吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)十月大

安貞二年(1228)十月大七日丁未。雨降。自戌尅。至子時大風。御所侍。中門廊。竹御所侍等皆以顛倒。其外諸亭破損不可勝計也。抜其梁棟。吹弃于路次。往反之類。爲之少々被打殺云々。

読下し                    あめふ    いぬのこくよ    ねのとき  いた  おおかぜ
安貞二年(1228)十月大七日丁未。雨降る。戌尅自り、子時に至り大風。

ごしょ さむらい ちうもん  ろう  たけごしょ  さむらいら みなもっ てんとう
御所の侍@、中門の廊、竹御所の 侍等 皆以て顛倒Aす。

そ   ほか  しょてい  はそん あ    かぞ  べからざるなり
其の外、諸亭の破損勝げて計う不可也。

そ   りょうとう  ぬ     ろじ に ふ   す     おうはんのたぐい これ  ためしょうしょうう   ころされ    うんぬん
其の梁棟を抜き、路次于吹き弃て、往反之類、之の爲 少々 打ち殺被ると云々。

参考@は、侍所で武士の対面所兼控え所。
参考A顛倒は、倒れるやひっくり返る。

現代語安貞二年(1228)十月大七日丁未。雨降りです。午後8時頃から夜中の12時頃まで大風です。御所の侍控所・中門の廊下・竹御所の侍控所など、皆ひっくり返りました。その他にもあちこちの家の破損は数えきれません。風は、梁を抜いて道端に放り出し、往来の人数人がこれに当たって死にましたとさ。

安貞二年(1228)十月大八日戊申。快リ。爲後藤左衛門尉基綱奉行。御所修理等事。於武州御亭。有其沙汰。如大風洪水之時顛倒屋舎作事者。不及日次沙汰。無左右建立之條。爲常事之由。有申人之。然而武州猶及御不審。即召リ賢。直被仰含此趣。リ賢申云。昔木工寮屋依風顛倒。近鳥羽殿爲洪水破損。共以准修理雖被立之。非如柱棟木之事。而顛倒屋者。以吉日被建事可宜云々。

読下し                    かいせい  ごとうのさえもんのじょうもとつな ぶぎょう  な     ごしょ  しゅうりら   こと  ぶしゅう  おんてい  をい    そ    さた あ
安貞二年(1228)十月大八日戊申。快リ。 後藤左衛門尉基綱 奉行と爲し、御所の修理等の事、武州の御亭に於て。其の沙汰有り。

おおかぜ こうずいのごと  とき  てんとう  おくしゃ  さくじ は   ひなみ   さた   およ  ず    そう な  こんりゅうのじょう  つね    ことたるの よし  これ  もう  ひとあ
 大風 洪水之如き時に顛倒の屋舎の作事者、日次の沙汰@に及ば不、左右無く建立之條、常なる事爲之由、之を申す人有り。

しかれども ぶしゅう なお ごふしん  およ   すなは はるかた め     じき  こ  おもむき おお  ふく  られ    はるかたもう    い
 然而、武州 猶御不審に及び、即ちリ賢を召し、直に此の趣を仰せ含め被る。リ賢申して云はく。

むかし  もくりょう  おく かぜ  よっ  てんとう    ちか    とばでん こうず  ため ほそん
昔、木工寮の屋 風に依て顛倒す。近くは鳥羽殿洪水の爲破損す。

とも  もっ  しゅうり  なぞら これ  た   られ   いへど   はしら むなき  ごと  のこと   あらず
共に以て修理に准へ之を立て被ると雖も、柱、棟木の如き之事に非。

しか    てんとう  おくは   きちじつ  もっ  た   られ  ことよろ      べ     うんぬん
而るに顛倒の屋者、吉日を以て建て被る事宜しかる可しと云々。

参考@日次の沙汰は、お日和を検討する。

現代語安貞二年(1228)十月大八日戊申。快晴です。後藤左衛門尉基綱が指揮担当して、御所の修理について、武州泰時さんの屋敷で検討しました。大風や洪水などの時に倒れた建物の修築は、お日和の選定をしないで、何もこだわらずに建築するのが、通常の事ですと、云う人もいます。しかし、尚も泰時さんはこだわって、すぐに晴賢を呼びつけて、直接この旨をお聞きになりました。安陪晴賢は、「昔、朝廷の修理部門の木工寮の建物が風で倒れました。最近では、鳥羽殿が洪水で壊れました。どちらも修理の儀式に従って建てましたが、柱や棟木の交換程度ではありません。そういう訳で、倒れた建物は、吉日に建てるのがよろしいかと思います。」との事です。

安貞二年(1228)十月大九日己酉。天リ。於政所。竹御所依風顛倒屋之事。有其沙汰。信濃民部入道行然奉行之。

読下し                    そらはれ まんどころ をい    たけごしょ  かぜ  よっ  てんとう  おくの こと  そ    さた あ
安貞二年(1228)十月大九日己酉。天リ。政所に於て、竹御所の風に依て顛倒の屋之事、其の沙汰有り。

しなののみんぶにゅうどうぎょうねん これ  ぶぎょう
 信濃民部入道行然 之を奉行す。

現代語安貞二年(1228)十月大九日己酉。空は晴れです。政務事務所で、竹御所の風による倒壊した家屋について、検討がありました。信濃民部入道行然二階堂行盛が指揮担当です。

安貞二年(1228)十月大十日庚戌。天リ。將軍家爲御方違。可有入御于小山下野入道生西家之旨。被仰含云々。周防前司。土屋左衛門尉爲奉行云々。

読下し                    そらはれ
安貞二年(1228)十月大十日庚戌。天リ。

しょうぐんけ おんかたたがえ ため おやまのしもつけにゅうどうせいせい いえに にゅうごあ   べ  のむね  おお  ふく  られ   うんぬん
將軍家@ 御方違 の爲、 小山下野入道生西 の家于入御有る可き之旨、仰せ含め被ると云々。

すおうのぜんじ  つちやのさえもんのじょう ぶぎょうたり  うんぬん
周防前司、 土屋左衛門尉 奉行爲と云々。

参考@將軍家は、頼経11歳。

現代語安貞二年(1228)十月大十日庚戌。空は晴れです。将軍頼経様は、方角変えのために、下野入道生西小山朝政の家へ入るように云い出しました。周防前司中原親実・土屋左衛門尉宗光が指揮担当です。

安貞二年(1228)十月大十四日甲寅。天リ。今夜。竹御所爲御方違渡御陸奥四郎〔政村〕亭〔本是故二位殿御所〕女房數輩候御共云々。

読下し                     そらはれ
安貞二年(1228)十月大十四日甲寅。天リ。

こんや  たけごしょ おんかたたがえ ため  むつのしろう  〔まさむら〕  てい 〔もと  これ    こにいどの   ごしょ 〕    とぎょ    にょぼう すうやから おんとも そうら   うんぬん
今夜、竹御所 御方違の爲、 陸奥四郎〔政村〕〔本は是、故二位殿が御所〕に渡御す。女房 數輩 御共に候うと云々。

現代語安貞二年(1228)十月大十四日甲寅。空は晴れです。今夜竹御所は方角変えのため、陸奥四郎政村の屋敷〔元は二位家政子様の屋敷〕へお渡りです。女官が数人お供に付きましたとさ

安貞二年(1228)十月大十五日乙夘。武州被進御馬〔黒駮〕一疋於將軍。即相具之。被參御所。令平左衛門尉三郎盛時。引出北向御壷。出御于廊。其毛有興之由。頻及御感。依仰武州令騎之給。此間。周防前司。信濃民部大夫入道。駿河次郎。城太郎。土屋左衛門尉。藤内左衛門尉等跪庭上云々。」今夕。將軍家爲御方違入御于小山下野入道生西車大路家。被用御輿。黒駮御馬牽于御前。土屋左衛門尉持御釼。佐原三郎左衛門尉懸御調度。
 供奉人〔騎馬。五位水干。六位立烏帽子直垂〕三十一人
 駿河守      大炊助      駿河前司
 相摸四郎     同五郎      駿河次郎
 同三郎      足利五郎     周防前司
 加賀前司     結城左衛門尉   同七郎
 後藤左衛門尉   長沼左衛門尉   宇都宮四郎左衛門尉
 三浦又太郎    遠山左衛門尉   葛西左衛門尉
 東六郎      加藤左衛門尉   信濃次郎左衛門尉
 隱岐三郎左衛門尉 嶋津三郎左衛門尉 天野次郎左衛門尉
 江兵衛尉     伊賀四郎左衛門尉 狩野藤右衛門尉
 遠藤左近將監   中條左衛門尉   佐々木左衛門尉
 同三郎
最末
 佐々木判官
入御彼亭之後。供三獻之間。相州。武州被候。越後守追而參加云々。

読下し                      ぶしゅう おんうま 〔くろぶち〕 いっぴきを しょうぐん  すす  られ   すなは これ  あいぐ     ごしょ  まいられ
安貞二年(1228)十月大十五日乙夘。武州 御馬〔黒駮〕一疋於 將軍に進め被る。即ち之を相具し、御所へ參被る。

へいさえもんのじょうさぶろうもりとき し    きたむかい おんつぼ ひきいだ   ろうに しゅつご  そ   け きょうあ   のよし  すこぶ ぎょかん  およ
平左衛門尉三郎盛時を令て、北向の御壷へ引出す。廊于出御。其の毛興有る之由、頻る御感に及ぶ。

おお    よっ  ぶしゅう これ  き せし  たま
仰せに依て武州 之に騎令め給ふ。

かく あいだ  すおうのぜんじ  しなののみんぶたいふにゅうどう  するがのじろう  じょうのたろう  つちやのさえもんのじょう  とうないさえもんのじょうら ていじょう ひざまづ  うんぬん
此の間、周防前司、 信濃民部大夫入道、 駿河次郎、城太郎、 土屋左衛門尉、 藤内左衛門尉等庭上に 跪くと云々。」

こんゆう  しょうぐんけ おんかたたがえ ため  おやまのしもつけにゅうどうせいせい くるまおおじ いえに にゅうご    おんこし  もち  られ    
今夕、將軍家 御方違 の爲、 小山下野入道生西 の車大路の家于入御す。御輿を用ひ被る。

くろぶち  おんうま  ごぜんに ひ
黒駮の御馬を御前于牽く。

つちやのさえもんのじょう ぎょけん  も    さはわのさぶろうさえもんのじょう  ごちょうど  か
土屋左衛門尉 御釼を持ち、 佐原三郎左衛門尉 御調度を懸く。

  ぐぶにん  〔 きば      ごい   すいかん  ろくい   たてえぼし   ひたたれ 〕 さんじういちにん
 供奉人〔騎馬。五位は水干。六位は立烏帽子に直垂〕三十一人

  するがのかみ                  おおいのすけ                 するがのぜんじ
 駿河守(重時)      大炊助(有時)      駿河前司(三浦義村)

  さがみのしろう                  おなじきごろう                 するがのじろう
 相摸四郎(朝直)     同五郎(時直)      駿河次郎(三浦泰村)

  おなじきさぶろう                 あしかがのごろう                すおうのぜんじ
 同三郎(三浦光村)     足利五郎(長氏)     周防前司(親實)

  かがのぜんじ                   ゆうきのさえもんのじょう            おなじきしちろう
 加賀前司(遠兼)     結城左衛門尉(朝光)   同七郎(朝廣)

  ごとうのさえもんのじょう              ながぬまのさえもんのじょう          うつのみやのしろうさえもんのじょう
 後藤左衛門尉(基綱)   長沼左衛門尉(時宗)   宇都宮四郎左衛門尉(頼業)

  みうらのまたたろう                 とおやまのさえもんのじょう          かさいのさえもんのじょう
 三浦又太郎(氏村)    遠山左衛門尉(景朝)   葛西左衛門尉(C重)

  とうのろくろう                    かとうさえもんのじょう              しなののじろうさえもんのじょう
 東六郎(行胤)      加藤左衛門尉(行景)   信濃次郎左衛門尉(二階堂行泰)

  おきのじろうさえもんのじょう                しまづのさぶろうさえもんのじょう         あまののじろうさえもんのじょう
 隱岐三郎左衛門尉(二階堂行義) 嶋津三郎左衛門尉(忠直) 天野次郎左衛門尉(景氏)

  えのひょうえのじょう                いがのしろうさえもんのじょう             かのうのとううえもんのじょう
 江兵衛尉(大江能行)    伊賀四郎左衛門尉(朝行) 狩野藤右衛門尉

  えんどうさこんしょうげん             ちうじょうさえもんのじょう             ささきのさえもんのじょう
 遠藤左近將監(為俊)   中條左衛門尉      佐々木左衛門尉

  おなじきさぶろう
 同三郎(泰綱)

さいまつ
最末

  ささきのほうがん
 佐々木判官(信綱)

 か  てい にゅうぎょののち  さんこん  そ    のあいだ  そうしゅう  ぶしゅうこう  られ   えちごのかみ おってさんか     うんぬん
彼の亭へ入御之後、三獻を供へる之間、相州、武州候じ被る。越後守 追而參加すと云々。

現代語安貞二年(1228)十月大十五日乙卯。泰時さんは黒ぶちの馬を一頭、将軍頼経様に上げる事にして、すぐにこれを連れて御所へ来られました。平左衛門尉三郎盛時に北向いの坪庭へ引き出して見せました。廊下にお出になられ、その毛並みの良さにとても大喜びでした。乗ってみてくれと云うので、武州北条泰時さんは乗って見せました。この間、周防前司中原親実・信濃民部大夫入道二階堂行盛・三浦駿河次郎泰村・城太郎安達義景・土屋左衛門尉宗光・藤内左衛門尉藤原定員たちが、庭に跪いてこの様子を見ていましたとさ。
夕方になって、将軍頼経様は方角変えのため下野入道生西小山朝政の車大路の屋敷へ入られました。輿で行きました。黒ぶちの馬を輿の前を引かせました。土屋左衛門尉宗光が刀持ちで、佐原三郎左衛門尉家連が弓矢を掛けています。
 お供の人〔乗馬で、五位は水干・六位は立烏帽子に直垂〕31人
 駿河守北条重時   大炊助北条有時    駿河前司三浦義村
 相模四郎北条朝直  同五郎北条時直    三浦駿河次郎泰村
 同三郎三浦光村   足利五郎長氏     周防前司中原親実
 加賀前司源遠兼   結城左衛門尉朝光   同結城七郎朝広
 後藤左衛門尉基綱  長沼左衛門尉時宗   宇都宮四郎左衛門尉頼業
 三浦又太郎氏村   遠山左衛門尉景朝   葛西左衛門尉清重
 東六郎行胤     加藤左衛門尉行景   信濃次郎左衛門尉二階堂行泰
 隱岐次郎二階堂行義 島津三郎忠直     天野次郎左衛門尉景氏
 大江兵衛尉能行   伊賀四郎左衛門尉朝行 狩野藤右衛門尉
 遠藤左近将監為俊  中条左衛門尉     佐々木左衛門尉
 同佐々木三郎泰綱
 一番後ろが佐々木判官信綱
その屋敷へ入った後、迎えの儀式の酒三々九度を用意した所へ、相州時房さん・武州泰時さんがきてきました。越後守朝時は追っつけ参上しましたとさ。

安貞二年(1228)十月大十六日丙辰。日中以後還御云々。生西進御引出物。御釼。砂金。御弓征矢。御行騰。御馬二疋〔一疋置鞍〕等也云々。

読下し                      ひなか いご  かんご    うんぬん  せいせい おんひきでもの  しん
安貞二年(1228)十月大十六日丙辰。日中以後に還御すと云々。 生西 御引出物を進ず。

ぎょけん  さきん  おんゆみ そや  おんむかばき おんうまにひき  〔いっぴきくら  お   〕 ら なり  うんぬん
御釼、砂金、御弓征矢、御行騰、御馬二疋〔一疋鞍を置く〕等也と云々。

現代語安貞二年(1228)十月大十六日丙辰。午後になって御帰りです。生西小山朝政は、引き出物を献上しました。刀・砂金・戦闘用弓矢・乗馬袴(ローハイド)・馬二頭〔一頭は鞍を載せる〕などだそうな。

安貞二年(1228)十月大十八日戊午。昨日午尅。筥根社壇燒亡之由。馳參申之。當社垂跡以來。未有回祿之例云々。依之。御作事可延引否。及評議。如助教。駿河前司。隱岐入道。後藤左衛門尉。凝群議。依風顛倒屋々被取立之條不可有其憚云々。」無御侍并中門廊條。頗似荒癈之躰也。早可被急御造作之由。人々申之云々。

読下し                      さくじつうまのこく はこねしゃだん しょうぼうのよし  は   さん  これ  もう
安貞二年(1228)十月大十八日戊午。昨日午尅、筥根社壇@燒亡之由、馳せ參じ之を申す。

とうしゃすいしゃくいらい いま  かいろくの れいあ       うんぬん
當社垂跡以來、未だ回祿之例有らずと云々。

これ  よっ    おんさくじ  えんいん  べ    いな    ひょうぎ  およ
之に依て、御作事は延引す可きや否や、評議に及ぶ。

じょきょう するがのぜんじ おきのにゅうどう  ごとうさえもんのじょう   ごと       ぐんぎ   こ
助教、駿河前司、隱岐入道、後藤左衛門尉の如きが、群議を凝らす。

かぜ  よっ  てんとう  おくおく  と   た   られ  のじょう  そ   はばか あ  べからず  うんぬん
風に依て顛倒の屋々を取り立て被るA之條、其の憚り有る不可Bと云々。」

おんさむらいなら   ちうもん  ろうな    じょう  すこぶ こうはいのてい  に   なり  はや  ごぞうさ   いそ  れるべ   のよし  ひとびとこれ  もう    うんぬん
 御侍 并びに中門の廊無きの條、頗る荒癈之躰に似る也。早く御造作を急が被可き之由、人々之を申すと云々。

参考@筥根社壇は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1箱根神社。旧名は筥根權現。
参考A屋々を取り立て被るは、倒れた建物を建て直す、修理する。取り建てる。
参考B其の憚り有る不可は、陰陽道的に遠慮やためらいは必要ない事。

現代語安貞二年(1228)十月大十八日戊午。昨日の昼頃に、箱根神社の神殿や仏閣が焼けたと走って来て報告しました。箱根神社は開設以来未だに火事にあった事が無かったそうです。この災厄によって、御所などの修理を延期するかどうか検討しました。助教中原師員・駿河前司三浦義村・隱岐入道行西二階堂行村・後藤左衛門尉基綱などが討議をしました。風によって倒壊した建物を修理する(建て直す)のは、(陰陽道的には)何も懸念することは無いとの事です。」
侍控所それに中門の廊下が無いのは、とても荒廃しているように見えるので、早く修理を急がせるようにと、人々が云っているそうな。

安貞二年(1228)十月大十九日己未。リ。御所并竹御所中門廊侍等被建之。本造進之輩各營作云々。後藤左衛門尉奉行之。竹御所事者。一向政所沙汰云々。信濃民部大夫入道行然爲奉行云々。

読下し                      はれ  ごしょ なら     たけごしょ  ちうもん  ろう   さむらいらこれ  た   られ
安貞二年(1228)十月大十九日己未。リ。御所并びに竹御所の中門の廊、 侍等 之を建て被る。

もと  ぞうしんのやから おのおの えいさく   うんぬん  ごとうさえもんのじょう  これ  ぶぎょう
本は造進之 輩  各 營作すと云々。後藤左衛門尉 之を奉行す。

たけどしょ  ことは   いっこう  まんどころ さた    うんぬん  しなののみんぶたいふにゅうどうぎょうねん ぶぎょうたり  うんぬん
竹御所の事者、一向に政所沙汰すと云々。 信濃民部大夫入道行然  奉行爲と云々。

現代語安貞二年(1228)十月大十九日己未。晴れです。御所と竹御所の中門の廊下・侍控所を建設してます。元々建物を献上した連中がそれぞれ工事を行っているそうな。後藤左衛門尉基綱が指揮担当です。竹御所については、一手に政務事務所が引き受けてるそうな。信濃民部大夫入道行然二階堂行盛が指揮担当です。

安貞二年(1228)十月大廿五日乙丑。霽。去廿二日。火土相犯之由。天文道献勘文。周防前司。後藤左衛門尉等披露之云々。

読下し                      はれ  さんぬ にじうににち  か ど   あいおか  のよし  てんもんどうかんもん けん
安貞二年(1228)十月大廿五日乙丑。霽。去る廿二日、火土を相犯す之由、天文道勘文を献ず。

すおうのぜんじ  ごとうさえもんのじょうら これ  ひろう    うんぬん
周防前司、後藤左衛門尉等之を披露すと云々。

現代語安貞二年(1228)十月大二十五日乙丑。晴れました。先日の22日に火星が土星の軌道を犯したと、天文方が上申しました。周防前司中原親実・後藤左衛門尉基綱達が、今日報告しました。

安貞二年(1228)十月大廿六日丙寅。リ。可被行天變御祈之由。有其沙汰。三條左近大夫將監親實爲奉行云々。」今夜。竹御所召始新調御輿云々。非御出于他所之儀。郭内也。

読下し                      はれ  てんぺん  おいのり  おこなはれ べ  のよし  そ   さた  あ    さんじょうさこんたいふしょうげんちかざね ぶぎょうrたり  うんぬん
安貞二年(1228)十月大廿六日丙寅。リ。天變の御祈を行被る可き之由、其の沙汰有り。 三條左近大夫將監親實 奉行爲と云々。」

こんや   たけごしょ しんちょう  おんこし  め   はじ    うんぬん  たしょに ぎょしゅつにぎ  あらず  かくないなり
今夜、竹御所 新調の御輿を召し始むと云々。他所于御出之儀に非。郭内也。

現代語安貞二年(1228)十月大二十六日丙寅。晴れです。天の星の運航の異変を静めるお祈りをするように決定しました。三条左近大夫将監親実が指揮担当です。」
今夜、竹御所が牛車の新車に試乗しました。他所へ出たわけではなく、敷地内だそうな。

安貞二年(1228)十月大卅日庚午。天霽。御祈等始行之。一字金輪法〔大進僧都〕。八字文殊〔信濃法印〕。愛染王〔若宮別當〕。藥師〔宰相律師〕。北斗〔丹後僧都〕。土曜供〔助法印〕。天地災變〔親職〕。泰山府君〔泰貞〕。熒惑星〔リ幸〕。鎭星〔リ賢〕。太白星〔重宗〕等也。爲周防前司。三條左近大夫等奉行。面々供料。致其沙汰。各所充人々也。

読下し                    そらはれ おいのりらこれ  しぎょう
安貞二年(1228)十月大卅日庚午。天霽。御祈等之を始行す。

いちじこんろんほう 〔 だいしんそうづ 〕   はちじもんじゅ 〔 しなののほういん 〕   あいぜんおう 〔わかみやべっとう〕  やくし  〔 さいしょうりっし 〕    ほくと  〔 たんごのそうづ 〕    どようぐ   〔すけのほういん〕
一字金輪法〔大進僧都〕。八字文殊〔信濃法印〕。愛染王〔若宮別當〕藥師〔宰相律師〕。北斗〔丹後僧都〕。土曜供〔助法印〕

てんちさいへん 〔ちかもと〕   たいさんふくん 〔やすさだ〕   けいこくせい 〔はるゆき〕   てんせい 〔はるかた〕  たいはくせい 〔しげむね〕 ら なり
天地災變〔親職〕。泰山府君〔泰貞〕。熒惑星〔リ幸〕。鎭星〔リ賢〕。 太白星〔重宗〕等也。

すおうのぜんじ  さんじょうさこんたいふら ぶぎょう  な    めんめん くりょう   そ    さた   いた  おのおの ひとびと  あ    ところなり
周防前司、三條左近大夫等奉行と爲し、面々の供料、其の沙汰を致し、各 に人々に充てる所也。

現代語安貞二年(1228)十月大三十日庚午。空は晴れました。天変のお祈りを始めました。一字金輪のお経〔大進僧都寛基〕・八字文殊のお経〔信濃法印道禅〕・愛染明王のお経〔若宮別当定雅〕・薬師如来のお経〔宰相律師〕・北斗星のお経〔丹後僧都頼暁〕・土星の供養〔助法印珍与〕・天地災変〔安陪親職〕・泰山府君祭〔安陪泰貞〕・螢惑星火星〔安陪晴幸〕・填星土星〔安陪晴賢〕・太白星金星〔安陪重宗〕などです。周防前司中原親実・三条左近大夫親実が指揮担当として、それぞれに費用などを采配しそれぞれに割り当てたのです。

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吾妻鏡入門第廿七巻

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