吾妻鏡入門第廿七巻

寛喜二年庚寅(1230)二月大

寛喜二年(1230)二月大六日戊午。鶴岡別當法印參御所。奉盃酒。相州。武州參給。駿河前司已下數輩候座。爰上綱具參兒童之中有藝能抜群之者。依仰數度飜廻雪袖。滿座催其興。將軍家又御感之餘。令問其父祖給。法印申云。承久兵乱之時。不圖被召加官軍之勝木七郎則宗子也。被収公所領之間。則宗妻息從類悉以離散。其身已交山林云々。武州尤不便之由申給。彼則宗者。正治之比。与同平景時之間。被召禁畢。適蒙免許。下向本所筑前國之後。候院西面云々。

読下し                   つるがおかべっとうほういん  ごしょ  まい     はいしゅ たてまつ  そうしゅう ぶしゅうさん  たま
寛喜二年(1230)二月大六日戊午。鶴岡 別當法印、御所へ參り、盃酒を奉る。相州、武州參じ給ふ。

するがぜんじ いげ すうやからざ  そうら
駿河前司已下數輩座に候う。

ここ  じょうごう ぐ   まい  じどうの なか  げいのうばつぐんの ものあ     おお    よっ  すうど かいせつ  そで ひるがえ  まんざ そ  きょう  もよお
爰に上綱@具し參る兒童A之中に藝能抜群之者有り。仰せに依て數度廻雪の袖を飜す。滿座其の興を催す。

しょうぐんけまた  ぎょかんの あま    そ   ふそ   と   せし  たま    ほういんもう    い
將軍家又、御感之餘り、其の父祖を問は令め給ふ。法印申して云はくB

じょうきゅうへいらんのとき  はからず  かんぐん  めしくわ  らる  の かちきのしちろうのりむね こなり
 承久 兵乱之時、圖不も官軍に召加へ被る之勝木七郎則宗Cが子也。

しょりょう しゅうこうされ のあいだ  のりむね  さいそく じゅうるい ことごと もっ  りさん    そ   み すで  さんりん  まじ      うんぬん
所領を収公被る之間、則宗が妻息、從類 悉く以て離散し、其の身已に山林に交はると云々。

ぶしゅうもっと ふびんのよし  もう  たま    か   のりむねは  しょうじの ころ  たいらのかげとき よどうのあいだ  めしきん られをはんぬ
武州尤も不便之由を申し給ふ。彼の則宗者、正治之比、 平景時 に与同之間、召禁ぜ被 畢。

たまた めんきょ こうむ   ほんじょ ちくぜんのくに げこうののち  いん  さいめん  そうら   うんぬん
適ま免許を蒙り、本所の筑前國へ下向之後、院の西面に候うと云々。

参考@上綱は、坊主の役付きが僧綱、上位者なので上綱と使っているので「定親」を指す。
参考A
兒童は、稚児。
参考B法印申して云はくは、稚児身分の直答を許さず身分の高い別当が答えている。
参考C
勝木七郎則宗は、勝木庄で香月庄とも書かれ、福岡県八幡西区大字香月。

現代語寛喜二年(1230)二月大六日戊午。鶴岡八幡宮筆頭法印定親が、御所へやって来てお酒を献上しました。相州北条時房さんも武州北条泰時さんも参りました。それに駿河前司三浦義村以下の数人が同席しました。位の高い坊さん上綱定親が連れてきた稚児の中に芸の達者な者がいたので、将軍の仰せで何回か踊って見せました。見ていた人は皆楽しみました。将軍頼経様(13歳)は大喜びのあまり、かれの父の名を聞きました。法印定親が答えて「承久の乱の時に、やむを得ず官軍に入れさせられてしまった勝木七郎則宗の子供です。領地を没収されたので、勝木則宗の妻や子、家来なども散り散りになって、山の中で暮らしているそうです。」武州北条泰時さんは気の毒に思って言いました。「その則宗は、正治年間(1200)に梶原平三景時に同意して囚人になりました。たまたま何かで許されて、本来の領地の筑前国へ下がっていた後に、後鳥羽上皇の警備員として西面に仕えていたのです。」

寛喜二年(1230)二月大七日己未。天リ。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ  もりと  わた  たま    とおがさがけ  やぶさめ  いぬおうもの 〔にじっぴき〕 らなり
寛喜二年(1230)二月大七日己未。天リ。將軍家、杜戸@へ渡り御う。遠笠懸、流鏑馬、犬追物〔廿疋〕等也。

れい  いて みなもっ  さんじょう   おのおの しゃげい  ほどこ   うんぬん
例の射手皆以て參上し、 各 射藝を施すと云々。

参考@杜戸は、神奈川県三浦郡葉山町森戸。

現代語寛喜二年(1230)二月大七日己未。空は晴れです。将軍頼経様は森戸海岸へ出かけました。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔20匹〕などです。何時もの射手が全員来て、それぞれ弓矢の芸を披露しましたとさ。

寛喜二年(1230)二月大八日庚申。勝木七郎則宗返給本領筑前國勝木庄也。此所。中野太郎助能爲承久勳功賞。雖令拝領。依被賞子息兒童。給則宗畢。助能又賜替筑後國高津包行兩名。武州殊沙汰之給云々。

読下し                    かちきのしちろうのりむね ほんりょう ちくぜんのくに かちきのしょう  かへ  たま    なり
寛喜二年(1230)二月大八日庚申。 勝木七郎則宗、 本領 筑前國 勝木庄@を返し給はる也。

 こ  ところ  なかののたろうすけよし じょうきゅう くんこうしょう  な     はいりょうせし  いへど   しそく じどう  しょうされ    よっ    のりむね  たま   をはんぬ
此の所、中野太郎助能  承久の勳功賞と爲し、拝領令むと雖も、子息兒童が賞被るに依て、則宗に給はり畢。

すけよしまた  かわ   ちくごのくにたかつ  かねゆき りょうみょう たま      ぶしゅうこと  これ   さた   たま    うんぬん
助能又、替りに筑後國高津A、包行の兩名を賜はる。武州殊に之を沙汰し給ふと云々。

参考@勝木庄は、別紙には香月庄とも書かれ、福岡県八幡西区大字香月。
参考A高津は、福岡県久留米市城島町楢津の高津交差点付近。包行は、不明。

現代語寛喜二年(1230)二月大八日庚申。勝木七郎則宗に本来の領地の筑前国勝木庄を返し与えました。この場所は、中野太郎助能が、承久の乱の褒美として与えられていましたが、息子の子供が褒められてその褒美に、勝木則宗に与えられました。中野助能は代わりに筑後国高津・包行の二か所の名(みょう)を与えられました。武州北条泰時さんが特にそう配慮なされたのだそうな。

寛喜二年(1230)二月大十七日己卯。リ。於御所西侍南縁。被行千度御秡。陰陽師親職朝臣〔束帶〕已下十人。陪膳大炊助有時〔布衣上括〕常陸大掾政村〔同〕手長隱岐三郎左衛門尉行義。出羽左衛門尉家平以下十人也。後藤判官基綱奉行之。

読下し                     はれ  ごしょ  にしのさむらい  なんえん  をい    せんどおはらえ おこなはれ
寛喜二年(1230)二月大十七日己卯。リ。御所の 西侍 の南縁に於て、千度御秡を行被る。

おんみょうじちかもとあそん 〔そくたい〕  いげ じうにん  ばいぜん おおいのすけありとき 〔 ほいうわぐくり〕  ひたちだいじょうまさむら〔おなじ〕
陰陽師親職朝臣〔束帶〕已下十人。陪膳は大炊助有時〔布衣上括〕、常陸大掾政村〔同〕

てなが  おきのさぶろうさえもんのじょうゆきよし  でわのさえもんのじょういえひら いげ じうにんなり  ごとうのほうがんもとつな これ  ぶぎょう
手長は隱岐三郎左衛門尉行義、出羽左衛門尉家平以下十人也。後藤判官基綱 之を奉行す。

現代語寛喜二年(1230)二月大十七日己卯。晴れです。御所の西の侍控所の南側の縁側で、千回のお祓いを行いました。陰陽師の安陪親職さん以下10人。お手伝いは、大炊助北条有時〔狩衣にひざ下で縛る袴〕・常陸大掾北条政村〔同じ〕。運ぶ人は、隱岐三郎左衛門尉二階堂行義・出羽左衛門尉中条家平以下10人です。後藤判官基綱が指揮担当です。

寛喜二年(1230)二月大十九日辛巳。天リ。將軍家令出由比濱給。是駿河守〔重時〕爲京都守護。近日依可令上洛。御餞別之故也。相州。武州。駿河守〔各野矢〕被參。有六十疋犬追物。内檢見駿河前司〔白直垂。夏毛行騰。葦毛馬〕。外檢見下河邊左衛門尉〔曳柿直垂。夏毛行騰。黒馬〕。
射手十二人
  一手
 相摸四郎     武田六郎
 佐々木四郎    城太郎
 結城五郎     三浦又太郎
  一手
 相摸五郎     小山五郎
 下河邊左衛門次郎 佐々木八郎
 駿河四郎     小笠原六郎

読下し                     そらはれ  しょうぐんけ ゆいのはま  いでせし  たま
寛喜二年(1230)二月大十九日辛巳。天リ。將軍家 由比濱へ出令め給ふ。

これ するがのかみ 〔しげとき〕 きょうとしゅご  ため  きんじつじょうらくせし  べ    よっ    おせんべつの ゆえなり
是、駿河守〔重時〕京都守護@の爲、近日上洛令む可きに依て、御餞別之故也。

そうしゅう ぶしゅう  するがのかみ 〔おのおの のや 〕 まいられ    ろくじっぴき  いぬおうものあ
相州、武州、駿河守〔 各 野矢〕參被る。六十疋の犬追物有り。

うち けみ   するがぜんじ 〔しろ  ひたたれ   なつげ   むかばき   あしげ うま 〕    そと けみ  しもこうべのさえもんのじょう 〔ひきがき  ひたたれ  なつけ  むかばき  くろうま〕
内檢見は駿河前司〔白の直垂。夏毛の行騰A。葦毛B馬〕。外檢見は下河邊左衛門尉〔曳柿Cの直垂。夏毛の行騰。黒馬〕

参考@京都守護は、六波羅探題。
参考A夏毛の行騰は、夏の鹿の皮で作ったローハイド。
参考B葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。
参考C
曳柿は、柿渋を引いた布。薄茶色。

 いて じうににん
射手十二人

    いちのて
  一手

  さがみのしろう                  たけだのろうろう
 相摸四郎(朝直)     武田六郎(信長)

  ささきのしろう                  じょうのたろう
 佐々木四郎       城太郎(安達義景)

  ゆうきのごろう                   みうらのまたたろう
 結城五郎(重光)     三浦又太郎(氏村)

    いちのて
  一手

  さがみのごろう                  おやまのごろう
 相摸五郎(時直)     小山五郎(長村)

  しもこうべのさえもんじろう            ささきのはちろう
 下河邊左衛門次郎(宗光) 佐々木八郎(信朝)

  するがのしろう                  おがさわらのろくろう
 駿河四郎(家村)     小笠原六郎(時長)

現代語寛喜二年(1230)二月大十九日辛巳。空は晴れです。将軍頼経様は由比ガ浜へお出でです。これは、駿河守北条重時が京都警備として、近いうちに京都へ上るので、その餞別としての行事です。相州北条時房さん・武州北条泰時さん・駿河守北条重時さん〔それぞれ狩用の矢をしょってます〕が参りました。60匹の犬追物です。
内側を監視するのが駿河前司三浦義村〔白い直垂に鹿の夏毛の乗馬袴。葦毛の馬です〕。
外側の監視するのが下河辺左衛門尉行光〔柿渋で仕上げた直垂に鹿の夏毛の乗馬袴。黒馬です〕。
射手は12人です。
  片方が
 相模四郎北条朝直   武田六郎信長
 佐々木四郎      城太郎安達義景
 結城五郎重光     三浦又太郎氏村です。
  もう一方が
 相模五郎北条時直   小山五郎長村
 下河邊左衛門次郎宗光 佐々木八郎信朝
 駿河四郎三浦家村   小笠原六郎時長です。

寛喜二年(1230)二月大廿日壬午。丑刻地震。

読下し                    うしのこくぢしん
寛喜二年(1230)二月大廿日壬午。丑刻地震。

現代語寛喜二年(1230)二月大二十日壬午。午前二時頃地震です。

寛喜二年(1230)二月大廿三日乙酉。リ。被始行御祈等。去廿一日依有太白變也。

読下し                     はれ  おいのりら  しぎょうされ    さんぬ にじういちにち たいはく  へんあ     よっ  なり
寛喜二年(1230)二月大廿三日乙酉。リ。御祈等を始行被る。去る 廿一日 太白の變有るに依て也。

現代語寛喜二年(1230)二月大二十三日乙酉。晴れです。お祈りを始めました。先日の21日に太白金星の動きが異常だったからです。

寛喜二年(1230)二月大卅日壬辰。陰。丑尅。俄鎌倉中騒動。着甲冑揚旗之輩競集于御所并武州門前。雖被加制止。及數百騎之間。輙難靜謐。方々已移時。武州仰云。御所邊騒動。太不穩便。世上狼唳起於如此之次。尤可愼思食云々。頃之内々依有被命之旨歟。尾藤左近入道。平三郎左衛門尉。諏方兵衛尉引率郎從。出門外。稱有謀叛之輩。指濱馳向之間。數百騎輩。忽以從于彼三人之後。到于稻瀬河邊。道然已下相逢于所馳來之軍士云。無叛逆之族。只爲鎭御所近々之騒動也。爰非仰兮面々揚旗。何樣事哉。若無野心者。夜陰之程可進旗。是武州仰也云々。依之老軍二十餘輩。献旗於御使。各自此所離散訖。

読下し                   くもり  うしのこく  にはか かまくたちうそうどう
寛喜二年(1230)二月大卅日壬辰。陰。丑尅、俄に鎌倉中騒動す。

かっちゅう き   はた  あ     のやから  ごしょなら    ぶしゅう  もんぜんに きそ  あつ
甲冑を着て旗を揚げる之輩、御所并びに武州の門前于競い集まる。

せいし  くは  られ   いへど   すうひゃっき  およ  のあいだ  すなは せいひつ がた   かたがたすで  とき  うつ
制止を加へ被ると雖も、數百騎に及ぶ之間、 輙ち靜謐し難し。方々 已に時を移す。

ぶしゅうおお    い
武州仰せて云はく。

ごしょへん  そうどう  はなは おんびん   ず   せじょう  ろうれい  かく  ごと  のついで  をい  お       もっと つつし おも  め   べ     うんぬん
御所邊の騒動、太だ穩便なら不。世上の狼唳、此の如き之次に於て起こる。尤も愼み思い食す可きと云々。

しばらく    ないない  めい  られ  のむねあ     よっ  か  びとうのさこんにゅうどう  へいざぶろうさえもんのじょう  すわのひょうのじょう ろうじゅう  いんそつ
頃之して内々に命ぜ被る之旨有るに依て歟、尾藤左近入道、 平三郎左衛門尉、 諏方兵衛尉 郎從を引率し、

もんがい  いで  むほんのやからあ    しょう    はま  さ   は   むか  のあいだ
門外に出、謀叛之輩有りと稱し、濱を指し馳せ向う之間、

すうひゃっき やから  たちま もっ  か   さんにんの うしろにしたが   いなせがわへん に いた
  數百騎の輩、忽ち以て彼の三人之 後于從い、稻瀬河邊 于到る。

どうねん いげ   は   きた  ところのぐんしに あいあ   い       ほんぎゃく の やから な    ただ ごしょ きんきんのそうどう  しず    ためなり
道然已下、馳せ來る所之軍士于相逢い云はく。叛逆 之 族 無し。只 御所近々之騒動を鎭めん爲也。

ここ  おお   あらず て めんめんはた あ     いかよう  ことぞや  も   やしん な     ば   やいんの ほど はた  しん  べ
爰に仰せに非し兮 面々旗を揚げ、何樣の事哉。若し野心無くん者、夜陰之程 旗を進ず可し。

これ  ぶしゅう  おお  なり  うんぬん  これ  よっ  ろうぐん にじうよやから  はたを おんし  けん   おのおの こ  ところよ  はな  さん をはんぬ
是は武州の仰せ也と云々。之に依て老軍二十餘輩、旗於御使に献じ、 各 此の所自り離れ散じ訖。

現代語寛喜二年(1230)二月大三十日壬辰。曇り。午前二時頃、急に鎌倉中が騒々しくなりました。鎧兜に身を固め旗を背に立て馬に乗った連中が、御所や泰時さんの門前に駆け集まって来ました。止めるよう諭しましたが、数百も居るので、おいそれと静まりません。どうしようもなく時が過ぎて行きます。泰時さんが言うには、「御所のあたりでで騒ぐとは、不穏な事だ。世間での狼藉・違法行為は、このような時に起きやすいものだ。とくに冷静に振る舞うよう考えるべきだ。」
少したって内緒で命令があったらしく、尾藤左近入道道然景綱・平三郎左衛門尉盛綱・諏訪兵衛尉盛重は、家来たちを引き連れて、門の外へ出て、「謀反人(反逆者)がいるぞ!」と云いながら、浜へ向かったので、数百騎の連中は、すぐにその三人の後ろについて行って、稲瀬川あたりに到着しました。
尾藤道然以下は、走ってきた軍隊に向って云いました。「謀反人はおりません。ただ、御所の近所での騒ぎを静めるためなのです。今、命令もないのに、それぞれ戦用の旗をあげてるのは、いったい何事ですか。もし、下心が無いのなら、夜なので旗は差し出してください。これは泰時さんの命令です。」とのこと。この言葉で、年配の武者20数人が旗を使いの者に差し出して、それぞれそこから解散しました。

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吾妻鏡入門第廿七巻

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