吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)九月大

安貞二年(1228)九月大八日戊寅。戌刻地震。

読下し                   いぬのこくぢしん
安貞二年(1228)九月大八日戊寅。戌刻地震。

現代語安貞二年(1228)九月大八日戊寅。午後八時頃、地震です。

安貞二年(1228)九月大十八日戊子。有御祈等云々。

読下し                     おいのりら あ     うんぬん
安貞二年(1228)九月大十八日戊子。御祈等有りと云々。

現代語安貞二年(1228)九月大十八日戊子。お祈りなどがありました。

安貞二年(1228)九月大廿日庚寅。未尅。竹御所寢殿南面格子内。犬一疋忽然出來。伏疊上云々。女房見恠之。卜筮之處。火事又病事之由申之云々。

読下し                   ひつじのこく たけごしょ  しんでん なんめん こうしない   いぬいっぴき こつぜん いできた   たたみ うえ  ふ     うんぬん
安貞二年(1228)九月大廿日庚寅。未尅。 竹御所@の寢殿 南面の格子内に、犬一疋 忽然と出來り、疊の上に伏すと云々。

にょぼうこれ  み   あやし   ぼくぜいのところ  かじ また  やまい ことの よし  これ  もう    うんぬん
女房之を見て恠み、卜筮之處、火事又は病の事之由、之を申すと云々。

参考@竹御所は、頼家の遺児。

現代語安貞二年(1228)九月大二十日庚寅。午後二時頃、竹御所の寝殿の南側の格子の中に犬が一匹突然現れて、畳の上に伏せをしたそうな。女官がこれを見つけて不思議がり、占いをさせたところ、「火事か病気に気を付けるように」と、云いました。

安貞二年(1228)九月大廿三日癸巳。將軍家有御咳病氣。近日此事流布。都鄙貴賎不遁云々。

読下し                     しょうぐんけ  おんせき やまい け あ     ちかごろ かく  こと るふ      とひ   きせん  のが      ず   うんぬん
安貞二年(1228)九月大廿三日癸巳。將軍家、御咳の病の氣有り。近日 此の事流布し、都鄙@も貴賎も遁れられ不と云々。

参考@都鄙は、都とひなびた所(田舎)。

現代語安貞二年(1228)九月大二十三日癸巳。将軍頼経様が咳の病気です。最近、この病気が流行して都会でも田舎でも、高貴な人も貧しい人もかからない人は無いそうです。

安貞二年(1228)九月大廿六日丙申。京都使者參着。去十六日七條院崩御云々〔御年七十二〕。

読下し                     きょうと   ししゃさんちゃく   さんう じうろくにち しちじょういん ほうぎょ   うんぬん 〔おんとししちじうに〕
安貞二年(1228)九月大廿六日丙申。京都の使者參着す。去る十六日 七條院@ 崩御すと云々〔御年七十二〕

現代語安貞二年(1228)九月大二十六日丙申。京都からの使いが着きました。先日の16日に七条院藤原殖子さまが、亡くなりました〔お年は72才〕。

参考@七條院は、藤原殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、高倉天皇の妃。坊門殖子とも。守貞親王(後高倉院)、後鳥羽天皇の生母。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院。ウィキペディアから

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