吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)六月大

安貞二年(1228)六月大六日丁未。辰尅。御所贄殿竃鳴云々。

読下し                   たつのこく  ごしょ  にえどの かまどな    うんぬん
安貞二年(1228)六月大六日丁未。辰尅、御所の贄殿の竃鳴ると云々。

現代語安貞二年(1228)六月大六日丁未。午前八時頃、御所の台所の竈が鳴りましたとさ。

安貞二年(1228)六月大廿二日癸亥。來廿六日將軍家可有御逍遥于相摸河邊。次可有御一宿于駿河前司義村田村家之由被思食。而件日。彼所自鎌倉御所乾方。爲大白方歟之旨人々申之。仍爲被决之。召親職。リ賢等被尋仰。リ賢申云。彼所未行向。暗雖難定。如傳聞者。不可當乾方歟云々。親職當戌方之由申。然間。御一宿之條不可有子細之趣。被仰含義村云々。

読下し                     きた  にじうろくにち しょうぐんけ さがみがわへんに ごしょうようあ   べ
安貞二年(1228)六月大廿二日癸亥。來る廿六日、將軍家 相摸河邊于 御逍遥有る可し。

ついで するがのぜんじよしむら  たむら  いえに ごいっしゅくあ   べ   のよしおぼ  めされる
次に 駿河前司義村が 田村の家@于御一宿有る可き之由思し食被る。

しか    くだん ひ   か   ところ かまくら  ごしょよ   いぬい たか  たいはく かたたるか のむね ひとびとこれ  もう
而るに件の日、彼の所は鎌倉の御所自り乾の方、大白の方A爲歟之旨 人々之を申す。

よっ  これ  けっ  られ  ため  ちかもと はるかたら  め   たず  おお  られ    はるかたもう    い
仍て之を决せ被ん爲、親職、リ賢等を召し尋ね仰せ被る。リ賢申して云はく。

 か  ところ いま  ゆ   むか      そら  さだ  がた   いへど    つた  き     ごと  ば  いぬいかた あた  べからざるか うんぬん
彼の所は未だ行き向はず。暗に定め難きと雖も、傳へ聞くの如く者、乾方に當る不可歟と云々。

ちかもと いぬ  かた  あた  のよし  もう    しか あいだ  ごいっしゅのじょうしさいあ   べからざるのおもむき よしむら  おお  ふく  られ    うんぬん
親職 戌の方に當る之由を申す。然る間、御一宿之條子細有る 不可之趣、 義村に仰せ含め被ると云々。

参考@義村が田村の家は、神奈川県平塚市田村20市営宮の前住宅団地に石碑有り。
参考
A太白
の方は、金星。
方角神の名。金星の精で、大将の姿をし、兵事や凶事を司る。日毎に遊行の方角を変え、その方角に向かう外出などを忌む。

現代語安貞二年(1228)六月大二十二日癸亥。来る26日に将軍頼経様(11歳)は、相模川のあたりへ遠足をします。ついでに駿河前司三浦義村の田村の家へ一泊するように思い立ちました。しかしその日は、その場所が鎌倉の御所から西北に当たり、外出を忌む太白の方角じゃないかと人々が云います。そこで、これを決めるために、親職・晴賢を呼んでおききになりました。晴賢は「その場所へは未だ行ったことがないので、簡単に決められないが、人伝えでは西北に当たらないんじゃないか。」と、親職は「西北西ですよ。」と云ってます。そういう訳で、「一泊することに問題はない。」と、三浦義村に云って聞かせましたとさ。

安貞二年(1228)六月大廿三日甲子。リ。辰刻。將軍家百日招魂祭御撫物鼠喰損之云々。

読下し                     はれ  たつのこく しょうぐんけ ひゃくにちしょうこんさい おんなでもの  これ ねずみ く    そん    うんぬん
安貞二年(1228)六月大廿三日甲子。リ。辰刻、 將軍家 百日招魂祭 の 御撫物@、之を鼠に喰はれ損ずと云々。

参考@撫物は、人形(ひとがた)。

現代語安貞二年(1228)六月大二十三日甲子。晴れです。午前八時頃、将軍頼経様の百日招魂祭の穢れを撫でる人形(ヒトガタ)が、ネズミに食われてダメになってしまいましたとさ。

安貞二年(1228)六月大廿五日丙寅。陰。明日可有入御田村舘之由。兼日被定之處。家主義村輕服事出來之間。令延引之給。可有他所御遊覽之由。及其沙汰。明日者。延長年中C凉殿霹靂日也。隨而先々必有雷雨。定爲御出煩歟云々。仍明日可雨降否。可占申之旨。藤内左衛門尉定員廻書状於陰陽師等。リ賢。泰貞。國継等不可有雷雨之由申之。親職。リ職可雨下之由申之。文元。及晩小雨定而可降之旨申之云々。

読下し                     くも     あす たむらやかた にゅうぎょあ  べ   のよし  けんじつさだ  られ  のところ
安貞二年(1228)六月大廿五日丙寅。陰り。明日田村舘へ入御有る可き之由、兼日定め被る之處、

やぬしよしむら きょうぶく こと いできたるのあいだ  これ えんいんせし たま    たしょ   ごゆうらん あ   べ   のよし  そ    さた   およ
家主義村 輕服の事 出來之間、之を延引令め給ひ、他所に御遊覽有る可き之由、其の沙汰に及ぶ。

あす は   えんちょうねんちう せいりょうでん へきれき  ひなり  したが て   さきざきかなら らいう あ     さだ    おんいで わずら たるか  うんぬん
明日者、 延長年中@の C凉殿 霹靂の日也。隨い而、先々必ず雷雨有り。定めし御出の煩い爲歟と云々。

よっ  あす あめ  ふ   べ     いな    うらな もう  べ   のむね  とうないさえもんのじょうさだかず しょじょうを おんみょうじら  めぐ
仍て明日雨が降る可きや否や、占い申す可き之旨、 藤内左衛門尉定員 書状於 陰陽師等に廻らす。

はるかた やすさだ くにつぐら らいう あ  べからずの よしこれ  もう    ちかもと  はるもとあめふ   べ   のよしこれ  もう
リ賢、泰貞、國継等雷雨有る不可之由之を申す。親職、リ職雨下る可き之由之を申す。

ふみもと  ばん  およ  こさめ さだ  て ふ   べ   のむねこれ  もう    うんぬん
文元、晩に及び小雨定め而降る可き之旨之を申すと云々。

参考@延長年中は、923〜938年。

現代語安貞二年(1228)六月大二十五日丙寅。曇りです。明日、田村館へ行く予定を、予め決めていましたが、家主の三浦義村に喪に服すことが起きたので、これは延期して、他へ遠足に出かけようと、お決めになりました。明日は、延長年間に清涼殿に雷が落ちた日です。それなので、以後必ず雷雨になります。さぞかし外出の妨げになるでしょうだとさ。そこで、雨が降るか降らないか占うように、藤内左衛門尉定員が文書を陰陽師に回覧しました。晴賢・泰貞・国継は雷雨は有りませんと云い、親職・晴職は雨が降ると云います。文元は、晩になって小雨が降るでしょうと云いましたとさ。

安貞二年(1228)六月大廿六日丁夘。天霽。將軍家爲御遊興。御出杜戸。有遠笠懸相撲以下御勝負。
射手
 相摸四郎     同五郎
 越後太郎     小山五郎
 結城七郎     佐原三郎左衛門尉
 上総太郎     小笠原六郎
 城太郎      佐々木八郎
 伊賀六郎左衛門尉 横溝六郎
武州被獻垸飯。又長江四郎以下進御駄餉。盃酒之間有管絃等。入夜。自船還着由比浦。被儲御輿於此所。即入御幕府云々。

読下し                     そらはれ  しょうぐんけ  ごゆうきょう  ため  もりと  い   たま    とおがさがけ  すまい いげ   おんしょうぶあ
安貞二年(1228)六月大廿六日丁夘。天霽。將軍家 御遊興の爲、杜戸@へ出で御う。遠笠懸、相撲以下の御勝負有り。

 いて
射手

  さがみのしろう                  おなじきごろう
 相摸四郎(朝直)     同五郎(時直)

  えちごのたろう                  おやまのごろう
 越後太郎(光時)     小山五郎(長村)

  ゆうきのしちろう                  さわらさぶろうさえもんのじょう
 結城七郎(朝廣)     佐原三郎左衛門尉(家連)

  かずさのたろう                 おがさわらのろくろう
 上総太郎        小笠原六郎(時長)

  じょうのたろう                   ささきのはちろう
 城太郎(安達義景)     佐々木八郎(信朝)

  いがのろくろうさえもんのじょう          よこみぞろくろう
 伊賀六郎左衛門尉(光重) 横溝六郎(義行)

ぶしゅうおうばん けん  られ    また  ながえのしろう いげ ごだしゅう  しん    はいしゅのあいだ かんげんらあ
武州垸飯を獻じ被る。又、長江四郎以下御駄餉を進ず。盃酒之間 管絃等有り。

よ   い     ふね  よ   ゆいのうら  かへ  つ      こ  ところ をい  おんこし  もう  られ  すなは ばくふ  い   たま    うんぬん
夜に入り。船に自り由比浦に還り着く。此の所に於て御輿を儲け被、即ち幕府に入り御うと云々。

参考@杜戸は、神奈川県三浦郡葉山町堀内の森戸神社や森戸海岸。

現代語安貞二年(1228)六月大二十六日丁卯。空は晴れです。将軍頼経様は遠足に森戸へ出かけました。遠笠懸や相撲などの勝負がありました。
射手は、
 相模四郎朝直     対 同五郎時直
 越後太郎光時     対 小山五郎長村
 結城七郎朝広     対 佐原三郎左衛門尉家連
 上総太郎       対 小笠原六郎時長
 城太郎安達義景    対 佐々木八郎信朝
 伊賀六郎左衛門尉光重 対 横溝六郎義行
武州泰時さんが御馳走のふるまいを献上しました。又、長江四郎明義などが弁当を用意しました。宴会の間は音楽を奏でていました。夜になって船で由比の浦へ帰りました。そこから輿を用意して、すぐに幕府へ入られましたとさ。

安貞二年(1228)六月大廿八日己巳。於北小庭。召出小恪勤等。被决相撲勝負。武州被候。以五明賜勝輩云々。

読下し                     きた   こにわ  をい     こかくごんら  め   いだ    すまい  しょうぶ  けっ  られ
安貞二年(1228)六月大廿八日己巳。北の小庭に於て、小恪勤@等を召し出し、相撲の勝負を决せ被る。

ぶしゅうこう  られ    ごめい   もっ   かち やから たま      うんぬん
武州候じ被る。五明Aを以て勝の輩に賜はると云々。

参考@小恪勤は、頼朝の時代は朝夕の恪勤と称し、領地は無く年給制で一日につき五合の玄米。この時期は、小御所なので小恪勤なのであろう。
参考A五明は、扇の異名。舜が作ったという扇の名から。

現代語安貞二年(1228)六月大二十八日己巳。北側の小御所の庭で、小御所に勤務している近習を呼び集めて、相撲の勝負をさせました。武州泰時さんも立会ました。扇を勝った者に褒美に与えましたとさ。

安貞二年(1228)六月大卅日辛未。於御所。有去廿六日杜戸遠笠懸負態。相摸五郎等被献所課。武州以下人々被參。召加舞女等。有興有感云々。

読下し                    ごしょ   をい    さんぬ にじうろくにち もりと    とおがさがけ  まけわざあ
安貞二年(1228)六月大卅日辛未。御所に於て、去る 廿六日 杜戸での遠笠懸の負態@有り。

さがみのごろうら しょか  けん  られ    ぶしゅう いげ  ひとびとまいられ    まいじょら  め   くは    きょうあ   かんあ    うんぬん
相摸五郎等所課を献じ被る。武州以下の人々參被る。舞女等を召し加へ、興有り感有りと云々。

参考@負態は、勝負に負けたものが、賭けとして何かを献じるのであろう。

現代語安貞二年(1228)六月大三十日辛未。御所で、先達ての26日の森戸での遠笠懸に負けた者の賭け品物の提出がありました。相模五郎北条時直達6人が品物を献上しました。武州泰時さんはじめの人々も参上してきましたので、舞姫達を呼んで加え、楽しいひと時を過ごしましたとさ。

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