寛喜二年庚寅(1230)閏正月小
寛喜二年(1230)閏正月小七日庚寅。武州以祗候人等。去年差遣京都。對多好方。令習神樂并和琴秘曲。而好方近日可參向關東之由。有其聞。仍今日重而被遣御書於好方。止下向儀。閑可授彼曲之旨被載之云々。 |
読下し ぶしゅう
しこうにん
ら もっ きょねんきょうと さしつか おおののよしかた たい
寛喜二年(1230)閏正月小七日庚寅。武州、祗候人等を以て、去年京都へ差遣はし@、
多好方Aに對し、
かぐらなら わぎん ひきょく なら せし しか
よしかた きんじつかんとう
さんこうすべ のよし そ きこ あ
神樂并びに和琴の秘曲を習は令む。而るに好方、近日關東へ參向可き之由、其の聞へ有り。
よっ きょう かさ て
おんしょを よしかた つか
され げこう ぎ や しばら か きょく さず べ のむね これ の られ うんぬん
仍て今日重ね而御書於好方に遣は被、下向の儀を止め、閑く彼の曲を授ける可し之旨、之を載せ被ると云々。
参考@去年京都へ差遣はしは、寛喜元年九月九日に琴を覚えさせるために4名行かせている。1名は12月に交代。
参考A多好方は、建久二年十月二十五日条にて頼朝が宮人の曲を唱はすために京都から呼んでる。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小七日庚寅。武州北条泰時さんは、将軍の側近達を去年京都へ行かせて、音曲の名人多好方にお神楽やお琴の秘曲を習わせております。それなのに、多好方が近いうちに鎌倉へご機嫌伺いに来るとの噂が耳に入ったので、今日又お手紙を多好方に出して、「鎌倉へ来るのを止めて、研修員への授業に専念してくれ」と書き載せましたとさ。
寛喜二年(1230)閏正月小十七日庚子。リ。竹御所二所奉幣御使左衛門尉廣光進發。去十三日御精進始也。 |
読下し はれ たけごしょ にしょほうへい おんし
さえもんのじょうひろみつ しんぱつ
さんぬ じうさんにち ごしょうじんはじ なり
寛喜二年(1230)閏正月小十七日庚子。リ。竹御所の二所奉幣の御使
左衛門尉廣光、 進發す。去る十三日 御精進始め也。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小十七日庚子。晴れです。竹御所の箱根・伊豆両権現への代参の左衛門尉広光が出発です。先日の13日が精進潔斎始めです。
寛喜二年(1230)閏正月小十九日壬寅。今曉地震。 |
読下し こんぎょうぢしん
寛喜二年(1230)閏正月小十九日壬寅。今曉地震。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小十九日壬寅。今朝夜明け頃に地震です。
寛喜二年(1230)閏正月小廿日癸夘。入夜雷鳴。 |
読下し よ い らいめい
寛喜二年(1230)閏正月小廿日癸夘。夜に入り雷鳴。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小二十日癸卯。夜になって雷です。
寛喜二年(1230)閏正月小廿二日乙巳。酉刻地震。大慈寺後山頽。 |
読下し とりのこくぢしん だいじじ うしろやまくず
寛喜二年(1230)閏正月小廿二日乙巳。酉刻地震。大慈寺の後山頽れる。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小二十二日乙酉。午後六時頃地震です。大慈寺の後ろの山が崩れました。
寛喜二年(1230)閏正月小廿三日丙午。天リ。將軍家年首御濱出始也。渡御由比浦。先小笠懸。次遠笠懸。次流鏑馬。次犬追物〔廿疋〕。次小山五郎。三浦四郎。武田六郎。小笠原六郎。随別仰。射作物等。御入興無他云々。 |
読下し
そらはれ しょうぐんけ ねんしゅ おんはまいで
はじ なり ゆいのうら わた たま
寛喜二年(1230)閏正月小廿三日丙午。天リ。將軍家、年首の御濱出
始め也。由比浦に渡り御う。
ま こがさがけ つい
とおがさがけ つぎ やぶさめ つぎ
いぬおうもの 〔にじっぴき〕
先ず小笠懸。次で遠笠懸。次に流鏑馬。次に犬追物〔廿疋〕。
つぎ おやまのごろう みうらのしろう たけだのろくろう おがさわらのろくろう べつ
おお したが つくりもの ら
い ごにゅうきょう ほかな うんぬん
次に小山五郎、三浦四郎、武田六郎、小笠原六郎、別なる仰せに随い。作物@等を射る。御入興の他無しと云々。
参考@作物は、草鹿などの新たに作った的。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小二十三日丙午。空は晴れです。将軍頼経様(13歳)は、年明け最初の浜へお出で、由比浦へ出かけました。ます、小笠懸。つぎに遠笠懸。次が流鏑馬。次に柵内に犬〔20匹〕を放して周りから鏃のない矢で当てる犬追物です。その次に小山五郎長村・三浦四郎家村・武田六郎信長・小笠原六郎時長は、特別な御命令に従って、草鹿などの新たに作った的を射ました。大変大喜びでしたとさ。
寛喜二年(1230)閏正月小廿六日己酉。瀧口無人之間。仰經歴輩之子孫。可差進之旨。被下院宣已訖。仍日來有其沙汰。小山。下河邊。千葉。秩父。三浦。鎌倉。宇都宮。氏家。伊東。波多野。此家々可進子息一人之旨。今日被仰下。其状云。 |
読下し
たきぐち ひとな のあいだ けいれき やから の
しそん おお さししん べ のむね
寛喜二年(1230)閏正月小廿六日己酉。瀧口@に人無き之間、經歴の輩A之子孫に仰せて、差進ず可き之旨、
いんぜん すで くだされをはんぬ よっ ひごろ そ さた あ
院宣を已に下被 訖。仍て日來其の沙汰有り。
おやま しもこうべ ちば ちちぶ みうら かまくら うつのみや うじいえ いとう はたの
小山・下河邊・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野、
こ いえいえ しそく ひとり
しん べ のむね きょう おお くださる
此の家々は子息一人を進ず可き之旨、今日仰せ下被。
そ じょう い
其の状に云はく。
たきぐち
ひとな のあいだ ごけにん の
なかよ めしつ られ ところなり
瀧口に人無き之間、御家人之中自り召付け被る所也。
そ
うち しそく ひとり すす せし べ のじょう かまくらどの おお よっ しったつくだん ごと
其の内、子息一人進ま令む可き之状、鎌倉殿の仰せに依て、執達件の如し。
うるうしょうがつにじうろくにち むさしのかみ
閏正月廿六日 武藏守
さがみのかみ
相摸守
ぼう どの
某 殿
参考@滝口は、京都御所の北側に鑓水の引込用に滝を作っていた場所のそばに御所警護の詰所(北面)である。そこに勤務た事を名誉な肩書きとして滝口と使う。
参考A經歴の輩は、勤務経験者。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小二十六日己酉。京都御所の警備員が不足しているので、経験者の子孫に命じて、派遣するように院からの命令がありました。そこで常々検討してきました。小山・下河辺・千葉・秩父・三浦・鎌倉党・宇都宮・氏家・伊東・波多野の一族は息子を一人派遣するように、今日命令書を出しました。その内容は、
京都御所の警備員が不足しているので、御家人の中から選び命じます。その家から息子一人を派遣するように、鎌倉将軍の御命令によって、書き出すのはこの通りです。
閏正月26日 武蔵守泰時
相模守時房
何某様へ
寛喜二年(1230)閏正月小廿九日壬子。雨降。將軍家四十五日御方違也。入御相州御亭。竹御所入御駿河入道家。」今夕。於旅御所。佐々木兵衛太郎信實法師申募度々勳功。可返給本領由事。有其沙汰。於功者雖及御感。至彼所々者。有當給人。可期便宜之旨。被仰云々。 |
読下し
あめふ しょうぐんけ しじうごにち おんかたたが なり そうしゅう おんてい い たま
寛喜二年(1230)閏正月小廿九日壬子。雨降る。將軍家、四十五日の御方違へ也。相州の御亭へ入り御う。
たけごしょ するがにゅうどうけ い たま
竹御所は駿河入道家へ入り御う。」
こんゆう たび ごしょ をい ささきのひょうえたろうのぶざねほっし
たびたび くんこう
もう つの ほんりょう かへ たま べ よし こと
今夕、旅の御所に於て、佐々木兵衛太郎信實法師、度々の勳功@を申し募りA、本領Bを返し給はる可きの由の事、
そ さた あ
其の沙汰有り。
こう をい は ぎょかん
およ いへど か しょしょ
いた は とう きゅうにん あ びんぎ ご べ のむね おお
られ うんぬん
功に於て者、御感に及ぶと雖も、彼の所々に至りて者、當の給人C有り。便宜を期す可きD之旨、仰せ被ると云々。
参考@度々の勳功は、承久の乱での手柄。
参考A申し募りは、申し立てる。
参考B本領は、開発領主が地主神(地祇)との契約が成立しているので、多の者に比べ占有権が有る。
参考C當の給人は、現在与えられている者。
参考D便宜を期す可きは、機会(チャンス)を待っているように。
現代語寛喜二年(1230)閏正月小二十九日壬子。雨降りです。将軍頼経様は、前回の方角変えから45日目の方角変えです。時房さんの屋敷へ行きました。竹御所は駿河入道中原季時の家へ行きました。
今日の夕方、出先の御所(時房邸)で、佐々木兵衛太郎信実法師が、何度かの手柄を申し立てて、先祖伝来の領地を返してほしいと云ってる事について、判決がありました。手柄については感心しておりますが、その領地にはすでに現在の所有者がいます。機会を待つようにと仰せになられましたとさ。