吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿三年丁亥(1227)四月大

祿三年(1227)四月大二日庚戌。霽。於大慈寺郭内。爲二位家第三年忌武州爲御願。被建立丈六堂。今日上棟也。相州。武州令監臨給。御家人等群參。匠等賜祿物。巨多不遑注記。同日。民部大夫入道行然堂上棟。是又奉爲二品追善也云々。」酉刻。將軍家依御心神不例。御祈等被始行。明日爲重日之故也。

読下し                   はれ  だいじじ かくない  をい    にいけ  だいさんねんき  ため  ぶしゅう  ごがん  な     じょうろくどう こんりゅうされ
嘉祿三年(1227)四月大二日庚戌。霽。大慈寺郭内に於て、二位家第三年忌の爲、武州の御願と爲し。丈六堂を建立被る。

きょう じょうとうなり  そうしゅう ぶしゅうかんりんせし たま    ごけんにんら ぐんさん   たくみらろくぶつ  たま      あまた ちうき いともあらず
今日上棟也。相州、武州監臨令め給ふ。御家人等群參す。匠等祿物を賜はる。巨多注記に遑不。

おな    ひ  みんぶたいふにゅうどうぎょうねん どうじょうとう   これまた  にほんついぜん おほんためなり うんぬん
同じき日、民部大夫入道行然が堂上棟す。是又、二品追善の 奉爲也 と云々。」

とりのこく しょうぐんけ ごしんしん  ふれい  よっ    おいのりら   しぎょうされ    あす  じゅうびたるのゆえなり
酉刻、將軍家御心神の不例に依て、御祈等を始行被る。明日は重日爲之故也。

参考丈六堂は、丈六(立って4.8m、坐像は2.4m)の阿弥陀像を安置するお堂と思われる。現在仏頭のみが十二所の光触寺にある。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二日庚戌。晴れました。大慈寺の境内に、二位家政子様三回忌のために、泰時さんの願として丈六堂を建立します。今日が棟上げ式です。時房さん・泰時さんも立ち会いました。御家人が群れ集まってきました。建築技師たちは褒美を貰いました。沢山なので書ききれません。同じ日に、民部大夫入道行然二階堂行盛のお堂も棟上げ式です。これも同様に二位家政子様への追善供養のためです。」
午後六時頃、将軍頼経様の具合が悪いので、お祈りを始めました。明日は陰が重なる日だからです。

嘉祿三年(1227)四月大三日辛亥。霽。御不例聊御温氣。但今日無異御事云云。

読下し                   はれ  ごふれいいささ  おんぬるけ  ただ  きょう こと    おんことな     うんぬん
嘉祿三年(1227)四月大三日辛亥。霽。御不例聊か御温氣。但し今日異なる御事無しと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大三日辛亥。晴れました。将軍頼経様の具合は、多少熱っぽいようです。但し、今日特別な事はありませんそうな。

嘉祿三年(1227)四月大四日壬子。霽。將軍家十三番相撲御覽之。

読下し                   はれ  しょうぐんけじうさんばん すまい   これ  ごらん
嘉祿三年(1227)四月大四日壬子。霽。將軍家十三番の相撲、之を御覽。

現代語嘉祿三年(1227)四月大四日壬子。晴れました。将軍頼経様は、13番の相撲をご覧になりました。

嘉祿三年(1227)四月大八日丙辰。霽。如法鬼氣祭以下被行御祈。

読下し                   はれ  にょほう ききさい いげ   おいのり おこな れる
嘉祿三年(1227)四月大八日丙辰。霽。如法鬼氣祭以下の御祈を行は被。

現代語嘉祿三年(1227)四月大八日丙辰。晴れました。鬼気祭などのお祈りを規則通りに行いました。

嘉祿三年(1227)四月大十二日庚申。リ。幕府御疊之上有犬糞。驚有御沙汰。被行百恠祭。國継奉仕之。

読下し                     はれ  ばくふ  おん たたみのうえ  いぬ  くそあ     おどろ   おんさた あ     ひゃっけさい おこな れる  くにつぐこれ  ほうし
嘉祿三年(1227)四月大十二日庚申。リ。幕府の御 疊之上に犬の糞有り。驚きの御沙汰有り。百恠祭を 行は被。 國継之を奉仕す。

現代語嘉祿三年(1227)四月大十二日庚申。晴れです。幕府の畳の上に犬の糞がありました。驚いてすぐにお祓いの命令を出しました。百怪祭を行いました。安陪國継が勤めました。

嘉祿三年(1227)四月大十三日辛酉。戌刻地震。今日爲怪異并息〔災〕之御祈。被行七座泰山府君祭。親職。リ賢。泰貞。重宗。文元。道継。國継奉仕云云。

読下し                     いぬのこくぢしん  きょう   かいいなら    そく 〔さい〕 のおいのり  ため  しちざ  たいさんふくんさい おこな れる
嘉祿三年(1227)四月大十三日辛酉。戌刻地震。今日、怪異并びに息〔災〕之御祈の爲、七座の泰山府君祭@を行は被。

ちかもと はるかた やすさだ しげむね ふみもと  みちつぐ  くにつぐ ほうし    うんぬん
親職、リ賢、泰貞、重宗、文元、道継、國継奉仕すと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大十三日辛酉。午後八時頃地震です。今日、昨日の怪しげな出来事と病気にかからないように、七人の泰山府君祭を行いました。安陪親職・安陪晴賢・安陪泰貞・安陪重宗・安陪文元・安陪道継・安陪國継が勤めましたとさ。

説明@泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

嘉祿三年(1227)四月大十六日甲子。霽。近日世上頓死之類甚多。依之或春餠。或煮粥食。所々有此事。今夜御所中被始之。又將軍家依御不例之事。今日於御所南門。被行鬼氣祭。泰貞奉仕之。嶋津豊後守沙汰也。周防前司親實奉行之。

読下し                     はれ  きんじつ  せじょう  とんしのたぐ   はなは おお
嘉祿三年(1227)四月大十六日甲子。霽。近日、世上に頓死之類い甚だ多し。

これ  よっ  ある    はる  もち  ある    かゆ  に     しょく    しょしょ  かく  ことあ     こんや ごしょ ちう これ  はじ  られ
之に依て或ひは春の餠、或ひは粥の煮るを食す。所々に此の事有り。今夜御所中之を始め被る。

また  しょうぐんけ ごふれいのこと   よっ    きょう   ごしょみなみもん をい     ききさい  おこな れる  やすさだこれ ほうし
又、將軍家御不例之事に依て、今日、御所南門に於て、鬼氣祭を行は被。泰貞之を奉仕す。

しまづぶんのかみ   さた なり  すおうのぜんじちかざね これ  ぶぎょう
嶋津豊後守が沙汰也。周防前司親實 之を奉行す。

現代語嘉祿三年(1227)四月大十六日甲子。晴れました。近年、世間では急死がとても多くなってきています。この供養のために、或る者は春の餅、或る者は粥を煮て食べます。あちこちでこの様な行事があります。今夜、御所でもこの行事を始めました。
又、将軍頼経様の病気のために、今日御所の南門で、鬼気祭を行い、安陪泰貞が勤めました。島津豊後守忠久の提供です。周防前司中原親実が担当しました。

嘉祿三年(1227)四月大廿一日己巳。霽。新御所葺裏板。欲葺瓦。然既入五月節之間可憚歟之由。行事隱岐入道。後藤左衛門尉等依申之。被問陰陽師。天井裏板等事者不可憚。屋上者裏板瓦共以五月可忌之由。一同依令申。被閣云云。

読下し                     はれ   しんごしょ   うらいた  ふ    かわら ふ       ほっ
嘉祿三年(1227)四月大廿一日己巳。霽。新御所の裏板を葺き、瓦を葺かんと欲す。

しか  すで  さつきせつ  い  のあいだはばか べ  か のよし  ぎょうじ  おきのにゅうどう   ごとうさえもんのじょう ら これ  もう    よっ    おんみょうじ  とはれる
然し既に五月節@に入る之間憚る可き歟之由、行事の隱岐入道、後藤左衛門尉等之を申すに依て、陰陽師に問被る。

てんじょううらいたら  ことは はばか べからず  おく  うえは うらいた  かわらとも  もっ  ごがつ  い   べ   のよし  いちどうもうせし    よっ    さしお れる  うんうん
天井裏板等の事者憚る不可。 屋の上者裏板、瓦共に以て五月を忌む可し之由、一同申令むに依て、閣か被と云云。

参考@五月節は、芒種(種蒔時)。二十四節気の一。五月節気。太陽の黄経が七五度に達したときをいい、現行の太陽暦で六月五日頃に当たる。[季]夏。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十一日己巳。晴れました。新御所の瓦の下の屋根裏の板を葺いて、瓦を葺きたいと思いました。しかし、五月節気に入るので控えた方が良いのか、建設監督者の隱岐入道行西二階堂行村と後藤左衛門尉基綱が云うので、陰陽師に聞くことにしました。天井裏の板は遠慮することは無い。屋根の上の裏板と瓦は共に控えるべきと、陰陽師一同が云うので、延期しましたとさ。

嘉祿三年(1227)四月大廿二日庚午。リ。武州渡御于大倉御堂。於此所召陰陽道之輩。被問新造堂供養之事。可爲六月十九日之旨。自京都雖擇申。其以前難終土木之功。七月十一日〔正日〕以前日次可計申。五日壬午可爲何樣哉者。リ幸。文元申云。午日將軍御衰日也。尤可有憚云云。泰貞申云。將軍家御衰日。二位家第三年御佛事。非可被憚歟。但十一日戊子無難日也。可被遂之歟云云。親職。宣賢申云。戊子不入吉之上。丈六供養無先規。五日宜云云。各申状既不一揆之間。如駿河前司之衆被評議云。將軍家御衰日無可憚之儀。〔付〕三寳吉日可爲五日之由被定畢。C和天皇御宇貞觀三年辛巳三月十四日戊子。東大寺大佛供養也。

読下し                     はれ  ぶしゅう おおくらみどうに わた  たま   かく  ところ をい おんみょうどうのやから め    しんぞう  どう くよう のこと  とはれる
嘉祿三年(1227)四月大廿二日庚午。リ。武州 大倉御堂于渡り御う。此の所に於て陰陽道之輩を召し、新造の堂供養之事を問被。

ろくがつじうくにちたるべ   のむね  きょうと よ   たく  もう   いへど    そ   いぜん  どぼくのこう   お  がた
六月十九日爲可き之旨、京都自り擇し申すと雖も、其の以前に土木之功を終へ難し。

しちがつじういちにち〔しょうじつ〕 いぜん  ひなみ  はか  もう  べ     いつかみずのえうま いかようたるべ   や てへ
七月十一日〔正日〕以前に日次を計り申す可し。五日 壬午は 何樣爲可き哉者り。

はるゆき ふみもともう     い       うまのひ しょうぐん  ごすいにちなり  もっと はばか あ   べ     うんぬん
リ幸、文元申して云はく。午日は將軍の御衰日@也。尤も憚り有る可きと云云。

やすさだもう    い      しょうぐんけ  ごすいにち    にいけ  だいさんねん  おんぶつじ    はばかるべ     あらざ か
泰貞申して云はく。將軍家の御衰日の、二位家の第三年の御佛事は、憚被可きに非る歟。

ただ  じういちにち つちのえね なんな  ひなり  これ  と   られ  べ   か  うんぬん
但し 十一日 戊子は難無き日也。之を遂げ被る可き歟と云云。

ちかもと  のぶかたもう    い     つちのえね きち  いらざるのうえ  じょうろく  くよう せんき な     いつか  よろ      うんぬん
親職、宣賢申して云はく。戊子は吉に入不之上、丈六の供養先規無し。五日が宜しきと云云。

おのおの  もう  じょう  すで  いっきせざ  のあいだ  するがぜんじごと  のしゅうひょうぎされい
 各 が申し状、既に一揆不る之間、駿河前司如き之衆評議被云はく。

しょうぐんけ  ごすいにちはばか べ   のぎ な     〔 つ       〕 さんぽうきちじつ  いつかたるべ   のよしさだ  られをはんぬ
將軍家の御衰日憚る可き之儀無し。〔付けたり〕三寳吉日は五日爲可き之由定め被 畢。

せいわてんのう  おんう じょうかんさんねん かのとみ さんがつじうよっか つちのえね  とうだいじ  だいぶつくようなり
C和天皇の御宇 貞觀三年 辛巳 三月十四日 戊子、東大寺の大佛供養也。

参考@衰日は、外出したり、戦に出るには縁起がよくない日。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十二日庚午。晴れです。泰時さんが大倉御堂に出かけました。その場所で陰陽師の連中を呼びつけて、新築のお堂の開眼供養についてお尋ねになりました。「6月19日がいいですよと、京都では占い結果を云って来ているけど、それ以前に路盤工事が終えそうもないのです。7月11日〔命日〕以前のお日柄を考えて云うように。5日壬午はどうであろうか?」と云いました。
安陪晴幸と安陪文元が云うには、「午の日は、将軍頼経様の外出に良くない御衰日なので、もっとも控えるべきでしょう。」だとさ。
安陪泰貞が云うには、「将軍頼経様の御衰日に、二位家政子様の法事は控える必要はありませんよ。但し、11日戊子は、問題がない日です。この日にするのが良いでしょう。」だとさ。
安陪親職と安陪宣賢が云うのには、「戊子は、特に良い日には入りません。しかも丈六仏の開眼供養の例はありません。5日がいいですよ。」だとさ。
それぞれの云ってることが、5日で一致しているので、駿河前司三浦義村達、会議のメンバーが検討して云うのには「将軍頼経様の御衰日を控える必要はありません。〔追加して〕三宝(仏法僧)吉日は5日が良いと決めました。清和天皇の時代の貞観三年(861)辛巳三月十四日戊子に東大寺の大仏の開眼供養をしました。

嘉祿三年(1227)四月大廿三日辛未。リ。西國悪黨蜂起之間。仰守護人。可被對治之旨。及御沙汰云云。

読下し                     はれ  さいごく  あくとうほうきのあいだ  しゅごにん  おお      たいじされ  べ   のむね   ごさた    およ    うんぬん
嘉祿三年(1227)四月大廿三日辛未。リ。西國の悪黨蜂起之間、守護人に仰せて、對治被る可き之旨、御沙汰に及ぶと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十三日辛未。晴れです。関西方面での反幕府地侍の反乱には、守護人に命令して退治させることにしようと、お決めになりましたとさ。

嘉祿三年(1227)四月大廿四日壬酉。霽。將軍家御不例之事。時々令發給云云。今日戌刻。有此御氣。武州以下諸人群參云云。

読下し                     はれ  しょうぐんけ ごれいの こと  ときどきはっせし  たま    うんぬん
嘉祿三年(1227)四月大廿四日壬申。霽。將軍家御不例之事、時々發令め給ふと云云。

きょういぬのこく  こ  おんけ あ     ぶしゅう いげ しょにんぐんさん    うんぬん
今日戌刻、此の御氣有り。武州以下の諸人群參すと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十四日壬申。晴れました。将軍頼経様の御病気について、時々発症されます。今日の午後八時頃に発症しました。泰時さんはじめ皆集まってきましたとさ。

嘉祿三年(1227)四月大廿五日癸酉。霽。依御不例之事。御祈可被始行之由。有其沙汰云云。

読下し                     はれ  ごふれいの こと  よっ    おいのり  しぎょうされ  べ   のよし   そ   さた あ    うんぬん
嘉祿三年(1227)四月大廿五日癸酉。霽。御不例之事に依て、御祈を始行被る可き之由、其の沙汰有りと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十五日癸酉。晴れました。将軍頼経様の病気によって、お祈りを始めるように命令が出ましたとさ。

嘉祿三年(1227)四月大廿六日甲戌。霽。亥刻地震。

読下し                     はれ  いのこくぢしん
嘉祿三年(1227)四月大廿六日甲戌。霽。亥刻地震。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十六日甲戌。晴れました。午後十時頃地震です。

嘉祿三年(1227)四月大廿七日乙亥。霽。武州爲御沙汰。將軍家御不例之御祈。三萬六千神已下之御祭被行之。自今日聊有御減氣云云。

読下し                     はれ  ぶしゅう  おんさた  な     しょうぐんけ ごふれいのおいのり  さんまんろくせんしん いげ のおまつり これ  おこは れる
嘉祿三年(1227)四月大廿七日乙亥。霽。武州の御沙汰と爲し、將軍家御不例之御祈、三萬六千神已下之御祭 之を行は被。

きょう よ   いささ  ごげんき あ     うんぬん
今日自り聊か御減氣有りと云云。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十七日乙亥。晴れました。泰時さんの提供で、将軍頼経様の病気のお祈り、三万六千神以下のお祓い祭りを行いました。今日から多少回復してきております。

嘉祿三年(1227)四月大廿九日丁丑。リ。依御不例之事。御祈等被始行。周防前司親實爲奉行。
 佛眼護摩   莊嚴房律師
 尊星王護摩  信濃僧都
 藥師護摩   大進僧都
 北斗護摩   若宮別當僧都
 金剛童子護摩 丹波律師
 正觀音法   山口法眼
 千手法    宰相律師
 不空羂索法  常陸律師
 延命供    越中阿闍梨
 大威徳法   蓮月房律師
  已上内典
 三萬六千神祭 前大膳亮泰貞
 属星     陰陽大允親職
 天地災変祭  陸奥權守國継
 泰山府君祭  右京亮重宗
 咒咀祭    陰陽少允リ幸
 靈氣     散位リ賢
 疫神祭    散位道継
 竃神     圓書助リ職
 土公祭    散位宣賢
  已上外典

読下し                     はれ  ごふれい の こと  よっ    おいのりら  しぎょうされ    すおうのぜんじちかざね ぶぎょう  な
嘉祿三年(1227)四月大廿九日丁丑。リ。御不例之事に依て、御祈等を始行被る。周防前司親實 奉行を爲す。

  ぶつげん ごま      しょうごんぼうりっし
 佛眼護摩   莊嚴房律師

  そんしょうおう ごま    しなのそうづ
 尊星王護摩  信濃僧都

  やくし ごま         だいしんそうづ
 藥師護摩   大進僧都

  ほくと ごま         わかみやべっとうそうづ
 北斗護摩   若宮別當僧都

  こんごうどうじ ごま    たんばりっし
 金剛童子護摩 丹波律師

  しょうかんのんほう     やまぐちほうげん
 正觀音法   山口法眼

  せんじゅほう        さいしょうりっし
 千手法    宰相律師

  ふくうさんさくほう      ひたちりっし
 不空羂索法  常陸律師

  えんめいぐ         えっちゅうあじゃり
 延命供    越中阿闍梨

  だいいとくほう        れんげつぼうりっし
 大威徳法   蓮月房律師

    いじょうないてん
  已上内典@

  さんまんろくせんしんさい さきのだいぜんのすけやすさだ
 三萬六千神祭 前大膳亮泰貞

  ぞくしょう          おんみょうだいじょうちかもと
 属星     陰陽大允親職

  てんちさいへんさい    むつごんのかみくにつぐ
 天地災変祭  陸奥權守國継

  たいざんふくんさい    うきょうのすけしげむね
 泰山府君祭  右京亮重宗

  じゅそさい         おんみょうしょうじょうはるゆき
 咒咀祭    陰陽少允リ幸

  れいけ           さんにはるかた
 靈氣     散位リ賢

  やくしんさい        さんみちつぐ
 疫神祭    散位道継

  かまどがみ         としょのすけはるもと
 竃神     圓書助リ職

   どくうさい         さんにのぶかた
 土公祭    散位宣賢

    いじょう げてん
  已上外典A

参考@内典は、仏教上のお経。
参考A
外典は、お経以外の。

現代語嘉祿三年(1227)四月大二十九日丁丑。晴れです。将軍頼経様の病気についてお祈りを始めさせました。周防前司中原親実が担当します。
 
仏眼の護摩焚きは、荘厳房律師退耕行勇。
 尊星王の護摩炊きは、信濃僧都道禅。
 薬師如来の護摩炊きは、大進僧都観基。
 北斗星の護摩炊きは、若宮別当僧都定雅。
 金剛童子の護摩炊きは、丹波律師頼暁。
 聖観音のお経は、山口法眼。
 千手観音のお経は、宰相律師。
 不空羂索観音のお経は、常陸律師。
 延命のお経は、越中阿闍梨。
 大威徳明王のお経は、蓮月房律師。
  以上が仏教です。
 三万六千神祭は、前大膳亮安陪泰貞。
 属星は、陰陽大允安陪親職。
 天地災変祭は、陸奥権守安陪國継。
 泰山府君祭は、右京亮安陪重宗。
 呪詛祭は、陰陽少允安陪晴幸。
 霊気は、散位安陪晴賢。
 疫神祭は、散位安陪道継。
 竈神は、図書助安陪晴職。
 土公祭は、散位安陪宣賢。
  以上がお経以外。

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