始める日時は
  今月23日庚戌、時間は午前8時から正午
  11月7日甲子、時間は午前10時から午後2時。
 柱立の日時は
  17日甲戌、時間は午前10時から午後2時
  23日庚辰、時間は午前8時から10時
  25日壬申、時間は午前10時から午後2時
 嘉禄元年10月13日

嘉祿元年(1225)十月大十五日壬寅。雨降。及晩雷鳴。

読下し                     あめふる  ばん  およ  らいめい
嘉祿元年(1225)十月大十五日壬寅。雨降。晩に及び雷鳴。

現代語嘉祿元年(1225)十月大十五日壬寅。雨降りです。晩になって雷。

嘉祿元年(1225)十月大十九日丙午。霽。於武州御亭。相州已下有御所御地定。小路〔宇都宮辻子〕東西間何方可被用哉之事。人々意見區々。爰地相人金淨法師申云。右大將家法華堂下御所地。四神相應最上地也。何可被引移他所哉。然者彼御所西方地被廣。可有御造作也者。兩國司直令問答給。依之弥御不審出來之間。未治定。御占可被行云云。

読下し                       はれ  ぶしゅう  おんてい  をい   そうしゅう いげ ごしょ   おんち さだ  あ
嘉禄元年(1225) 十月大十九日丙午。霽。武州の御亭に於て、相州已下御所の御地定め有り。

うじ  〔 うつのみやずし 〕   とうざい  かん  なにかた  もち  られ  べ   や の こと  ひとびと  いけん まちまち
小路〔宇都宮辻子〕東西の間、何方を用い被る可き哉之事、人々の意見區々。

ここ  ちそうにん こんじょうほっし もう    い       うだいしょうけ   ほけどうした   ごしょち     しじんそうおう さいじょう  ちなり
爰に地相人金淨法師申して云はく、右大將家の法華堂下の御所地は、四神相應@最上の地也。

なん  たしょ   ひ   うつられ  べ   や
何ぞ他所に引き移被る可き哉。

しからずんば か   ごしょ  せいほう  ち   ひろ   られ  ごぞうさ あ   べ  なりてへ     りょうこくし じき  もんどうせし  たま
 然者、 彼の御所の西方の地を廣げ被、御造作有る可き也者れば、兩國司直に問答令め給ふA

これ  よつ  やや ごふしん しゅつらいのあいだ  いま ちじょう      おんうら  おこな らる  べ    うんぬん
之に依て弥御不審 出來之間、 未だ治定せず、御占を行は被る可しと云云。

参考@四神相應は、東に龍の住む川があり、南に朱雀の住む大きな水溜りがあり、西に白虎が住む大道があり、北に玄武が居る山がある地が、最高の地勢とされる。
参考A兩國司直令問答給は、普段は直答をしていないのか?

現代語嘉祿元年(1225)十月大十九日丙午。晴れました。武州泰時さんのお屋敷で、相州時房さん以下が集まり、新御所の土地を決めました。小路〔宇都宮辻子〕の東西のどちらにするか、皆の意見がバラバラです。そこで、土地を占う地相見の金浄法師が云うには、「頼朝様の法華堂の下の土地が、四神相応で最上の地相です。なんで引っ越す必要がありましょうか。不便ならばあの御所の西側の土地を広げて、新築すればよいではありませんか。」と云ったので、泰時さんと時房さんが、直接意見を交わしました。このおかげで、多少疑問が出たので、決められませんでした。占いをさせる事にしましたとさ。

嘉祿元年(1225)十月大廿日丁未。リ。相州。武州等令參會給。御所地事。重有御沙汰。可决卜筮之由云云。仍被召國道朝臣以下七人陰陽師。以法華堂下地爲初一。以若宮大路。爲第二。而兩所之間。可被用何地哉之由。可占申之旨。被仰含之處。國道朝臣申云。可被引移御所於他方之由。當道勘申畢。然於一二御占者。若可付第一之趣。有占文者。申状既似有兩樣歟。難及一二之御占云云。珍譽法眼申云。法華堂前御地。不可然之處也。西方有岳。其上安右幕下御廟。其親墓高而居其下。子孫無之之由見本文。幕下御子孫不御坐。忽令符合歟。若宮大路者。可謂四神相應勝地也。西者大道南行。東有河。北有鶴岳。南湛海水。可准池沼云云。依之此地可被用之旨。治定畢。但東西之事者。被聞食御占。西方最可爲吉之由。面々申之。信賢一人不同申之。東西共不吉也云云。

読下し                   はれ  そうしゅう  ぶしゅうら さんかいせし  たま
嘉祿元年(1225)十月大廿日丁未。リ。相州、武州等參會令め給ふ。

ごしょ   ち   こと  かさ     ごさた  あ     ぼくぜい けつ  べ   のよし  うんぬん
御所の地の事、重ねて御沙汰有り。卜筮で决す可き之由と云云。

よっ  くにみちあそん いげ しちにん おんみょうじ  めされ   ほけどう   した  ち   もっ  はじめ いち  な     わかみやおおじ もっ    だいに  な
仍て國道朝臣以下七人の陰陽師を召被、法華堂の下の地を以て初の一と爲し、若宮大路を以て、第二と爲す。

しか   りょうしょのあいだ  いず    ち   もち  られ  べ   や のよし  うらな もう  べ   のむね  おお  ふく  られ  のところ  くにみちあそん もう    い
而るに兩所之間、何れの地を用い被る可き哉之由、占い申す可し之旨、仰せ含め被る之處、國道朝臣申して云はく。

ごしょ  を たほう   ひ   うつされ  べ   のよし  とうどう  かん  もう をはんぬ
御所於他方に引き移被る可き之由、當道が勘じ申し畢。

しかれ  いち に  おんうら  をい  は   も   だいいち つ   べ  のおもむき  せんぶんあ  てへ      もう  じょうすで  に  りょうようあ   か
然ども一二の御占に於て者、若し第一に付く可き之趣、 占文有り者れば、申し状既に似て兩樣有る歟。

いちに のおんうら  およ  がた    うんぬん
一二之御占に及び難しと云云。

ちんよほうげん もう    い        ほけどう  まえ  おんち     しか  べからずのところなり  さいほう  おかあ     そ   うえ   うばっか   ごびょう  やす
珍譽法眼申して云はく。法華堂の前の御地は、然る不可 之處也。 西方に岳有り。其の上、右幕下の御廟を安んず。

 そ   おや はか たか    て そ   した  い     しそんこれな   のよしほんもん  み     ばっか   ごしそん   おはさず   たちま ふごうせし  か
其の親、墓高くし而其の下に居る。子孫之無き之由本文に見ゆ。幕下の御子孫は御坐不。忽ち符合令む歟。

わかみやおおじは  しじんそうおう  しょうち  い     べ   なり  にしは だいどう  なんこう   ひがし かわあ    きた つるがおかあ   みなみ かいすい たた
若宮大路者、四神相應の勝地と謂ひつ可き也。西者大道が南行し、東に河有り。北に鶴岳有り、南に海水を湛える。

ちしょう  じゅん べ     うんぬん  これ  よっ  こ   ち   もち  られ  べ   のむね  ちじょう おはんぬ
池沼に准ず可きと云云。之に依て此の地を用い被る可き之旨、治定し畢。

ただ    とうざいの ことは   おんうら  き     めされ    さいほうもっと きちたるべ   のよし  めんめんこれ もう
但し、東西之事者、御占を聞こし食被る。西方最も吉爲可き之由、面々之を申す。

のぶかたひとり これ もう  どうぜず  とうざいとも  ふきつなり  うんぬん
信賢一人之を申し同不。東西共に不吉也と云云。

現代語嘉祿元年(1225)十月大二十日丁未。晴れです。相州時房さんは、武州泰時さんと集まって、新御所の土地について、なお検討し、占いで決めることにしたそうな。それで、安陪國道さんを始めとする7人の陰陽師を呼び集め、頼朝法華堂の下の土地を一番目として、若宮大路を二番目としました。この両方の土地の内、どっちに決めたらよいのか、占って報告するように命じられたところ、安陪國道さんが言うには、「御所をよそへ引っ越すように、陰陽道は進言しました。しかしながら、一と二とで占えば、もし一が良いと占いが出れば引っ越す必要がないので、云ってることが二つになってしまいます。ですから一と二のどっちかに占うことはできません。」だそうな。珍与法眼が云うには、「法華堂の前の土地は、良いとは言えません。西側に山があります。それに頼朝様が墓におられます。親の墓が高い処にあり、その子供等が下に住んでると、子孫は絶えると占いの本にあります。頼朝様の子孫は絶えていますので、ぴったり符合しています。若宮大路は、四神相応の勝った土地と云えます。西には、武蔵大路の大道が、東には滑川があり、北には大臣山、南には海があります。海は池や沼に似ております。」だとさ。この意見を採用してこの地にしようとお決めになられました。但し、東西どちらに寄せるかは、占いをさせましたら、西側が最も良いと、陰陽師達が云いました。安陪信賢一人だけが反対しました。東西双方ともに不吉なんだそうな。

嘉祿元年(1225)十月大廿二日己酉。リ。二位家百ケ日御佛事也。武州爲御沙汰被修之。導師信濃僧都道禪。請僧二十口云云。

読下し                     はれ   にいけ  ひゃっかにち  おんぶつじなり  ぶしゅう   ごさた   な   これ  しゅうされ
嘉祿元年(1225)十月大廿二日己酉。リ。二位家の百ケ日の御佛事也。武州の御沙汰と爲し之を修被る。

どうし   しなののそうづどうぜん  しょうそう   にじっく   うんぬん
導師は信濃僧都道禪。請僧は二十口と云云。

現代語嘉祿元年(1225)十月大二十二日己酉。晴れです。二位家政子様の百か日の法事です。泰時さんが主催して行いました。指導僧は、信濃僧都道禅で、お供の坊さんは20人だそうな。

嘉祿元年(1225)十月大廿七日甲寅。リ。國道朝臣參武州御亭。申云。今曉太白入弖(氐)。御愼文分明歟。隨而日來天変連々出現訖。御所營作事。可被延引歟云云。仍被行御占。可有何年御沙汰哉之趣也。可爲今年之由各占申。重宗今明年共不可然之由申之。リ賢申云。造内裏以下作事。天變不憚之上。明年若君御年九。不可有御造作之御年也。早今年可被始成風之功云云。彼是共尾藤左近將監景綱爲申次云云。

読下し                     はれ  くにみちあそん  ぶしゅう  おんてい  まい    もう     い

嘉祿元年(1225)十月大廿七日甲寅。リ。國道朝臣、武州の御亭に參り、申して云はく。

こんぎょう たいはくてい い   おんつつしみ ふみ ぶんみょう   か  したが て ひごろ てんぺん れんれん しゅつげん おはんぬ
今曉 太白
@Aに入る。御愼み文 分明なる歟。隨い而日來 天変 連々 出現し 訖。

ごしょえいさく こと  えんいんさる  べ  か  うんぬん
御所營作の事、延引被る可き歟と云云。

よっ  おんうら おこな れる  なんねん  ごさた あ   べ   や のおもむきなり
仍て御占を行は被。何年に御沙汰有る可き哉之趣也。

ことし たるべ   のよし おのおの うらな もう   しげむね こんみょうねん とも しか  べからずのよしこれ  もう    はるかたもう    い
今年爲可き之由 各 占い申す。重宗 今明年 共 然る不可之由之を申す。リ賢申して云はく。

ぞうだいり  いげ   さくじ     てんぺん はばか ざるのうえ みょうねんわかぎみとしここの    ごぞうさ  あ  べからざる の おんとしなり
造内裏以下の作事は、天變を 憚ら不之上、明年若君御年九つ。御造作有る不可 之 御年也。

はや  ことしせいふうの こう  はじ  られ  べ     うんぬん  かれこれとも  びとうのさこんしょうげんかげつな もうしつぎたり  うんぬん
早く今年成風之功を始め被る可きと云云。彼是共に 尾藤左近將監景綱、 申次爲と云云。

参考@太白星(タイハクセイ)は、金星。
参考A弖(氐)は、氐宿。古代中国の星座。二十八宿の一。現在のてんびん座の第一星を中心とする四星。和名ともぼし。参考の【23】

現代語嘉祿元年(1225)十月大二十七日甲寅。晴れです。陰陽師の国道さんが、泰時さんの屋敷へ来て云うのには、「今朝の夜明けに、金星がてんびん座のともぼしに入りました。これは、静かにしているべきなのが明らかです。それで最近、天の運航の異変が続いて出現して来たのです。ですから、新御所の建設は、延期した方が良いですよ。」だとさ。そこで占いをやらせました。それは、何年に決めたらよいのかと云う事です。「今年が良いですよ。」と皆が占いました。重宗は、「今年も来年もとんでもない。」と云ってます。晴賢は、「内裏の建築などの仕事は、天変を気にする必要はありません。来年若君三寅は、九つになりますので、建設は良くない年になります。早く今年の内に、立派な建築を始めるべきですよ。」との事です。それもこれも、尾藤左近将監景綱(得宗被官頭領)が、取り次ぎましたとさ。

嘉祿元年(1225)十月大廿八日乙卯。御作事今年中可被遂之由。其沙汰治定畢。外記大夫爲奉行云云。」今夕。若君渡御于伊賀四郎左衛門尉朝行大御堂前家。御騎馬。御水干也。駿河守。大炊助。三浦駿河前司。同次郎。後藤左衛門尉等供奉。是可被破却御所之間。爲御本所也。

読下し                      おんさくじ   ことしちう   と   られ  べ   のよし  そ    さた ちじょう をはんぬ  げきのたいふぶぎょう  な    うんぬん
嘉祿元年(1225)十月大廿八日乙卯。御作事、今年中に遂げ被る可き之由、其の沙汰治定し畢。 外記大夫奉行を爲すと云云。」

こんゆう  わかぎみ いがのしろうさえもんのじょうともゆき  おおみどうまえ いえに わた  たま    おんきば  おんすいかんなり
今夕、若君 伊賀四郎左衛門尉朝行の大御堂前@の家于渡り御う。御騎馬、御水干也。

するがのかみ おおいのすけ みうらのするがぜんじ おなじきじろう  ごとうさえもんのじょうら ぐぶ     これ  ごしょ  はきゃくされ  べ   のあいだ  ごほんじょ  な   なり
駿河守、大炊助、三浦駿河前司、同次郎、後藤左衛門尉等供奉す。是、御所を破却被る可き之間、御本所と爲す也。

参考@大御堂前は、勝長寿院前なので、川を渡った先ならば雪ノ下550番あたり、橋を渡る手前なら560番辺りと思われる。

現代語嘉祿元年(1225)十月大二十八日乙卯。新御所建設は、今年中に完成するように、そう決定しました。外記大夫矢野倫重が担当しましたとさ。
今日の夕方、若君三寅は伊賀四郎左衛門尉朝行の勝長寿院前の屋敷へおいでになりました。馬に乗り、水干姿です。駿河守重時・大炊助有時・駿河前司三浦義村・三浦次郎泰村・後藤左衛門尉基綱などがお供をしました。これは、御所を壊している間の仮住まいです。

嘉祿元年(1225)十月大廿九日丙辰。〔十一月節也〕リ。爲被休民庶費煩。被止諸人過差。仍衣裝調度以下事新制符被仰下。今日施行云云。又御所被破始依可有新造他所也。屋々可造進人沙汰也。後藤左衛門尉基綱奉行之。

読下し                      〔じゅういちがつせつ なり〕 はれ  みんしょ  つい    わうら   やす  され  ため  しょにん   かさ   と   られ
嘉祿元年(1225)十月大廿九日丙辰。〔十一月節@也〕リ。民庶の費への煩いを休ま被ん爲、諸人の過差を止め被る。

よっ  いしょう  ちょうど いげ   こと  しんせい ふ   おお  くだされ  きょう せこう    うんぬん
仍て衣裝、調度以下の事、新制の符を仰せ下被、今日施行すと云云。

また  ごしょ  こぼ  はじ  られ    たしょ  しんぞうあ   べ     よっ  なり  おくおくぞうしんすべ  ひと   さた なり  ごとうさえもんのじょうもとつな これ  ぶぎょう
又、御所を破ち始め被る。他所に新造有る可きに依て也。屋々造進可き人の沙汰也。後藤左衛門尉基綱 之を奉行す。

参考@十一月節は、大陰暦の二十四節気の大雪十一月節。雪が大いに降る。

現代語嘉祿元年(1225)十月大二十九日丙辰。〔大雪十一月節句〕晴れです。農民の税金の負担を軽くするために、武家の贅沢を止めさせました。それで、衣装や弓矢などの新作を制限する朝廷の命令が出たので、今日鎌倉で施行しましたとさ。又、御所を壊し始めました。よそに再築するからです。家屋建設を請け負う人々の責任負担です。後藤左衛門尉基綱が指揮担当です。

嘉祿元年(1225)十月大卅日丁巳。霽。戌刻。於御所御地。有大工公祭。伊賀四郎左衛門尉朝行爲奉行。

読下し                   はれ いぬのこく  ごしょ  おんち  をい    だいどくうまつりあ    いがのしろうさえもんのじょうともゆき ぶぎょう  な
嘉祿元年(1225)十月大卅日丁巳。霽。戌刻、御所の御地に於て、大工公祭有り。伊賀四郎左衛門尉朝行奉行を爲す。

現代語嘉祿元年(1225)十月大三十日丁巳。晴れました。午後八時頃、新築する御所の土地で、土地神様と土を掘り起こす契約をする地鎮祭の大土工祭をしました。伊賀四郎左衛門尉朝行が指揮担当です。

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