吾妻鏡入門第廿八巻

寛喜三年辛卯(1231)正月大

寛喜三年(1231)正月大一日戊子。垸飯相州〔時房(朱)〕御沙汰。御釼駿河前司〔義持(朱)〕持參之。(義持は義村の間違い)

読下し                   おうばん そうしゅう 〔ときふさ(しゅ)〕    おんさた   ぎょけん  するがのぜんじ 〔よしむら(しゅ)〕   これ  じさん
寛喜三年(1231)正月大一日戊子。垸飯 相州〔時房(朱)〕の御沙汰。御釼は駿河前司〔義村(朱)〕之を持參す。

現代語寛喜三年(1231)正月大一日戊子。将軍(頼経14才)への御馳走のふるまいは、時房さんの献上です。刀の献上は駿河前司三浦義村が持ってきました。

寛喜三年(1231)正月大六日癸巳。風吹。爲二所御奉幣御進發間事。有其沙汰。師員。親實等奉行之。

読下し                   かぜふ     にしょ ごほうへい  ため  ごしんぱつ あいだ こと  そ    さた あ     もろかず ちかざねら これ  ぶぎょう
寛喜三年(1231)正月大六日癸巳。風吹く。二所御奉幣の爲、御進發の間の事、其の沙汰有り。師員、親實等之を奉行す。

現代語寛喜三年(1231)正月大六日癸巳。風が強い。箱根・伊豆の両権現へ幣を奉納するための出発について、検討されました。中原師員と中原親実が担当です。

寛喜三年(1231)正月大八日乙未。心經會。將軍家〔頼經(朱)〕出御。

読下し                   しんぎょうえ  しょうぐんけ 〔よりつね(しゅ)〕  い   たま
寛喜三年(1231)正月大八日乙未。心經會@。將軍家〔頼經(朱)〕出で御う。

参考@心經會は、般若心経を唱える会。儀式。

現代語寛喜三年(1231)正月大八日乙未。御所で般若心経を唱える会です。将軍頼経様(14才)の出席です。

寛喜三年(1231)正月大九日丙申。天リ。將軍家御參鶴岳八幡宮。二條侍從寄御車。式部大夫政村〔布衣〕役御劍。武州〔布衣〕供奉給。官人大夫判官基綱。伊東判官祐時。還御之後。入御相州亭。此事并御弓始可爲去七日之由。有其定之處。彼日甲午。承久元年正月廿七日甲午右大臣家於宮中有御事。可被愼歟之由。依有傾申之輩延引。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん  にじょうじじゅう おくるま  よ       しきぶのたいふまさむら 〔 ほい 〕 ぎょけん  えき
寛喜三年(1231)正月大九日丙申。天リ。將軍家 鶴岳八幡宮 へ御參。二條侍從 御車を寄せる。式部大夫政村〔布衣〕御劍を役す。

ぶしゅう 〔 ほい 〕  ぐぶ   たま    かんにん  たいふほうがんもとつな  いとうのほうがんすけとき  かんごの のち  そうしゅう てい  い   たま
武州〔布衣〕供奉し給ふ。官人は 大夫判官基綱、 伊東判官祐時。 還御之後、相州の亭へ入り御う。

かく  ことなら   おんゆみはじめ さんぬ なぬかたるべ  のよし  そ   さだ  あ   のところ  か   ひ  きのううま
此の事并びに 御弓始 去る七日爲可き之由、其の定め有る之處、彼の日は甲午。

じょうきゅう がんねん しょうがつ にじうしちにち きのえうま   うだいじんけ みやなか  をい  おんことあ
 承久 元年 正月 廿七日 甲午 に右大臣家 宮中に於て御事有り。

つつし れるべ   か のよし  かたぶ もう  のやからあ    よっ  えんいん
愼ま被可き歟之由、傾け申す@之輩有るに依て延引す。

参考@傾け申すは、反対する。

現代語寛喜三年(1231)正月大九日丙申。空は晴れです。将軍頼経様は鶴岡八幡宮へお参りです。二条侍従教定が、車を式台へ寄せさせました。式部大夫北条政村が刀持ちです。泰時さん〔狩衣〕はお供をしました。近衛府の将監は、大夫検非違使後藤基綱・検非違使伊東祐時。お帰り後に時房さんの屋敷へ行かれました。この外出始めや弓始めは先日の七日にしようと決めていましたが、その日は甲午で、承久元年1月27日甲午に右大臣将軍実朝様の事件があったので、その日は避けた方が良いと反対する意見があったので延期しました。

寛喜三年(1231)正月大十日丁酉。リ。將軍家爲御方違。入御竹御所。去年立春御方違之後。依相當四十五日也。

読下し                   はれ  しょうぐんけ おんかたたが   ため  たけごしょ  い   たま
寛喜三年(1231)正月大十日丁酉。リ。將軍家 御方違への爲、竹御所へ入り御う。

きょねん りっしゅん おんかたたが  ののち  しじうごにち   あいあた    よっ  なり
去年 立春の 御方違へ之後、四十五日に相當るに依て也。

現代語寛喜三年(1231)正月大十日丁酉。晴れです。将軍頼経様は方角変えのため、竹御所へ行きました。去年の立春から四十五日に当たるからです。

寛喜三年(1231)正月大十一日戊戌。御弓始〔一五度〕。

読下し                     おんゆみはじめ 〔いち ごど〕
寛喜三年(1231)正月大十一日戊戌。 御弓始 〔一五度@

参考@一五度は、四十九巻正元二年(1260)正月十二日・十四日の記事により、一五度は、二本づつ五度で、二五度は二本づつ五度を二回らしい。

現代語寛喜三年(1231)正月大十一日戊戌。正月初めての弓矢の儀式弓始め式です。〔二本を五度〕

寛喜三年(1231)正月大十四日辛丑。亥刻。大倉觀音堂西邊下山入道家失火。依餘焔唐橋中將亭并故右京兆旧宅及二階堂大路兩方人屋等燒訖。

読下し                     いのこく  おおくらかんのんどう  にしあた   しもやまにゅうどうけ しっか
寛喜三年(1231)正月大十四日辛丑。亥刻、 大倉觀音堂の西邊りの下山入道家 失火す。

 よえん  よっ  からはしちうじょう てい なら    こうけいちょう   きゅうたくおよ    にかいどうおおじ  りょうほう  じんおく や をはんぬ
餘焔に依て 唐橋中將@亭 并びに故右京兆の旧宅及び、二階堂大路Aの兩方の人屋等燒け訖。

参考@唐橋中將は、通時で義時の娘婿。
参考A二階堂大路は、鎌倉市雪ノ下562の関取場から二階堂663永福寺跡地への道。

現代語寛喜三年(1231)正月大十四日辛丑。午後十時頃に、大倉観音堂杉本寺の西のあたりの下山入道の家で失火しました。飛び火で唐橋中将通時の屋敷それに故右京兆北条義時さんの旧宅と、二階堂大路の両側の民家が焼けました。

寛喜三年(1231)正月大十六日癸夘。寅刻雨降。巳以後属リ。未刻米町邊失火。及横町南北六町餘災。出羽前司宅在此内。

読下し                     とらのこくあめふ    み いご はれ  ぞく
寛喜三年(1231)正月大十六日癸夘。寅刻雨降る。巳以後リに属す。

ひつじのこく よねまち あた   しっか  よこちょう およ  なんぼく ろくちょうよ わざわい   でわのぜんじ   たく  こ   うち  あ
 未刻 米町@邊りに失火。横町Aに及び南北 六町餘 災いす。出羽前司が宅、此の内に在り。

参考@米町は、現在の鎌倉市大町四つ角の近辺らしい。
参考A横町は、不明だが、若宮大路横の意味か?。

現代語寛喜三年(1231)正月大十六日癸卯。午前四時頃に雨が降り、午前十時頃以後は晴れました。午後二時頃に米町あたりで失火し、横町とその南北600mが被害に遭いました。出羽前司中条家長の家がその中にありました。

寛喜三年(1231)正月大十九日丙午。自去夜子刻。及午一点。白雪降。積三寸。今日。二所奉幣御使式部大夫政村朝臣進發。御臺所御使牧右衛門尉云々。同進發。

読下し                     さんぬ よ ねのこくよ     うま  いってん  およ    はくせつふ    さんずんつ
寛喜三年(1231)正月大十九日丙午。去る夜子刻自り、午の一点@に及び、白雪降る。三寸積もる。

きょう    にしょ ほうへい  おんし しきぶのたいふまさむらあそん しんぱつ   みだいどころ  おんし  まきうえもんのじょう  うんぬん  おな    しんぱつ
今日、二所A奉幣の御使 式部大夫政村朝臣 進發す。御臺所の御使は牧右衛門尉と云々。同じく進發す。

参考A二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。

現代語寛喜三年(1231)正月大十九日丙午。夕べの零時頃から午前11時過ぎまで白雪が降って、9cmも積もりました。今日、箱根・伊豆の両権現への代参に式部大夫北条政村さんが出発しました。将軍婦人の代参は牧右衛門尉だそうな。同様に出発しました。

解説@時刻の點は、2時間を5等分したのが点。午なら11時〜11:24を一点、11:24〜11:48を二点、11:48〜12:12を三点、12:12〜12:36を四点、12:36〜13:00を五点。

寛喜三年(1231)正月大廿日丁未。卯刻。鶴岡別當法印申入御所云。當宮石階西邊有梅木。山鳩二居彼樹。今日八箇日未立去云々。

読下し                   うのこく つるがおかべっとうほういん ごしょ  もう   い     い       とうぐういしばし  にしあた    うめのきあ
寛喜三年(1231)正月大廿日丁未。卯刻。鶴岡別當法印 御所へ申し入れて云はく。當宮石階@の西邊りに梅木有り。

やまばとに か   き   い     きょう   ようかにち   いま  た   さ       うんぬん
山鳩二彼の樹に居る。今日で八箇日、未だ立ち去らずと云々。

現代語寛喜三年(1231)正月大二十日丁未。午前六時頃、鶴岡八幡宮の筆頭僧侶法印定親が、御所へ申し入れてきました。八幡宮の石の階段の西に梅の木があります。山鳩が二羽その木にいて、今日で八日経ちますが今でも飛び立たずにおりますだとさ。

疑問@當宮石階は、実朝が公暁に殺された場所なのだろうか?

寛喜三年(1231)正月大廿四日辛亥。御臺所御參鶴岡八幡宮。左近大夫將監佐房。周防前司親實。上野介朝光以下十餘人供奉。

読下し                     みだいどころ つるがおかはちまんぐう ぎょさん
寛喜三年(1231)正月大廿四日辛亥。御臺所 鶴岡八幡宮 へ御參。

さこんたいふしょうげんすけふさ  すおうのぜんじちかざね  こうづけのすけともみつ いげ じうよにん ぐぶ
 左近大夫將監佐房、 周防前司親實、 上野介朝光 以下十餘人供奉す。

現代語寛喜三年(1231)正月大二十四日辛亥。将軍奥様竹御所が鶴岡八幡宮へお参りです。左近大夫将監大江佐房・周防前司中原親実・上野介結城朝光以下十数人がお供をしました。

寛喜三年(1231)正月大廿五日壬子。霽。未刻名越邊失火。越後四郎時幸。町野加賀守康俊宿所等災。同時甘繩邊人家五十餘宇燒失。放火云々。

読下し                     はれ ひつじのこく なごえあた    しっか   えちごのしろうときゆき  まちののかがのかみやすとし すくしょら わざわい
寛喜三年(1231)正月大廿五日壬子。霽。未刻、 名越邊りで失火。越後四郎時幸@、町野加賀守康俊の宿所等 災す。

どうじ   あまなわあた    じんか ごじうよう しょうしつ    ほうか  うんぬん
同時に甘繩邊りの人家五十餘宇燒失す。放火と云々。

参考@越後四郎時幸は、名越流「朝時」が越後守なので、その四男。

現代語寛喜三年(1231)正月大二十五日壬子。晴れました。午後二時頃に名越のあたりで失火があり。越後四郎北条時幸・町野加賀守三善康俊などが災害に遭いました。同時に甘縄あたりでも民家が50余軒焼けました。放火だそうな。

寛喜三年(1231)正月大廿九日丙辰。關東祗候諸人可止過差之由。被定云々。

読下し                     かんとう しこう   しょにん   かさ   や     べ   のよし  さだ  られ    うんぬん
寛喜三年(1231)正月大廿九日丙辰。關東祗候の諸人は過差を止める可し之由、定め被ると云々。

現代語寛喜三年(1231)正月大二十九日丙辰。鎌倉幕府に奉仕している人々は、贅沢を止めるように、お決めになりましたとさ。

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