吾妻鏡入門第廿七巻

寛喜元年己丑(1229)七月大

寛喜元年(1229)七月大三日戊辰。寅一點艮方赤。申刻雷鳴。御倉南邊雷落云々。

読下し                   とらのいってん うしとら かたあか  さるのこくらいめい  みくら みなみへん らくらい   うんぬん
寛喜元年(1229)七月大三日戊辰。寅一點@ 艮 方赤し。申刻雷鳴。御倉の南邊に雷落すと云々。

現代語寛喜元年(1229)七月大三日戊辰。午前三時頃に、北東鬼門の方向が赤い。午後四時頃に雷。御所の倉の南辺りに落雷したようです。

解説@寅一點は、時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら3時〜3:24を一点、3:24〜3:48を二点、3:48〜4:12を三点、4:12〜4:36を四点、4:36〜5:00を五点。

寛喜元年(1229)七月大四日己巳。リ。午刻將軍家御不例。御顏腫。去年十二月七日初有此事。其後間更發御。仍爲助教師員奉行。被行御占處。御内心所勞之上。呪咀靈氣。氏神成崇之所奉致歟。就内外被祈謝者。漸可有御平減之旨。七人同心占申云々。

読下し                   はれ  うまのこく しょうぐんけ ごふれい   おんかお  は
寛喜元年(1229)七月大四日己巳。リ。午刻 將軍家 御不例@。御顏が腫れるA

きょねんじうにがつなぬかはじ    かく  ことあ     そ   ご まま さら  はっ  たま
去年十二月七日初めて此の事有り。其の後間 更に發し御う。

とっ  じょきょうもろかず ぶぎょう な    おんうら  おこな れるところ ごないしん しょろうの うえ  じゅそ  れいき  うじがみたた  な   の いた たてまつ ところか
仍て助教師員 奉行と爲し、御占を行は被處、御内心 所勞之上、呪咀の靈氣、氏神崇り成す之致し奉る所歟。

ないがい  つ   きしゃされ  ば  しばら ごへいげんあ   べ   のむね  しちにんどうしん うらな もう    うんぬん
内外に就きB祈謝被れ者、漸く御平減C有る可き之旨、七人同心に占い申すと云々。

参考@御不例は、普段の例にあらず、で病気。
参考
A顏が腫れるは、おたふく風邪だろうか?
参考B内外に就きは、内典が仏教で外典が陰陽道。
参考C御平減は、気持が平らかになり、病の気が減る。つまり治る。

現代語寛喜元年(1229)七月大四日己巳。晴れです。お昼頃将軍頼経様(12歳)が具合が悪くなり、顔が腫れています。去年の12月7日に初めてこの症状が出たのです。その後は、たまに発病していました。それなので、助教中原師員が担当して、占いをさせたところ、「お心がお疲れの上、呪詛の霊や氏神の祟りがそういう悪さをするのでしょうかね。仏教や陰陽道で祈り誤れば、きっと快方に向かうでしょう。」と七人が同じ占い結果を云っておりますそうな。

寛喜元年(1229)七月大五日庚午。リ。今朝御腫聊令減給云々。

読下し                   はれ   けさ おんはれ いささ げん  せし  たま    うんぬん
寛喜元年(1229)七月大五日庚午。リ。今朝御腫 聊か減じ令め給ふと云々。

現代語寛喜元年(1229)七月大五日庚午。晴れです。今朝はお顔の腫れが、多少少なくなって来ています。

寛喜元年(1229)七月大七日壬申。天リ。將軍家出御馬塲殿。於此所有童舞。若宮新別當法印定親參上云々。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ ばばどの  しゅつご  こ   ところ をい わらわまい あ
寛喜元年(1229)七月大七日壬申。天リ。將軍家馬塲殿に出御。此の所に於て童舞@有り。

わかみやしんべっとう ほういんていしん さんじょう   うんぬん
若宮新別當 法印定親 參上すと云々。

参考@童舞は、稚児舞。

現代語寛喜元年(1229)七月大七日壬申。空は晴れです。将軍頼経様は馬場殿へお出ましです。この場所で、稚児の踊りがありました。鶴岡八幡宮新筆頭の法印定親がご機嫌伺いに連れてきました。

寛喜元年(1229)七月大八日癸酉。リ。被始行五壇御修法云々。

読下し                   はれ   ごだん  ごしゅほう  しぎょうされ    うんぬん
寛喜元年(1229)七月大八日癸酉。リ。五壇の御修法を始行被ると云々。

現代語寛喜元年(1229)七月大八日癸酉。晴れです。五人の坊さんが一同に拝む密教の儀式を始めましたとさ。

寛喜元年(1229)七月大十一日丙子。當于故禪定二品〔政子〕御月忌。於勝長壽院。被行一切經會。相州。武州被參云々。

読下し                      こぜんじょうにほん 〔まさこ〕  おんつきいににあた   しょうちょうじゅいん をい   いっさいきょうえ おこな れる
寛喜元年(1229)七月大十一日丙子。故禪定二品〔政子〕御月忌于當り、勝長壽院に於て、一切經會を行は被。

そうしゅう ぶしゅうまいられ    うんぬん
相州、武州參被ると云々。

現代語寛喜元年(1229)七月大十一日丙子。故二位家政子様の命日なので、勝長寿院で一切経を唱える式典を行いました。相州北条時房さんも武州北条泰時さんも出席だそうな。

寛喜元年(1229)七月大廿三日戊子。天リ。丑刻月犯歳星〔相去一尺所〕。

読下し                     そらはれ  うしのこく つき さいせい  おか   〔あいさ  いっしゃく ところ〕
寛喜元年(1229)七月大廿三日戊子。天リ。丑刻 月 歳星を犯す〔相去る一尺の所〕

現代語寛喜元年(1229)七月大二十三日戊子。空は晴れです。丑刻午前二時頃、月が歳星木星の軌道を犯しました〔30cmまで近づきました〕。

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