吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)八月大

安貞二年(1228)八月大二日壬寅。今日。被立新車於御車宿。後藤左衛門尉基綱奉行也。

読下し                    きょう  しんしゃをおんくるまやどり たてられ    ごとうのさえもんのじょうもとつな ぶぎょうなり
安貞二年(1228)八月大二日壬寅。今日、新車於御車宿に立被る。 後藤左衛門尉基綱 奉行也。

現代語安貞二年(1228)八月大二日壬寅。今日、牛車の新車を公式に御所の車庫に入れました。後藤左衛門尉基綱が指揮担当です。

安貞二年(1228)八月大五日乙巳。被召始于件御車云々。日次事。爲大相國御計。於京都被尋問。在繼可爲去二日之由就申之。雖被下彼勘文。依不相叶將軍御意。重有御沙汰。被用今日云々。

読下し                   くだん おくるまに め  はじ  られ    うんぬん
安貞二年(1228)八月大五日乙巳。件の御車于召し始め被ると云々。

ひなみ  こと  だいしょうこく おんはから   な     きょうと  をい  たず  とはれ
日次の事、大相國@の御計ひと爲し、京都に於て尋ね問被る。

ありつぐ さんぬ ふつかたるべ   のよしこれ  もう    つ     か   かんもん  くだされ   いへど   しょうぐん  ぎょい  あいかな  ざる  よっ    かさ    ごさた あ
在繼 去る二日爲可き之由之を申すに就き、彼の勘文を下被ると雖も、將軍の御意に相叶は不に依て、重ねて御沙汰有り。

きょう もち  られ    うんぬん
今日用ひ被ると云々。

参考@大相國は、近衛基通の息子の宗實。

現代語安貞二年(1228)八月大五日乙巳。例の新車の乗り初めをしました。お日柄については、太政大臣近衛宗実さんの取り扱いとして京都で陰陽寮にお聞きになりました。賀茂在継は先日の二日だと云うので、その上申書を送ってきましたが、将軍頼経様が気に入らないので、尚検討して、今日にしました。

安貞二年(1228)八月大十一日辛亥。於南庭。被召决放生會相撲内取。有纏頭等。遠藤左近將監奉行之。此事先例有無。粗雖及其沙汰。縡未定以前。早被召决云々。

読下し                     なんてい  をい    ほうじょうえ  すまいうちとり  め   けっ  られ    てんとう ら あ
安貞二年(1228)八月大十一日辛亥。南庭に於て、放生會の相撲内取@を召し决せ被る。纏頭A等有り。

えんどうさこんしょうげん これ  ぶぎょう
遠藤左近將監 之を奉行す。

こ   ことせんれい  うむ   あらあ そ    さた   およ   いへど   こといま  さだ      いぜん    はや    め   けっ  られ    うんぬん
此の事先例の有無、粗ら其の沙汰に及ぶと雖も、縡未だ定まらず以前に、早くも召し决せ被ると云々。

参考@内取は、予選。
参考A纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやった。この頃では、芸に褒美を与えるの意味になっている。

現代語安貞二年(1228)八月大十一日辛亥。御所の南庭で、相撲の予選勝負をさせました。褒美があります。遠藤左近将監為俊が指揮担当をしました。こういうことの先例の有る無しを調べるように命じましたが、答えの出ないうちに勝負をさせてしまいましたとさ。

安貞二年(1228)八月大十三日癸丑。明後日御參宮供奉人事。駿河守注交名。付周防前司。大略御出田村時之人數也云々。仰曰。此衆不可有相違。但彼日随兵者十二人也。加今八人。可分前後之陣者。謂八人者。相摸五郎。小山五郎。氏家太郎。伊東左衛門尉。葛西左衛門尉。天野次郎左衛門尉。東六郎。足立三郎等也。

読下し                     みょうごにち  ごさんぐう   ぐぶにん   こと  するがのかみ きょうみょう ちう    すおうのぜんじ  ふ
安貞二年(1228)八月大十三日癸丑。明後日の御參宮の供奉人の事、 駿河守 交名を注し@、周防前司に付す。

たいりゃく たむら  ぎょしゅつ ときのにんずうなり うんぬん
大略田村へ御出の時之人數也と云々。

おお    い       かく しゅうそうい あ   べからず  ただ  か   ひ   ずいへいじうににんなり  いまはちにん  くは    ぜんごの じん  わ     べ   てへ
仰せて曰はく。此の衆相違有る不可。但し彼の日の随兵者十二人也。今八人を加へ、前後之陣に分ける可し者り。

いは   はちにんは
謂ゆる八人者、

さがみのごろう  おやまのごろう  うじいえのたろう  いとうのさえもんのじょう  かさいのさえもんのじょう  あまののじろうさえもんのじょう  とうのろくろう  あだちのさぶろうら なり
相摸五郎、小山五郎、氏家太郎、伊東左衛門尉、 葛西左衛門尉、 天野次郎左衛門尉、 東六郎、足立三郎等也。

参考@駿河守交名を注しは、名簿を書いているので小侍所別当。

現代語安貞二年(1228)八月大十三日癸丑。明後日のお参りのお供について、駿河守北条重時が名簿を書き出し周防前司中原親実を通して渡しました。殆ど、田村へ遠足の時の人数です。将軍頼経様は、「この名簿を変えてはいけさい。ただし、あの時の武装兵は12人です。今度は8人足して前後に分けなさい。」と云いました。
その8人とは、相模五郎時直・小山五郎長村・氏家太郎公信・伊東左衛門尉祐時・葛西左衛門尉清重・天野次郎左衛門尉景氏・東六郎行胤・足立三郎元氏です。

安貞二年(1228)八月大十五日乙夘。リ。鶴岳放生會也。將軍家有御出之儀〔御束帶。御車〕。先有御秡御身固等。リ賢奉仕之。駿河守〔重時〕候陪膳。周防前司爲奉行。其後召御車。自南門出若宮大路。令到宮寺給云々。駿河守持御釼。佐原三郎左衛門尉懸御調度云々。

読下し                     はれ つるがおか ほうじょうえなり しょうぐんけ ぎょしゅつのぎ あ   〔おんそくたい おんくるま〕
安貞二年(1228)八月大十五日乙夘。リ。鶴岳の放生會也。將軍家 御出之儀有り〔御束帶。御車〕

ま   おんはらえ みがため ら あ     はるかたこれ  ほうし    するがのかみ 〔しげとき〕 ばいぜん そうら  すおうのぜんじぶぎょうたり
先ず御秡 御身固等有り。リ賢之を奉仕す。駿河守〔重時〕陪膳に候う。周防前司奉行爲。

そ   ご おんくるま  め     みなみもん よ  わかみやおおじ いで   ぐうじ   いた  せし  たま    うんぬん
其の後御車に召し、 南門 自り若宮大路に出、宮寺に到り令め給ふと云々。

するがのかみ ぎょけん も     さはわのさぶろうさえもんのじょう  ごちょうど   か     うんぬん
駿河守 御釼を持ち、 佐原三郎左衛門尉 御調度を懸くと云々。

現代語安貞二年(1228)八月大十五日乙卯。晴れです。鶴岡八幡宮の生き物を放して供養する放生会です。将軍頼経様もお出ましです〔束帯で牛車〕。まず、お祓いと厄除けの儀式があり、安陪晴賢が勤めました。駿河守北条重時がお手伝いで、周防前司中原親実が指揮担当です。その後、牛車に乗り、南門から若宮大路に出て、八幡宮へ行かれましたとさ。駿河守北条重時が太刀持ちで、佐原三郎左衛門尉家連が弓矢を担いでいます。

安貞二年(1228)八月大十六日丙辰。天眼快リ。申以後小雨常灑。今日。又御參宮。有御奉幣。馬塲之儀。流鏑馬以下。事終。及暮還御云々。

読下し                     てんがんかいせい さるいご こさめ つね  そそ
安貞二年(1228)八月大十六日丙辰。天眼快リ。申以後小雨常に灑ぐ。

きょう   またごさんぐう   ごほうへい あ     ばば の ぎ  やぶさめ  いげ    ことおは    くれ  およ  かんご    うんぬん
今日、又御參宮。御奉幣有り。馬塲之儀、流鏑馬以下。事終り、暮に及び還御すと云々。

現代語安貞二年(1228)八月大十六日丙辰。空は快晴です。午後四時以降は小雨がやみません。今日、又お宮参りで、幣を捧げる儀式をしました。馬場での奉納は流鏑馬以下です。行事が終えて日暮れになって御帰りになりましたとさ。

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