吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿二年丙戌(1226)五月小

嘉祿二年(1226)五月小四日戊午。小雨洒。申刻。結城七郎朝廣。并甲斐源氏淺利太郎馳參。申云。去月廿七日申刻。白河關於袋辻。号若宮禪師公曉。欲起謀叛。折節相逢于路而令誅戮畢。仍持彼首。生虜一兩輩相具之參上云云。則其首被遣金洗澤。被懸之。與力者五十餘人。其主号禪師大將軍〔名忍寂房〕。是皆博奕不善之族云云。

読下し                    こさめそそ    さるのこく  ゆうきのしちろうともひろ なら     かいげんじ   あさりのたろう は   さん    もう     い
嘉祿二年(1226)五月小四日戊午。小雨洒ぐ。申刻。結城七郎朝廣@并びに甲斐源氏の淺利太郎A馳せ參じ、申して云はく。

さんぬ つき にじうしちにち さるのこく しらかわのせき ふくろつじ をい    わかみやぜんじくぎょう  ごう    むほん  おこ      ほっ
去る 月 廿七日 申刻、 白河關 袋辻に於て、若宮禪師公曉と号しB、謀叛を起さんと欲す。

おりふし みちに あいあ   て ちうりくせし をはんぬ よっ  か   くび  も    いけどり いりょうやから これ  あいぐ   さんじょう   うんぬん
折節 路于相逢い而誅戮令め畢。仍て彼の首を持ち、生虜 一兩輩 之を相具し參上すと云云。

すなは そ   くび かねあらいざわ つか され  これ か   られ
則ち其の首を金洗澤Cに遣は被、之を懸け被る。

よりきは  ごじうよにん    そ   ぬし  ごう  ぜんじだいしょうぐん 〔な   にんじゃくぼう〕  これみな  ばくえきふぜんのやから うんぬん
與力者五十餘人。其の主の号は禪師大將軍〔名を忍寂房〕。是皆、博奕不善之族と云云。

参考@結城七郎朝廣は、結城七郎朝光の子。
参考A
淺利太郎は、知義で山梨県中央市浅利(旧東八代郡豊富村浅利郷)。ここと同月16日の2度の出演のみ。
参考B公曉と号しは、公暁と語り。
参考C金洗澤は、七里ガ浜の行合橋と稲村ガ崎と間。

現代語嘉祿二年(1226)五月小四日戊午。小雨が降ってます。午後四時頃、結城七郎朝広それに甲斐源氏の浅利太郎知義が駆けてきて云うのには、「先月27日午後四時頃白河の関の袋辻で、若宮禅師公暁だと名乗って、謀反を起こそうとしていました。たまたま、道でであったので殺してしまいました。そしてその首を持って、捕虜1・2名を連れて来たのです。」だそうな。すぐにその首を七里ヶ浜で木に吊るして、さらし首にしました。一味は50数人で、首謀者の名は、禅師大将軍〔名前は忍寂坊〕。こいつらはみんな、ばくち打ちの悪玉だとさ。

嘉祿二年(1226)五月小八日壬戌。リ。内藤左衛門尉盛時。去月十九日蒙使宣旨事。今日有評議。可止召名之由被定云云。是父左衛門尉盛家入道追捕盜賊之間。可被行其賞之旨。被仰之處。子息昇進望申。子息有兄弟。所謂嫡男右衛門尉盛親。二男盛時〔今廷尉〕也。而兄盛親者從父。或在京。或在國。弟盛時者候關東。夙夜雖積勞功。守嫡庶之次第。以兄可被補於彼職之旨。先日御吹擧之處。父盛家法師。於京都竊改擧鍾愛次男盛時之間。被 宣下畢。爰父有任雅意之咎。子又無可越兄之理。被究沙汰。及此儀云云。

読下し                   はれ  さいとうさえもんのじょうもりとき  さんぬ つき じうくにち し  せんじ  こうむ  こと  きょう ひょうぎあ
嘉祿二年(1226)五月小八日壬戌。リ。内藤左衛門尉盛時@、去る月 十九日使の宣旨Aを蒙る事、今日評議有りて、

めしな   と     べ   のよしさだ  られ    うんぬん
召名を止めるB可し之由定め被ると云云。

これ  ちち さえもんのじょうもりいえにゅうどう とうぞくついぶのあいだ  そ   しょう おこな れるべ  のむね  おお  られ のところ  しそく   しょうしん  のぞ  もう
是、父 左衛門尉盛家入道 盜賊追捕之間、 其の賞を行は被可き之旨、仰せ被る之處、子息の昇進を望み申す。

しそく  きょうだいあ     いはゆる ちゃくなん うえもんのじょうもりちか  じなんもりとき  〔いま  ていい 〕  なり
子息に兄弟有り。所謂、嫡男 右衛門尉盛親、 二男盛時〔今は廷尉〕也。

しか   あにもりちかは ちち  したが   ある   ざいきょう    ある    ざいこく
而るに兄盛親者父に從い、或ひは在京し、或ひは在國す。

おとうと もりときは かんとう  こう    しゅくよ ろうこう  つ    いへど   ちゃくしょの しだい  もま    あに  もっ  か   しきを ぶされ   べ   のむね
 弟 盛時者關東に候じ、夙夜勞功を積むと雖も、嫡庶之次第を守り、兄を以て彼の職於補被る可き之旨、

せんじつごすいきょのところ ちちもりいえほっし    きょうと   をい ひそか しょうあい  じなんもりとき  あらた おこ  のあいだ  せんげされをはんぬ
先日御吹擧之處C、父盛家法師は、京都に於て竊にD鍾愛の次男盛時を改め擧す之間、宣下被 畢。

ここ  ちち がい  まか     のとがあ     こ またあに  こ     べ   のことわりな      さた   きは  られ  かく  ぎ   およ    うんぬん
爰に父雅意に任せる之咎有り。子又兄を越える可き之 理 無し。沙汰を究め被、此の儀に及ぶと云云。

参考@内藤盛時は、秀郷流。
参考A
使の宣旨は、檢非違使の宣旨。
参考B
召名を止めるは、任官名簿から除名する。板に書くので削り除くので削除する。
参考C先日御吹擧之處は、幕府が推薦した。
参考D竊(ひそか)には、幕府に内緒で。

現代語嘉祿二年(1226)五月小八日壬戌。晴れです。内藤左衛門尉盛時は、先月19日付で検非違使の任命を受けた事について、今日検討会があり、任官名簿から除名することに決めましたそうな。これは、父の左衛門尉盛家入道が、盗賊を捕まえたので、その褒美として表彰しようと云ったら、その分を子供の出世にしてほしいと希望しました。子供に兄弟があって、跡継ぎの長男が右衛門尉盛親、次男が盛時〔現在検非違使の尉〕です。それなのに、兄の盛親は父の命に従い、京都に居たり地元に居たりしています。弟盛時は鎌倉に来て居て、日夜幕府に勤務する手柄をたてておりますが、跡取りと二男の順番を守って、兄がその職に就くように、先日推薦しています。にもかかわらず父の盛家法師は、京都で幕府に内緒で可愛いくて仕方のない次男の盛時に変えて申請したのが認可されてしまいました。そういう訳なので、父が自分の勝手な意思でやった罪があります。次男が兄を越える理屈はありません。検討し尽くしてこのような処分になったそうな。

嘉祿二年(1226)五月小十六日庚午。霽。白河關隱謀輩等召進事。結城七郎。與淺利太郎。日來及相論之間。今日被召决之云云。

読下し                     はれ  しらかわのせき いんぼう  やからら  め  しん    こと  ゆうきのしちろう   あさりのたろう
嘉祿二年(1226)五月小十六日庚午。霽。 白河關の 隱謀の輩等を召し進じる事、結城七郎、與淺利太郎、

ひごろ そうろん  およ  のあいだ  きょう これ  めしけっ  られ    うんぬん
日來相論に及ぶ之間、今日之を召决せ被ると云云。

現代語嘉祿二年(1226)五月小十六日庚午。晴れました。白河関の謀反の連中を捕まえた手柄の事で、結城七郎朝広と浅利太郎知義とが、ずっと争っておりますので、今日呼びつけて判決を言い渡しました。

説明この場合は、勝者を吾妻鏡編集の北条氏が書かないのは、結城氏とは仲が良いのできっと武田党の勝ちだろう。

嘉祿二年(1226)五月小廿三日丁丑。小林五郎。高山五郎等領所請所事。頻依望申之。可被許容之旨。武州今日被仰遣本所云云。件兩人重役奉公之間不諧爲被救也。

読下し                     こばやしのごろう たかやまのごろう ら  りょうしょ うけしょ こと  しき    これ  のぞ  もう    よっ
嘉祿二年(1226)五月小廿三日丁丑。小林五郎@、高山五郎A等領所 請所Bの事、頻りに之を望み申すに依て、

きょようされ  べ   のむねぶしゅう  きょう ほんじょ  おお  つか  され   うんぬん
許容被る可き之旨、武州、今日本所Cへ仰せ遣は被ると云云。

くだん りょうにん やく おも    ほうこう    のあいだ  ふかい  すくわれ ためなり
件の兩人 役を重んじ奉公する之間、不諧Dを救被ん爲也。

参考@小林五郎は、群馬県藤岡市小林。
参考A高山五郎は、群馬県藤岡市高山。
参考B請所は、総受領として全て把握し、上納をまかされる。請所にする事によって、完全な領地化を図れる。
参考C本所は、不明だが、伊勢社や八幡社があるので、御厨ではないとすると関東御領ではないか。
参考D
不諧は、生活が出来ない。

現代語嘉祿二年(1226)五月小二十三日丁丑。小林五郎・高山五郎の領地の納税を請負制にしてほしいと上申しているので、許可してもらえるように、泰時さんが最上級荘園権利者の本所へ伝えさせましたそうな。この二人はとてもまじめに勤務しているから、貧乏を助けてやるためです。

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