寛喜二年庚寅(1230)五月小
寛喜二年(1230)五月小五日丙申。雨降。子尅。盜人推參常御所。盜取御釼御衣等不知行方。武州依令聞此事給。則被參。仰金窪左衛門尉行親。平三郎左衛門尉盛綱等。令大番衆。警固四方。被止人之出入云々。 |
読下し
あめふり ねのこく ぬすっと
つね ごしょ すいさん
ぎょけん ごいら ぬす と ゆくえ しれず
寛喜二年(1230)五月小五日丙申。雨降。子尅、盜人
常の御所@に推參し、御釼御衣等を盜み取り行方を知不。
ぶしゅう こ こと き せし たま よっ すなは まいられ かなくぼさえもんのじょうゆきちか へいざぶろうさえもんもりつな ら おお
武州此の事を聞か令め給ふに依て、則ち參被、
金窪左衛門尉行親、 平三郎左衛門尉盛綱等に仰せて、
おおばんしゅう し
しほう けいご ひとの でいり
と られ うんぬん
大番衆を令て、四方を警固し、人之出入を止め被ると云々。
参考@常の御所は、京都御所で云う昼の座。
現代語寛喜二年(1230)五月小五日丙申。雨降りです。夜中の12時頃に泥棒が入り、将軍の昼の座へきて、刀や着物を盗んで行方知れずです。泰時さんはこの話を聞いて、すぐに御所へ来て、金窪兵衛尉行親・平三郎左衛門尉盛綱達に云いつけて、御所警護にきている番役の人に命じて四方を封鎖し、人の出入りを止めさせましたとさ。
寛喜二年(1230)五月小六日丁酉。小雨灑。武州未退出給。去夜盜人事。殊被驚憤之故也。於侍召集自去夜參候之輩被糺彈。其中恪勤一人。美女一人有疑殆兮。仍參籠于鶴岡八幡宮。可書進起請文之由。被仰含畢。 |
読下し
こさめふ
ぶしゅういま たいしゅつ たま
さんぬ よ ぬすっと
こと こと おどろ おこられ のゆえなり
寛喜二年(1230)五月小六日丁酉。小雨灑る。武州未だ退出し給はず。去る夜の盜人の事、殊に驚き憤被る之故也。
さむらい をい さんぬ よ よ さんろうのやから
めしあつ きゅうだんされ そ なか かくごんひとり びじょ
ひとり ぎたい あ
侍
に於て去る夜自り參候之輩を召集め糺彈被る。其の中に恪勤@一人、美女A一人疑殆有り兮。
よっ つるがおかはちまんぐう
に
さんろう きしょうもん か しん べ のよし おお
ふく られをはんぬ
仍て
鶴岡八幡宮 于參籠し、起請文を書き進ず可しB之由、仰せ含め被 畢。
参考@恪勤は、領地のない人が御所に住み着いて一日あたり玄米五升の年俸で勤務する。この頃は小侍所の雑用係。
参考A美女は、女官。女官は美女に限るのであろうか?
参考B參篭し起請文を書き進ず可しは、神様に参篭中に誓約書を書いて神様に提出する。この誓約が七項目になると嘘をついていることになる。一種の盟神探湯(くがたち)か?
現代語寛喜二年(1230)五月小六日丁酉。小雨が降ってます。泰時さんは昨夜から御所に居たままです。それは昨夜の泥棒事件をとても驚きと共にお怒りだからです。侍詰所で、昨夜から来ている連中を集めて、罪を問いただしています。その中に、御所勤務の雑用係一人と美人の女官一人に疑いがあります。そこで鶴岡八幡宮におこもりして、神に誓う誓約書を書くように、云って聞かせました。
寛喜二年(1230)五月小十四日乙巳。リ。先日嫌疑恪勤美女。依有起請文之失。被糺明子細。追放御所中。件美女引級彼男令盜之條。令露顯云々。 |
読下し
はれ せんじつ けんぎ かくごん
びじょ きしょうもんの しつあ よっ
しさい きゅうめされ ごしょちう ついほう
寛喜二年(1230)五月小十四日乙巳。リ。先日嫌疑の恪勤と美女、起請文之失有るに依て、子細を糺明被、御所中を追放す。
くだん びじょ か
おとこ いんきゅう ぬす せし
のじょう ろけんせし うんぬん
件の美女彼の男を引級し盜ま令む之條、露顯令むと云々。
現代語寛喜二年(1230)五月小十四日乙巳。晴れです。先日の容疑者の雑用と女官の誓約書が出てないので、事情を問いただしたうえで、御所から解雇しました。その美人の女官が男をたらしこんで盗ませたことが、暴露したからです。
寛喜二年(1230)五月小廿一日壬子。加賀前司遠兼令知行亡父安藝前司仲兼遺領地頭職事。不可違先例之旨。今日蒙仰。彼仲兼朝臣者。去元久元年十二月。將軍家室〔西八條禪尼是也〕自京都御下向之時供奉。二年閏七月廿六日令拝領一村之後。父子相續關東奉公云々。 |
読下し
かがぜんじとおかね
ちぎょうせし ぼうふ あきぜんじなかかね いりょう ぢとうしき こと
寛喜二年(1230)五月小廿一日壬子。加賀前司遠兼@が知行令む亡父安藝前司仲兼が遺領の地頭職の事、
せんれい たが べからずのむね きょう
おお こうむ
先例に違う不可之旨、今日仰せを蒙る。
か
なかかねあそんは さんぬ げんきゅうがんねんじうにがつ しょうぐんけしつ 〔にしはちじょうぜんにこれなり〕 きょうと
よ ごげこう のとき ぐぶ
彼の仲兼朝臣者、去る
元久元年十二月A、 將軍家室B〔西八條C禪尼是也〕京都自り御下向之時供奉す。
にねんうるうしちがつにじうろくにち いっそん
はいりょうせし ののち おやこ かんとう ほうこう
そうぞく うんぬん
二年閏七月廿六日
一村を拝領令む之後、父子關東の奉公を相續すと云々。
参考@加賀前司遠兼は、宇多源氏。
参考A元久元年十二月は、1204年12月10日に御臺所が到着している。
参考B將軍家室は、実朝の奥さん坊門姫。
参考C西八條は、元C盛邸。
現代語寛喜二年(1230)五月小二十一日壬子。加賀前司源兼遠が支配している亡き父安芸前司仲兼から相続した領地の地頭職について、先例を変えて余分に年貢を取ったりしないように、今日将軍から仰せを頂きました。この仲兼は、去る元久元年十一月に将軍実朝様の奥さん〔西八条禅尼がこの方です(坊門姫)〕が京都から鎌倉へ嫁いできた時にお供をしてきました。同二年閏七月二十六日に一村を頂戴してからは、親子で関東への勤めを相続しました。
寛喜二年(1230)五月小廿二日癸丑。々刻。將軍家御鼻血出。是御咳病故歟云々。 |
読下し
うしのこく しょうぐんけ おんはなぢ
で これ おんせき やまい ゆえか うんぬん
寛喜二年(1230)五月小廿二日癸丑。々刻、將軍家
御鼻血出る。是、御咳の病の故歟と云々。
現代語寛喜二年(1230)五月小二十二日癸丑。午前二時頃に、将軍頼経様が鼻血を流しました。これは咳が原因らしいのです。
寛喜二年(1230)五月小廿四日乙夘。辰刻。御鼻血出事及度々。仍御祈。於御所被行七座泰山府君祭隱岐三郎左衛門尉爲奉行。可令左近大夫將監佐房奉行之處。依有故障。被改之云々。 |
読下し
たつのこく おんはなぢで ことたびたび およ よっ おいの ごしょ をい しちざ たいさんふくんさい おこなはれ
寛喜二年(1230)五月小廿四日乙夘。辰刻、御鼻血出る事度々に及ぶ。仍て御祈り。御所に於て七座の泰山府君祭@を行被る。
おきのさぶろうさえもんのじょう ぶぎょうたり さこんたいふしょうげんすけふさ ぶぎょうせし
べ のところ こしょう
あ よっ これ あらた られ
うんぬん
隱岐三郎左衛門尉
奉行爲。
左近大夫將監佐房 奉行令む可き之處、故障有るに依て、之を改め被ると云々。
現代語寛喜二年(1230)五月小二十四日乙卯。午前八時頃、鼻血がたびたび出るのでました。そこでお祈りをします。御所で七人の泰山府君祭を行いました。隱岐三郎左衛門尉二階堂行義が指揮担当です。左近大夫将監大江佐房が担当するはずでしたが、具合が悪くなったので交代しましたとさ。
解説@泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。
寛喜二年(1230)五月小廿七日戊午。リ。修理亮〔時氏〕此間病惱。自今日未尅。俄増氣。武州被凝數ケ丹祈云々。宮内兵衛尉。周枳兵衛尉。安藤左近將監。同二郎。雜色兵衛尉等。爲御看病祗候。各敢不避其席云々。 |
読下し
はれ しゅりのすけ 〔ときうじ〕 こ あいだびょうのう
寛喜二年(1230)五月小廿七日戊午。リ。修理亮〔時氏〕此の間病惱す。
きょう
ひつじのこくよ にはか ましげ ぶしゅう
すうか たんき こらされ うんぬん
今日未尅自り、俄に増氣。武州數ケの丹祈を凝被ると云々。
くないひょうえのじょう すきのひょうえのじょう あんどうさこんしょうげん どうじろう ぞうしきひょうえのじょう
ら ごかんびょう ため しこう
宮内兵衛尉、
周枳兵衛尉@、安藤左近將監、同二郎、雜色兵衛尉
等、御看病の爲祗候す。
おのおの あえ
そ せき さ ざる うんぬん
各 敢て其の席を避ら不と云々。
参考@周枳兵衛尉は、丹後国。現在の京都府京丹後市大宮町周枳。九条道家の領地。
現代語寛喜二年(1230)五月小二十七日戊午。晴れです。修理亮北条時氏さんはこのところ病気です。今日、午後二時頃容態が悪化しました。武州北条泰時さんは、数か所に祈らせましたそうな。宮内兵衛尉公氏・周枳兵衛尉・安藤左近将監・同次郎・雑色兵衛尉などが、看病のため、やってきました。それぞれ席から離れませんでしたとさ。