安貞二年戊子(1228)四月小
安貞二年(1228)四月小七日庚戌。酉刻地震。 |
読下し とりのこくぢしん
安貞二年(1228)四月小七日庚戌。酉刻地震。
現代語安貞二年(1228)四月小七日庚戌。午後六時頃地震です。
安貞二年(1228)四月小十六日己未。將軍家爲御遊覽。渡御杜戸。武州。駿河前司以下扈從濟々焉。及夜陰還御云々。 |
読下し しょうぐんけ ごゆうらん ため もりと わた たま ぶしゅう するがのぜんじ いげ こしょうさいさいをはんぬ
安貞二年(1228)四月小十六日己未。將軍家@御遊覽の爲、杜戸Aへ渡り御う。武州、駿河前司以下の扈從濟々焉。
やいん およ かえ たま うんぬん
夜陰に及び還り御うと云々。
参考@將軍家は、頼経11歳。
参考A杜戸は、神奈川県三浦郡葉山町堀内の森戸神社や森戸海岸。
現代語安貞二年(1228)四月小十六日己未。将軍頼経様は、遠足に葉山の森戸海岸へお出かけです。泰時さん・駿河前司三浦義村を始めとするお供の皆さんは大勢です。夜になって帰りましたとさ。
安貞二年(1228)四月小廿一日甲子。リ。御所被建御車宿。今日即上棟也。後藤左衛門尉基綱奉行之。 |
読下し はれ ごしょ おんくるまやどり たてられ きょう すなは じょうとうなり ごとうさえもんのじょうもとつな これ ぶぎょう
安貞二年(1228)四月小廿一日甲子。リ。御所に御車宿を建被る。今日即ち上棟也。
後藤左衛門尉基綱 之を奉行す。
現代語安貞二年(1228)四月小二十一日甲子。晴れです。御所に牛車の車庫を建築です。今日すでに棟上げ式です。後藤左衛門尉基綱が指揮担当です。
安貞二年(1228)四月小廿二日乙丑。小雨。將軍家御參江嶋明神。以還御之時。入御于駿河前司義村大庭舘云々。 |
読下し
こさめ しょうぐんけ えのしまみょうじん ぎょさん
安貞二年(1228)四月小廿二日乙丑。小雨。將軍家
江嶋明神@へ御參す。
かんごのとき もっ するがぜんじよしむら おおばのやかた
に い たま うんぬん
還御之時を以て、駿河前司義村の
大庭舘A于入り御うと云々。
参考@江嶋明神は、神奈川県藤沢市江の島2丁目江島神社辺津宮等。
現代語安貞二年(1228)四月小二十二日乙丑。小雨です。将軍頼経様さんは江ノ島の神様にお参りです。帰りのついでに駿河前司三浦義村の大庭の別荘にお寄りになりましたとさ。
解説A大庭は、現在の残っている地名では、神奈川県藤沢市大庭に大庭城址があるが、かつて鎌倉權五郎景政が開いた大庭御厨は、現在の藤沢市茅ヶ崎市の全域と考えられるのと、天養記に義朝が三浦等に襲わせた大庭御厨の鵠沼神明は、藤沢市鵠沼神明2丁目11の皇大神宮なのだが、三浦義村の大庭館の位置は分からない。なお、現在大庭城址と云われている場所は、小田原北条氏の時代の物であろう。それより南側の1831番あたりの大庭神社近辺の方が往古の館跡にふさわしい気がする。
安貞二年(1228)四月小廿三日丙寅。リ。午尅還御云々。 |
読下し はれ
うまのこく かえ たま うんぬん
安貞二年(1228)四月小廿三日丙寅。リ。午尅
還り御うと云々。
現代語安貞二年(1228)四月小二十三日丙寅。晴れです。昼頃にお帰りです。
安貞二年(1228)四月小廿五日戊辰。霽。今夜。將軍家有五月節御方違也。入御生西之家。 |
読下し はれ こんや しょうぐんけ さつきせつ おんかたたが
あ なり しょうせいのいえ い たま
安貞二年(1228)四月小廿五日戊辰。霽。今夜、將軍家
五月節@の御方違へ有る也。 生西之家へ入り御う。
参考@五月節は、二十四節気のうち、第9の芒種で夏至まで。種蒔時。
現代語安貞二年(1228)四月小二十五日戊辰。晴れました。今夜、将軍頼経様は五月節(芒種)の方角変えのために、生西小山朝政の屋敷へ入りました。
安貞二年(1228)四月小廿六日己巳。陰。今朝。將軍家欲有還御之處。生西頻望申御逗留。仍至晩頭御遊興。生西撰一族中堪能強力之輩。於御前庭上。令射小笠懸、召决相撲勝負。其後還御。 |
読下し
くも
けさ しょうぐんけ かんごあ ほっ のところ しょうせい
しき ごとうりゅう のぞ もう
安貞二年(1228)四月小廿六日己巳。陰り。今朝、將軍家
還御有らんと欲する之處、生西 頻りに御逗留を望み申す。
よっ ばんとう いた ごゆうきょう
仍て晩頭に至るまで御遊興。
しょうせい いちぞくちう かんのう
ごうりきのやから えら ごぜん ていじょう をい こがさがけ い せし すまい しょうぶ め けっ そ ご かえ たま
生西
一族中の 堪能
強力之輩を撰び、御前の庭上に於て、小笠懸を射令め、相撲の勝負を召し决す。其の後還り御う。
現代語安貞二年(1228)四月小二十六日己巳。曇りです。今朝、将軍頼経様が帰ろうとすると、生西小山朝政が、引き留めましたんので、夕方まで遊んでいきました。小山朝政は、一族の中でも弓箭がうまいのや力の強いのを撰んで、庭で小笠懸を射てみさせ、相撲を取らせたりしました。その後お帰りになりました。
安貞二年(1228)四月小廿七日庚午。京都飛脚參着。去十七日。南都衆徒競襲多武峯。及合戰放火。山門憤之。頗蜂起。洛中不靜云々。 |
読下し
きょうと ひきゃくさんちゃく さんぬ じうしちにち
なんと しゅうと とうのみね きそ おそ かっせん およ
ひ はな
安貞二年(1228)四月小廿七日庚午。京都の飛脚參着す。去る十七日、
南都の衆徒@多武峯Aへ競い襲い、合戰に及び火を放つ。
さんもん
これ いか すこぶ ほうき らくちうしずか ざる うんぬん
山門B之を憤り、頗る蜂起し、洛中靜なら不と云々。
参考@南都の衆徒は、奈良興福寺の武者僧(僧兵)。
参考A多武峯は、は、奈良県桜井市南部にある地区名。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。元は談山神社の奥の院である談山妙楽寺の境内であったが、廃仏稀釈以降現在は談山神社となっている。西暦800年代、巻向山手地方にあった神武天皇の御霊を、同寺に移したとされる。1596年(慶長元年)、同寺は郡山に遷され、曹洞宗久松寺として現存する。ウィキペディアから
参考B山門は、比叡山延暦寺。
現代語安貞二年(1228)四月小二十七日庚午。京都から伝令が着きました。先日の17日に奈良の武者僧が談山神社妙楽寺へ攻めて行って、戦をして放火をしました。これを聞いた比叡山延暦寺武者僧が怒って集合したので、京都の街中は不穏な状況となりましたとさ。
安貞二年(1228)四月小廿八日辛未。リ。將軍家爲御遊覽。渡御六浦云々。 |
読下し はれ しょうぐんけ ごゆうらん ため むつら わた たま うんぬん
安貞二年(1228)四月小廿八日辛未。リ。將軍家
御遊覽の爲、六浦@へ渡り御うと云々。
参考@六浦は、横浜市金沢区の瀬戸や六浦の六浦港と思われる。又4丁目の上行寺前には船繋ぎの松があったと伝説される。明治の地図参照
現代語安貞二年(1228)四月小二十八日辛未。晴れです。将軍頼経様は、遠足に六浦へお出かけになりましたとさ。