吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿三年丁亥(1227)閏三月小

嘉祿三年(1227)閏三月小十七日丙申。快霽。諸國守護地頭所務之事。任貞應二年御下知状致沙汰。市津料供給雜事所飼等事。可停止守護所張行事已下條々。被觸仰六波羅云云。

読下し                      かいせい  しょこく しゅご ぢとう  しょむの こと   じょうおうにん   おんげちじょう  まか   さた   いた
嘉祿三年(1227)閏三月小十七日丙申。快霽。諸國守護地頭の所務@之事、貞應二年Aの御下知状に任せ沙汰を致し、

いち つりょう きょうきゅう ぞうじ  ところがいら  こと  しゅごしょ  ちょうぎょう ちょうじすべ  こと いげ じょうじょう   ろくはら  ふれおお  られ    うんぬん
市津料の供給、雜事の所飼等の事、守護所の張行を停止可き事已下の條々、六波羅に觸仰せ被ると云云。

参考@所務は、領地関係。金銭相続関係は、雑務。
参考A貞應二年は、1223年。7月6日条に新補地頭の得分は、十町に免田一町、反別五升を6月15日宣下とある。

現代語嘉祿三年(1227)閏三月小十七日丙申。快晴です。諸国の守護地頭の領地関係については、貞応二年(1223)の命令書通りに徴収し、市や川港の関銭、労役負担の無理な催促など、守護関係者の僭越な横領は止めるべきなどの箇条書きを、六波羅に送りましたとさ。

嘉祿三年(1227)閏三月小廿日己亥。霽。腰越海邊潮赤而如血。

読下し                     はれ  こしごえ うみへん うしお  あか    て ち  ごと
嘉祿三年(1227)閏三月小廿日己亥。霽。腰越の海邊の潮、赤くし而血の如し。

現代語嘉祿三年(1227)閏三月小二十日己亥。晴れました。腰越の海の色が赤くなって、まるで血のようです。

嘉祿三年(1227)閏三月小廿九日戊申。霽。爲故禪定二品第三年御追善。點大倉大慈寺傍。可被建立伽藍事。日來其沙汰有治定。今日召日次勘文。親職。リ幸以下七人陰陽師令連署。立柱上棟四月二日撰申云云。

読下し                      はれ  こぜんじょうにほん だいさんねん ごついぜん  ため  おおくらだいじじ かたわら てん
嘉祿三年(1227)閏三月小廿九日戊申。霽。故禪定二品 第三年 御追善の爲、大倉大慈寺の傍を點じ、

がらん  こんりゅうされ  べ    こと  ひごろ   そ    さた ちじょうあ
伽藍を建立被る可きの事、日來の其の沙汰治定有り。

きょう ひなみ  かんもん  め     ちかもと  はるゆき いげ しちにん おんみょうじれんしょせし  りっちゅう じょうとう  しがつ ふつか  えら  もう    うんぬん
今日日次の勘文を召す。親職、リ幸以下七人の陰陽師連署令む。立柱 上棟は四月二日を撰び申すと云云。

現代語嘉祿三年(1227)閏三月小二十九日戊申。晴れました。二位家政子様の三回忌の法事のため、大倉郷の大慈寺の境内を指定してお堂を建立しようと、普段から検討してきましたが、決まりました。今日、陰陽師にお日和の上申書を出させました。安陪親職・安陪晴幸いか七人の陰陽師が連名しました。柱立て・棟上げ式は4月2日を選んで出しましたとさ。

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