吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)五月小

安貞二年(1228)五月小一日癸酉。將軍家自六浦還御。去夜御止宿六浦云々。

読下し                    しょうぐんけ むつら よ   かえ  たま    さんぬ よ むつら  ごししゅく   うんぬん
安貞二年(1228)五月小一日癸酉。將軍家@六浦A自り還り御う。去る夜六浦に御止宿と云々。

参考@將軍家は、頼経11歳。
参考A六浦は、横浜市金沢区の瀬戸や六浦の六浦港と思われる。

現代語安貞二年(1228)五月小一日癸酉。将軍頼経様が六浦からお帰りです。昨夜は六浦にお泊りでしたそうな。

安貞二年(1228)五月小七日己夘。去月廿五日南都悪僧等重而燒多武峯訖。山門殊蜂起。公家頻及宥御沙汰之由。飛脚到來。

読下し                   さんぬ つきにじうごにち なんと  あくそうら かさ  て とうのみね  や をはんぬ  さんもんこと ほうき
安貞二年(1228)五月小七日己夘。去る月廿五日 南都の悪僧等重ね而多武峯を燒き訖。 山門殊に蜂起す。

こうけ しき    なだ    おんさた   およ  のよし  ひきゃくとうらい
公家頻りに宥めの御沙汰に及ぶ之由、飛脚到來す。

現代語安貞二年(1228)五月小七日己卯。先月25日、奈良の武者僧どもが、1日に続いて又も談山神社妙楽寺へ火をかけました。比叡山延暦寺の僧兵が本気で立ち上がりましたので、京都朝廷では控えるように宥めていると、伝令が届きました。

安貞二年(1228)五月小八日庚辰。リ。將軍家出御馬塲殿〔御所東御門〕。有五番競馬。佐々木加地三郎左衛門尉。印東八郎以下被召决其勝負云々。」今日。竹御所姫君御不例云々。

読下し                    はれ  しょうぐんけ  ばばどの 〔ごしょひがしみかど〕    い   たま    ごばん  くらべうまあ
安貞二年(1228)五月小八日庚辰。リ。將軍家 馬塲殿〔御所東御門〕に出で御う。五番の競馬有り。

 ささきのかじさぶろうさえもんのじょう   いんとうのはちろう いげ  そ   しょうぶ  め   けっ  られ    うんぬん
佐々木加地三郎左衛門尉@、印東八郎A以下、其の勝負を召し决せ被ると云々。」

きょう  たけごしょひめぎみ ごふれい  うんぬん
今日。竹御所姫君御不例と云々。

参考@佐々木加地は、佐々木盛綱が加治庄を貰い、その子が加治と名乗り始める。佐々木加地三郎は一度だけの出演で本名不明。越後加治庄。旧北蒲原郡加治川村で現新発田市住田に加治川庁舎あり。
参考A
印東は、印旛沼の東。八郎は三度しか出演が無く実名は不明。

現代語安貞二年(1228)五月小八日庚辰。晴れです。将軍頼経様が、馬場殿〔御所の東門にあります〕へお出になられ、5番の競馬がありました。佐々木加治三郎左衛門尉や印東八郎以下が、勝負をしましたとさ。」
今日、竹御所姫は、御病気だとさ。

安貞二年(1228)五月小十日壬午。快リ。今日。又出御同所。駿河次郎。小笠原六郎。小山五郎等。射流鏑馬。次有五番競馬勝負云々。」今日竹御所姫君御不例。爲相州御沙汰。被始御祈等。

読下し                   かいせい  きょう   またおな  ところ い   たま    するがにじろう  おがさわらのろくろう  おやまのごろうら   やぶさめ   い
安貞二年(1228)五月小十日壬午。快リ。今日、又同じ所に出で御う。駿河次郎、小笠原六郎、小山五郎等、流鏑馬を射る。

つい  ごばん  くらべうま  しょうぶあ     うんぬん    
次で五番の競馬の勝負有りと云々。」

きょう   たけごしょひめぎみ ごふれい  そうしゅう  おんさた  な     おいのりら  はじ  られ
今日、竹御所姫君御不例。相州の御沙汰と爲し、御祈等を始め被る。

現代語安貞二年(1228)五月小十日壬午。快晴です。将軍頼経様は今日も同じ馬場殿へお出ましです。駿河次郎三浦泰村・小笠原六郎時長・小山五郎長村達が、流鏑馬を射ました。次に5番の競馬がありました。」
今日、竹御所姫が病気です。相州時房さんの負担でお祈りを始めました。

安貞二年(1228)五月小十三日乙酉。印東八郎於御所。賜御厩御馬〔栗毛〕是依令感強力給也。

読下し                     いんとうのはちろう ごしょ  をい   みんまや  おんうま 〔くりげ〕   たま      これ  ごうりき  かん  せし  たま    よっ  なり
安貞二年(1228)五月小十三日乙酉。印東八郎 御所に於て、御厩の御馬〔栗毛〕を賜はる。是、強力に感じ令め給ふに依て也。

現代語安貞二年(1228)五月小十三日乙酉。印東八郎が、御所で将軍家の馬屋の馬〔栗毛〕を拝領しました。これは、競馬の力に感心されたからです。

安貞二年(1228)五月小十四日丙戌。霽。姫君御不例御減之間。今日午刻。於竹御所。有御沐浴云々。

読下し                     はれ  ひめぎみ  ごふれい ごげんのあいだ  きょう うまのこく  たけごしょ  をい    おんもくよくあ     うんぬん
安貞二年(1228)五月小十四日丙戌。霽。姫君の御不例御減之間、今日午刻、竹御所に於て、御沐浴有りと云々。

現代語安貞二年(1228)五月小十四日丙戌。晴れました。姫君竹御所の病気が治ってきたので、今日昼頃に竹御所で、病の気を洗い流す儀式の沐浴がありました。

安貞二年(1228)五月小十五日丁亥。戌刻大地震。

読下し                     いぬのこくおおぢしん
安貞二年(1228)五月小十五日丁亥。戌刻大地震。

現代語安貞二年(1228)五月小十五日丁亥。午後八時頃、大地震です。

安貞二年(1228)五月小十六日戊子。リ。巳刻。相摸五郎時直主女室〔三浦三郎左衛門尉家連女也〕男子平産云々。」今日。後藤左衛門尉基綱申云。去月廿九日前右宰相中將〔實雅卿〕於越前國薨〔年三十云々〕。是去元仁元年被配流彼國訖。基綱者守護人也。

読下し                     はれ  みのこく  さがのごろうときなおぬし  にょしつ 〔みうらのさぶろうさえもんのじょういえつら おんななり〕 だんし へいさん   うんぬん
安貞二年(1228)五月小十六日戊子。リ。巳刻。相摸五郎時直@主が女室〔三浦三郎左衛門尉家連Aが女也〕男子平産すと云々。」

きょう   ごとうのさえもんのじょうもとつなもう    い
今日、後藤左衛門尉基綱申して云はく。

さんぬ つき にじうくにち さきのうさいしょうちうじょう 〔さねまさきょう〕 えちぜんのくに  をい  こう   〔としさんじう  うんぬん〕
去る月 廿九日 前右宰相中將 〔實雅卿B越前國 に於て薨ず〔年三十と云々〕

これ  さんぬ げんにんがんねん か   くに  はいるされ をはんぬ  もとつなしゅごにんなり
是、去る 元仁元年 彼の國へ配流被 訖。 基綱者守護人也。

参考@相摸五郎時直は、相州時房の息子。
参考A
三浦三郎左衛門尉家連は、佐原流三浦氏。
参考B實雅卿は、一条能保三男で、義時の娘婿。伊賀氏事件の連座で配流。

現代語安貞二年(1228)五月小十六日戊子。晴れです。午前十時頃、相模五郎時直さんの奥さん〔三浦三郎左衛門尉家連の娘〕が男の子を安産しました。」
今日、後藤左衛門尉基綱が云うのには、「先月29日前右宰相中将〔実雅さん〕が、越前国でお亡くなりになりました〔歳は30でした〕。この人は、去る元仁元年(1224)越前へ流罪(10/29)になったのです。後藤基綱は、越前の守護人です。

安貞二年(1228)五月小廿一日癸巳。リ。天文博士維範朝臣奉仕地震祭云々。」今日。戌尅御所邊騒動。御家人等多以競走。武州以尾藤左近入道。平三郎左衛門尉等。非殊事。各可退散之旨。加制給之間。及夜半靜謐。是有可被誅之輩之由巷説出來云々。

読下し                     はれ  てんもんはくじ これのりあそん ぢしんさい  ほうし    うんぬん
安貞二年(1228)五月小廿一日癸巳。リ。天文博士@維範朝臣地震祭を奉仕すと云々。」

きょう いぬのこく ごしょ  へんそうどう    ごけにんら おお  もっ  きそ  はし
今日戌尅、御所の邊騒動す。御家人等多く以て競い走る。

ぶしゅう  びとうのさこんにゅうどう へいざぶろうさえもんのじょうら  もっ    こと    こと   あら
武州、尾藤左近入道、平三郎左衛門尉等を以て、殊なる事に非ず。

おのおの たいさんすべ のむね  せい くは  たま  のあいだ  やはん  およ  せいひつ
各 退散可き之旨、制を加へ給ふ之間、夜半に及び靜謐す。

これ  ちうされ  べ   のやから   のよし  ちまたせつ しゅつらい   うんぬん
是、誅被る可き之輩有る之由、 巷説 出來すと云々。

参考@天文博士は、律令制で陰陽寮に属し、天文の観測と天文生の教授に当たった。定員1名正七位下。

現代語安貞二年(1228)五月小二十一日癸巳。晴れです。天文博士安陪維範さんが地震祭を勤めました。」今日、午後八時頃、御所の周りで騒ぎがあり、御家人達が走り回りました。武州泰時さんは、尾藤左近入道景綱と平三郎左衛門尉盛綱達を使って、特別な事は何もないので、引き上げるように制した所、夜中になって静まりました。これは、追討される連中があると噂が流れたからです。

安貞二年(1228)五月小廿二日甲午。霽。被始行御祈等。
 藥師護摩   大進僧都
 一字金輪法  信濃法印
 八字文殊法  宰相律師
 十一面護摩  加賀律師
 五大尊法   念行
 北斗供    助法印珎譽
 本命星供   師法橋珎瑜
 天地災變祭  親職
 熒惑星祭   國継
   以上
今日。六波羅使者參着。申云。去月十七日。同廿五日兩度。南都衆徒襲多武峯合戰之間。堂舎塔廟及火災事。公家雖被宥。山門蜂起。猶以依不靜謐。被下綸旨於武家云々。

読下し                     はれ  おいのりら  しぎょうされ
安貞二年(1228)五月小廿二日甲午。霽。御祈等を始行被る。

  やくしごま         だいしんそうづ
 藥師護摩   大進僧都

  いちじこんろんほう    しなののほういん
 一字金輪法  信濃法印

  はちじもんじゅほう    さいしょうりっし
 八字文殊法  宰相律師

  じういちめんごま     かがのりっし
 十一面護摩  加賀律師

  ごだいそんほう      ねんぎょう
 五大尊法   念行

  ほくとぐ          すけのほういんちんよ
 北斗供    助法印珎譽

  ほんみょうじょうぐ    そちのほっきょうちんゆ
 本命星供   師法橋珎瑜

  てんちさいへんさい    ちかもと
 天地災變祭  親職

  けいこくせいさい      くにつぐ
 熒惑星祭   國継

       いじょう
   以上

 きょう    ろくはら   ししゃさんちゃく    もう    い
今日、六波羅の使者參着し、申して云はく。

さんぬ つkじうしちに  おな   にじうごにち  りょうど  なんと  しゅうと とうのみね  おそ  かっせんのあいだ  どうしゃ とうびょう かさい  こと  およ
去る月十七日、同じく廿五日の兩度、南都の衆徒多武峯を襲い合戰之間、 堂舎 塔廟 火災の事に及び、

こうけ  なだ  られ   いへど   さんもんほうき     なおもっ  せいひつ  ざる  よっ    りんじ を   ぶけ   くだされ    うんぬん
公家@宥め被ると雖も、山門蜂起す。猶以て靜謐なら不に依て、綸旨於武家Aに下被ると云々。

参考@公家は、京都朝廷。
参考A武家は、鎌倉幕府。

現代語安貞二年(1228)五月小二十二日甲午。晴れました。お祈りを始めました。
 薬師如来の護摩炊きは、 大進僧都頼基
 一字金輪のお経は、   信濃法印道禅
 八字文殊菩薩のお経は、 宰相律師円親
 十一面観音の護摩炊きは、加賀律師定清
 五大明王のお経は、   念行
 北斗星の供養は、    助法印珍与
 将軍の本命の星の供養は、師法橋珍瑜
 天地災変祭は、     安陪親職
 螢惑星火星祭は、    安陪國継
   以上
今日、六波羅からの伝令が到着して云うのには「先月17日と同じ25日の二度も、奈良の僧兵達が
談山神社妙楽寺と戦って、お堂も宿舎も塔も廟も火事にしてしまったので、朝廷が宥めたのですが、比叡山の武者僧は立ち上がり、今もっておさまりませんので、天皇の命令を武家にだしました。」とさ。

安貞二年(1228)五月小廿三日乙未。リ。南都与多武峯合戰間事。及評定。以出羽前司家長爲御使。可被申京都云々。

読下し                     はれ  なんと と とうのみね かっせん あいだ こと ひょうじょう およ    でわのぜんじいえなが  もっ  おんし  な
安貞二年(1228)五月小廿三日乙未。リ。南都与多武峯の合戰の間の事、評定に及び、出羽前司家長を以て御使と爲し、

きょうと  もうされ  べ     うんぬん
京都へ申被る可きと云々。

現代語安貞二年(1228)五月小二十三日乙未。晴れです。奈良と談山神社妙楽寺との戦闘について会議で検討し、出羽前司中条家長を使者として、京都へ意見を伝えるようにとの事です。

安貞二年(1228)五月小廿八日庚子。陰。午刻。千葉介胤綱他界。年廿一。

読下し                     くも     うまのこく  ちばのすけたねつな たかい   としにじういち
安貞二年(1228)五月小廿八日庚子。陰り。午刻。 千葉介胤綱@他界す。年廿一。

参考@胤綱は、千葉介常胤の曾孫。常胤胤正成胤胤綱。

現代語安貞二年(1228)五月小二十八日庚子。曇りです。昼頃に千葉介胤綱が亡くなりました。年は21です。

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