吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿三年丁亥(1227)六月大

嘉祿三年(1227)六月大一日戊申。霽。日蝕正見〔四分〕。

読下し                   はれ  にっしょくせいげん   〔 しぶ 〕
嘉祿三年(1227)六月大一日戊申。霽。日蝕正見す。〔四分〕

現代語嘉祿三年(1227)六月大一日戊申。晴れました。日食がきちんと現れました〔40%〕。

嘉祿三年(1227)六月大八日乙卯。雨降。大倉大慈寺鐘可被鑄之由有其沙汰。後藤左衛門尉。C右衛門志等奉行之。

読下し                    あめふ     おおくらだいじじ   かね  い られ   べ   のよし そ    さた あ
嘉祿三年(1227)六月大八日乙卯。雨降る。大倉大慈寺の鐘、鑄被る可き之由其の沙汰有り。

ごとうさえもんのじょう  せいうえもんさかんら これ  ぶぎょう
後藤左衛門尉、C右衛門志等之を奉行す。

現代語嘉祿三年(1227)六月大八日乙卯。雨降りです。大倉大慈寺の梵鐘を鋳るようにと、決定がありました。後藤左衛門尉基綱・清原右衛門志季氏がこれを担当します。

嘉祿三年(1227)六月大十二日己未。雨降。凡日來霖雨渉旬。所々洪水。河邊田畠等流失云云。

読下し                      あめふ     およ  ひごろ りんうしゅん  わた    しょしょ  こうずい  かわべ  でんぱくらりゅうしつ   うんぬん
嘉祿三年(1227)六月大十二日己未。雨降る。凡そ日來霖雨旬に渉る。所々で洪水。河邊の田畠等流失すと云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十二日己未。雨降りです。だいたい最近、雨が十日以上も降り続いていま。あちこちで洪水が起き、河川の近くの田畑が流失したそうな。

嘉祿三年(1227)六月大十四日辛酉。霽。六波羅馳驛下着申云。去七日辰刻。於鷹司油小路大炊助入道後見肥後房之宅。菅十郎左衛門尉周則欲虜二位法印尊長之處。忽企自殺。未死終之間。所襲到之勇士二人。爲彼蒙疵訖。翌日八日。於六波羅而尊長既死去。是承久三年合戰張本也。日來所隱置於肥後房宅也。又和田新兵衛尉朝盛法師。先日雖搦泄。今日生虜之云云。

読下し                      はれ   ろくはら  はせうまげちゃく  もう    い
嘉祿三年(1227)六月大十四日辛酉。霽。六波羅の馳驛下着し申して云はく。

さんぬ なぬか たつのこく たかつかさあぶらこうじおおいのすけにゅうどう こうけん  ひごぼう の たく  をい
去る七日 辰刻、 鷹司油小路大炊助入道 が後見 肥後房之宅に於て、

すがじうろうさえもんのじょうちかのり  にいのほういんそんちょう とら      ほっ   のところ  たちま  じさつ くはだ
菅十郎左衛門尉周則、二位法印尊長を虜えんと欲する之處、忽ち自殺を企つ。

いま  し   お      のあいだ  おそ  いた ところの ゆうし ふたり   か  ため  きず  こうむ をはんぬ  よくじつようか   ろくはら   をいてそんちょうすで  しきょ
未だ死に終はらず之間、襲い到る所之勇士二人、彼の爲に疵を蒙り 訖。 翌日八日、六波羅に於而尊長既に死去す。

これ じょうきゅうさんねん かっせん ちょうほんなり  ひごろ ひごぼう  たく  をい  かく  お  ところなり
是、承久三年 合戰の張本也。 日來肥後房が宅に於て隱し置く所也。

また  わだのしんひょうえのじょうとももりほっし せんじつから もら   いへど   きょう これ  いけど    うんぬん
又、 和田新兵衛尉朝盛法師先日搦め泄すと雖も、今日之を生虜ると云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十四日辛酉。晴れました。六波羅から、宿場宿場で馬を乗り継いで来た伝令が到着して報告しました。「先日の七日午前八時頃に、鷹司油小路の大炊助入道の後見の肥後坊の家で、菅十郎左衛門尉周則が二位法印尊長を捕まえようとしたら、あっという間に自殺してしまいました。死ぬ前に捕えようと攻めかかった侍二人が手傷を負いました。翌日の八日に六波羅で尊長は息絶えました。この人は、承久三年の乱の首謀者です。その後、肥後坊の家に隠れ住んでいました。又、和田新兵衛尉朝盛法師は、先日捕まえそこないましたが、今日逮捕しましたとさ。

参考八日に六波羅で尊長は息絶えたとあるので、終りの今日之を生虜るは、菅十郎左衛門尉周則の方か?
これに関連する記事が明月記では尊重が「義時の妻が義時に飲ませた毒で殺してくれ」と哀願しているとあるが、状況から単なる噂を書いたに過ぎないようだ?

嘉祿三年(1227)六月大十五日壬戌。霽。伊東左衛門尉。尾藤左近將監等自京都令歸參云云。

読下し                      はれ  いとうのさえもんのじょう  びとうさこんしょうげんら きょうと よ   きさんせし    うんぬん
嘉祿三年(1227)六月大十五日壬戌。霽。伊東左衛門尉、尾藤左近將監等京都自り歸參令むと云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十五日壬戌。晴れました。5月10日に大内裏の火事見舞いに行った、伊東左衛門尉祐時と執権代理の尾藤左近将監景経が京都から帰ってきたそうな。

嘉祿三年(1227)六月大十六日癸亥。霽。亥刻。白虹見云云。

読下し                      はれ  いのこく  はっこうあらは   うんぬん
嘉祿三年(1227)六月大十六日癸亥。霽。亥刻。白虹見ると云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十六日癸亥。晴れました。午後十時頃、戦の前兆の白虹を見たそうな。

嘉祿三年(1227)六月大十七日甲子。霽。御所乾角。可被立納殿之由。有其沙汰。然奉行人周防前司申云。自明日。西者王相方也。可有御方違歟云云。但不當西方歟之由有仰。仍陰陽道被尋問之處。各積丈數。申云。自夜御所西行廿二丈八尺五寸。北行十六丈八尺。入戌方事一丈五尺六寸八分。然者自西鰭板際六丈相去而於被立者。雖無御方違。不可有憚云云。

読下し                      はれ  ごしょ  いぬい かど   おさめどの た   られ  べ   のよし   そ   さた あ
嘉祿三年(1227)六月大十七日甲子。霽。御所の乾の角に、納殿@を立て被る可き之由、其の沙汰有り。

しか    ぶぎょうにんすおうのぜんじもう    い       あす よ     にしは おうそう  かたなり  おんかたがえあ  べ   か   うんぬん
然るに奉行人周防前司申して云はく。明日自り、西者王相の方也。御方違 有る可き歟と云云。

ただ  せいほう  あたらざるかのよし  おお  あ     よっ おんみょうどう  たず  と   れるのところ  おのおの じょうすう つ     もう    い
但し西方に當不歟之由、仰せ有り。仍て陰陽道に尋ね問は被之處、 各 丈數を積み、申して云はく。

よる  ごしょ よ  さいこうにじうにじょうはっしゃくごすん ほっこうじうろくじょうはっしゃく  いぬ  かた  い   こと いちじょうごしゃくろくすんはちぶ
夜の御所A自り西行廿二丈八尺五寸、 北行十六丈八尺、 戌の方に入る事 一丈五尺六寸八分。

しからば  にし はたいた きわよ  ろくじょうあいさ   て た   られ    をい  は  おんかたがえな   いへど   はばか あ  べからず  うんぬん
然者、西の鰭板Bの際自り六丈相去り而立て被るに於て者、御方違無しと雖も、憚り有る不可と云云。

参考@納殿は、貴重品用倉庫。
参考A夜の御所は、寝殿。
参考B鰭板は、壁・塀の羽目板に用いる板。また、その板を張った塀。Goo電子辞書から

現代語嘉祿三年(1227)六月大十七日甲子。晴れました。御所の西北の角に納殿を立てるように決定しました。しかし、担当の周防前司中原親実が云うには、「明日から西は移転建築を忌む王相の方角です。方向変え式を行った方が良いでしょう。」だそうな。但し「西方は当たらないだろう?」との仰せがありました。そこで陰陽道に問いただしたところ、云うのには「寝所から西へ22丈8尺5寸(68.55m)、北へ16丈8尺(50.4m)、戌の方角に入って1丈5尺6寸(4.68m)です。そういう訳で西の板塀から6丈(18m)離れて建てれば、方角変え式をしなくてもしんぱいありません。」そうな。

嘉祿三年(1227)六月大十八日乙丑。雨降。卯刻。武藏次郎時實〔武州當腹二男。年十六〕爲家人高橋二郎〔京高橋住人也〕被殺害給。傍輩兩三人同被害畢。此間。明日依可爲丈六堂供養。成群御家人等競走。爰伊東左衛門尉祐時郎從虜進件高橋。即日於腰越邊。被處斬刑。縡最中。甚雨如沃(原文三水于犮)云云。」辰刻。嶋津豊後守從五位下惟宗朝臣忠久卒。日來脚氣之上。惱赤痢病云云。」及晩而尾藤左近將監景綱遂出家畢。依爲武藏次郎乳母夫也。

読下し                      あめふ
嘉祿三年(1227)六月大十八日乙丑。雨降る。

うのこく  むさしのじろうときざね 〔 ぶしゅう  とうふく   じなん   としじうろく 〕 けにんたかばしのじろう 〔きょうたかばし じゅうにんなり〕   ため  せつがいされたま
卯刻、武藏次郎時實〔武州が當腹の二男。年十六〕家人高橋二郎〔 京高橋@住人也〕の爲に殺害被給ふ。

ぼうはい りょうさんにん おな   がいされをはんぬ 
傍輩 兩三人 同じく害被 畢。

かく あいだ  あす じょうろくどうくよう たるべ     よっ    むれ  な   ごけにん ら きそ  はし
此の間、明日丈六堂供養爲可きに依て、群を成す御家人等競い走る。

ここ  いとうのさえもんのじょうすけとき  ろうじゅう くだん たかばし とら  しん   そくじつこしごえへん をい    ざんけい しょされ
爰に 伊東左衛門尉祐時が郎從 件の高橋を虜へ進ず。即日腰越邊に於て、斬刑に處被る。

こと  さいちゅう はなは あめ そそ    ごと    うんぬん
縡の最中、 甚だ雨 沃ぐが如しと云云。」

たつのこく  しまづぶんごのかみ じゅごいげ これむねあそんただひさ そっ    ひごろ かっけの うえ  せきり  やまい なや    うんぬん
辰刻、 嶋津豊後守 從五位下 惟宗朝臣忠久 卒す。日來脚氣之上、赤痢の病を惱むと云云。」

ばん  およ  て   びとうさこんしょうげんかげつな しゅっけ と  をはんぬ  むさしじろう   めのとふ たる   よっ  なり
晩に及び而、 尾藤左近將監景綱 出家を遂げ 畢。 武藏次郎の乳母夫爲に依て也。

参考@京高橋は、五条大橋を高橋と呼び、京都の東南五条から六条にかけて高橋の里と呼ばれたらしい。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十八日乙丑。雨降りです。午前六時頃、武蔵次郎時実〔泰時さんの現在の奥さんの次男で16歳〕が、家来の高橋二郎〔京都五条大橋(高橋)当たりの住人〕に殺されました。同僚三人が同様に殺されました。この日は、翌日が丈六堂の開眼供養の日だったので、鎌倉へ来ていた御家人達が走って集まってきました。その中で伊東左衛門尉祐時の家来が、その高橋を捕まえました。即日腰越浜で首を斬られました。その事件の最中は大雨だったのです。」
午前八時頃、豊後守従五位下惟宗朝臣島津忠久が亡くなりました。普段脚気を病んでいたうえに赤痢にかかったそうな。」
夜になって、尾藤左近将監景綱が出家しました。武蔵次郎時実の乳母夫だからです。

参考泰時┬時氏
    └時實

嘉祿三年(1227)六月大十九日丙寅。陰。有評議。丈六堂供養事。依武藏二郎事。可爲延引之由治定云云。

読下し                      くも    ひょうぎ あ     じょうろくどう くよう  こと  むさしじろう    こと  よっ    えいんたるべ   のよしちじょう    うんぬん
嘉祿三年(1227)六月大十九日丙寅。陰り。評議有り。丈六堂供養の事、武藏二郎の事に依て、延引爲可き之由治定すと云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大十九日丙寅。曇りです。政務会議があり、丈六堂開眼供養について、武蔵次郎時実の事件によって、延期することに決定しましたとさ。

嘉祿三年(1227)六月大卅日丁丑。霽。於御所寢殿南面。被行六月秡之。リ賢奉仕之。石山侍從贖物役勤之。周防前司親實爲奉行云云。

読下し                    はれ  ごしょ  しんでんなんめん をい   ろくがつはらえ これ おこな れる  はるかたこれ  ほうし
嘉祿三年(1227)六月大卅日丁丑。霽。御所の寢殿南面に於て、 六月秡 之を行は被。リ賢之を奉仕す。

いしやまじじゅう あがもの  えきこれ  つと    すおうのぜんじちかざね ぶ ぎょうたり  うんぬん
石山侍從 贖物の役之を勤む。 周防前司親實 奉行爲と云云。

現代語嘉祿三年(1227)六月大三十日人丑。晴れました。御所の寝殿の南側で、年に二回の六月の祓を行いました。晴賢が勤めました。石山侍従藤原教定は、ご褒美を渡す役を勤めました。周防前司中原親実が、指揮担当だそうな。

七月へ

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