吾妻鏡入門第廿七巻

寛喜二年庚寅(1230)十一月大

寛喜二年(1230)十一月大六日癸巳。雨降。如西國夜討強盜殺害之与黨等事。自守護所二ケ度可觸遣。其上無承引者。入使者可搦取之由。可加下知之旨。可被仰六波羅云々。

読下し                      あめふ     さいごく  ようち   ごうとう  せつがいの よとう ら  ごと    こと   しゅごしょ よ   にかど  ふ   つか    べ
寛喜二年(1230)十一月大六日癸巳。雨降る。西國の夜討、強盜、殺害之与黨等の如きの@事、守護所自り二ケ度觸れ遣はす可し。

 そ   うえしょういんな  もの   ししゃ   い   から  と   べ   のよし   げち   くは    べ   のうね   ろくはら   おお  られ  べ     うんぬん
其の上承引無き者は、使者を入れ搦め取る可き之由、下知を加へる可し之旨、六波羅へ仰せ被る可きと云々。

参考@与黨等の如きのは、仲間がいたならば。

現代語寛喜二年(1230)十一月大六日癸巳。雨降りです。関西以西方面での夜討・強盗・殺害人をかくまう仲間については、軍事警察管理の守護所から二度通知すること。それで引き出してこない時は、使いの兵を強制入所させて捕まえて来るように命令しなさいと、六波羅へ命じる事にしましたとさ。

寛喜二年(1230)十一月大七日甲午。リ。西國庄公地頭中。依領家預所之訴。被糺断之時。二ケ度令下知之上。猶不叙用者。可注申之由。又被仰六波羅云々。」申刻。鶴岳若宮廻廊中門西腋有死人。而八月放生會延引。今月可被遂行之處。此穢出來。云將軍家御參。云放生會。猶可延引歟之旨。以一二被行七人御占。各二吉之由申之。二者延引也云々。

読下し                     はれ  さいごく  しょうこう   ぢとう   うち  りょうけ あずかりどころ の うった   よっ    きゅうだんされ  のとき
寛喜二年(1230)十一月大七日甲午。リ。西國の庄公@の地頭の中、領家、 預所 之訴へに依て、糺断被る之時、

にかど  げち せし   のうえ  なおじょようせず  ば   ちう  もう  べ   のよし  また ろくはら  おお  られ    うんぬん
二ケ度下知令む之上、猶叙用不ん者、注し申すA可し之由、又六波羅へ仰せ被ると云々。」

さるのこく つるがおか わかみや かいろう ちうもん  にしわき  しにん あ
 申刻、鶴岳 若宮の廻廊 中門の西腋に死人有り。

しか    はちがつ  ほうじょうえ えんいん    こんげつ すいこうされ  べ  のところ  かく  え しゅつらい
而るに八月の放生會 延引し、今月 遂行被る可き之處、此の穢出來す。

しょうぐんけ  ぎょさん  い     ほうじょう   い     なお えんいんすべ  か のむね  いちに  もっ  しちにん おんうら  おこなはれ
將軍家の御參と云ひ、放生會と云ひ、猶 延引 可き歟之旨、一二を以て七人の御占を行被る。

おのおの に   きち のよしこれ  もう    には えんいんなり  うんぬん
 各 二が吉之由之を申す。二者延引也と云々。

参考@庄公は、荘園と公領。
参考A注し申すは、文書に書いて提出する。

現代語寛喜二年(1230)十一月大七日甲午。晴れです。関西以西の荘園や国衙領の地頭のうち、上級荘園管理者の領家や、その現地管理人の預所からの訴訟で、敗訴した時は、二度通知して云う事を聞かない時は文章にして出させなさいと、六波羅へ追加して命じましたとさ。」
午後四時頃に、鶴岡八幡宮の回廊の中門の西脇に死人がいました。それで八月の生き物を放して贖罪する儀式の放生会を延期して、今月実施しようとしたらこの穢れが発生しました。将軍頼経様のお参りも放生会も、なお延期するべきか、どちらかに七人に占いをさせました。それぞれ二の方が良いと云います。二は延期です。

寛喜二年(1230)十一月大八日乙未。リ。大進僧都觀基參御所。申云。去月十六日夜半。陸奥國芝田郡。石如雨下云々。件石一進將軍家。大如柚。細長也。有廉。石下事廿余里云々。

読下し                     はれ  だいしんそうずかんき ごしょ  まい    もう     い
寛喜二年(1230)十一月大八日乙未。リ。大進僧都觀基御所へ參り、申して云はく。

さんぬ つきじうろくにち やはん  むつのくにしばたぐん  いし  あめ  ごと   ふ     うんぬん
去る月十六日の夜半、陸奥國芝田郡@に石が雨の如く下ると云々。

くだん いしひと  しょうぐんけ  しん    おお    ゆず  ごと    ほそながなり  かどあ    いしふ   ことにじうより  うんぬん
件の石一つ將軍家に進ず。大きさ柚の如し。細長也。廉有り。石下る事廿余里Aと云々。

参考@芝田郡は、宮城県柴田郡柴田町。
参考A
二十余里は、一里4kmではなく、律令制で五尺を一歩とし、三百歩で一里(454.5m)なので、454.5×20=9.09km。

現代語寛喜二年(1230)十一月大八日乙未。晴れです。大進僧都観基が御所へ来て云いました。「先月の16日の夜中に陸奥国柴田郡に石が雨の様に降ったそうです。その石の一つを将軍頼経様に差し出しました。大きさは柚子程度で細長くて、角があります。石が降ったのは二十余里に渡ったそうな。

寛喜二年(1230)十一月大十一日戊戌。リ。勝長壽院内新造塔婆上棟。武州監臨云々。」又被行變異御祈云々。」今日。巖殿觀音堂居礎引地云々。勸進上人西願云々。

読下し                       はれ  しょうちょうじゅんない しんぞう  とうばじょうとう    ぶしゅうかんりん   うんぬん
寛喜二年(1230)十一月大十一日戊戌。リ。勝長壽院内の新造の塔婆上棟す。武州監臨すと云々。」

またへんい  おいのり  おこなはれ  うんぬん
又變異の御祈を行被ると云々。」

きょう   いわどのかんのんどう いしずえ す   ち   ひ    うんぬん  かんじんしょうにん さいがん  うんぬん
今日、 巖殿觀音堂@の礎を居へ地を引くAと云々。勸進上人は 西願と云々。

参考@巖殿觀音堂は、神奈川県逗子市久木5丁目7の岩殿寺。
参考A
地を引くは、建築予定地に原寸大の図を縄で描く。

現代語寛喜二年(1230)十一月大十一日戊戌。晴れです。勝長寿院内に建築中の三重塔の棟上げ式です。泰時さんも隣席しました。」
又、石降りの異常を静めるお祈りを行いましたとさ。」
今日、岩殿寺の建築予定地に礎石を置いて縄張りをしました。寄付集めの勧進をした坊さんは西願だそうな。

寛喜二年(1230)十一月大十三日庚子。天リ。將軍家依有殊御心願。今日被行靈所御秡。由比濱泰貞。金洗澤リ茂。多古惠河國継。森戸親貞。鼬(元文獣編于由)河大夫。六浦忠弘。堅瀬河リ貞云々。新民部少輔親實爲奉行。

読下し                       そらはれ  しょうぐんけ こと  ごしんがん あ     よっ    きょう れいしょ  おはらい  おこなはれ
寛喜二年(1230)十一月大十三日庚子。天リ。將軍家 殊に御心願有るに依て、今日靈所の御秡を行被る。

ゆいのはま  やすさだ かねあらいざわ はるしげ   たごえがわ   くにつぐ  もりと  ちかさだ  いたちがわ たいふ  むつら  ただひろ  かたせがわ  はるさだ  うんぬん
由比濱@は泰貞。金洗澤Aはリ茂。多古惠河Bは國継。森戸Cは親貞。鼬河Dは大夫。六浦Eは忠弘。堅瀬河Fはリ貞と云々。

しんみんぶしょうゆうちかざね ぶぎょうたり
新民部少輔親實 奉行爲。

参考@由比濱は、神奈川県鎌倉市由比ガ浜。
参考A
金洗澤は、鎌倉市七里ヶ浜東。
参考B
多古惠河は、神奈川県逗子市内を流れる田越川。
参考C森戸は、神奈川県三浦郡葉山町堀内の森戸神社近辺。
参考D鼬河は、横浜市栄区桂町(鎌倉の北側)あたりを流れる川。
参考E六浦は、横浜市金沢区六浦の六浦港(現在は埋立地)。
参考F堅瀬河は、神奈川県藤沢市片瀬海岸の片瀬川。

現代語寛喜二年(1230)十一月大十三日庚子。空は晴です。将軍頼経様は、特に願い事があって、今日鎌倉を取り巻く水流でお祓いを行わせました。由比ガ浜は安陪泰貞。金洗い沢(七里ヶ浜)は安陪晴茂。田越川は安陪國継。森戸海岸は安陪親貞。鼬川は大夫安陪泰宗。六浦は安陪忠弘。片瀬川は安陪晴貞だそうな。新民部少輔三条親実が指揮担当です。

寛喜二年(1230)十一月大十八日乙巳。朝リ。午刻俄願(風)雨。申尅雷鳴。入夜暴風雷雨甚。冬至雷。殊變異也。可有御愼云々。

読下し                       あさはれ うまのこく にはか ふうう  さるのこく らいめい  よ   い   ぼうふうらいう はなはだ
寛喜二年(1230)十一月大十八日乙巳。朝リ。午刻 俄に風雨。申尅 雷鳴。夜に入り暴風雷雨 甚し。

とうじ  かみなり こと  へんいなり  おんつつし あ  べ    うんぬん
冬至の雷、殊に變異也。御愼み有る可きと云々。

現代語寛喜二年(1230)十一月大十八日乙巳。朝は晴れていましたが、昼頃に急に風雨になりました。午後四時頃には雷が鳴って、夜になって暴風と雷雨が烈しくなりました。当時の日の雷なんて、天の変異なので静かにしてるようにとの事でした。

寛喜二年(1230)十一月大廿二日己酉。被行天變御祈。大属星供助法印珎譽。東方C流辨法印良算云々。

読下し                       てんぺん  おいのり おこなはれ  だいぞくしょうぐ  すけのほういんちんよ  とうほうせいりゅう べんのじょういんりょうさん うんぬん
寛喜二年(1230)十一月大廿二日己酉。天變の御祈を行被る。 大属星@供は 助法印珎譽。 東方C流は 辨法印良算と云々。

参考@属星は、陰陽道で生年の干支によって、運命を支配する北斗七星の各星にあてる。

現代語寛喜二年(1230)十一月大二十二日己酉。天の異変が静まるようにお祈りをしました。北斗七星に充てる大属星の供養は、助法印珍与。東方青竜は弁法印良算だそうな。

寛喜二年(1230)十一月大廿八日乙夘。天リ。未尅。勝長壽院内塔婆上九輪云々。

読下し                       そらはれ ひつじのこく しょうちょうじゅいん ない  とうば   くりん  あ     うんぬん
寛喜二年(1230)十一月大廿八日乙夘。天リ。 未尅、 勝長壽院 内の塔婆に九輪@を上ぐと云々。

参考@九輪は、相輪ともいう、塔の天辺に縦に輪が連なる傘蓋の変形したもの。

現代語寛喜二年(1230)十一月大二十八日乙卯。空は晴れです。午後二時頃に勝長寿院内の三重塔の九輪をあげたそうな。

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