寛喜三年辛卯(1231)五月大
寛喜三年(1231)五月大四日己丑。去月之比。或僧稱祗薗示現。注夢記披露洛中。仍自殿下被送進于將軍家。假令人別充錢五文若三文。可讀誦心經。於即巽方。可修鬼氣祭。然者今年世上云疾疫云餓死可被除也。疫癘事。五月以後六月十八日以前可蜂起也云々。仍可懸此封。 |
読下し さんぬ つきの
ころ あ そう ぎおん じげん しょう むき ちう
らくちう ひろう
寛喜三年(1231)五月大四日己丑。去る月之比、或る僧祗薗の示現@と稱し、夢記を注し洛中に披露す。
よっ でんか よ しょうぐんけに おく すす らる たとい
じんべつ ぜにごもん も さんもん あ しんぎょう どくしょうすべ
仍て殿下自り將軍家于送り進め被る。假令、人別に錢五文若しくは三文を充て、心經Aを讀誦可し。
すなは たつみかた をい ききさい しゅう べ しからずんば ことし せじょう しつえき い がし い
のぞかる べ なり
即ち
巽方 に於て、鬼氣祭を修す可し。 然者、
今年は世上の疾疫と云ひ餓死と云ひ除被る可き也。
えきれい こと ごがつ いご ろくがつじうはちにち
いぜん ほうきすべ なり うんぬん よっ かく ふう か べ
疫癘の事は、五月以後
六月十八日 以前に蜂起可き也と云々。仍て此の封を懸く可し。
てんいおうげんききゅうきゅうにょりつりょう
□醫王源□急々如律令B
そうきれいさんたくきゅうきゅうにょりつりょう
□□□山柘急々如律令
かく こと しん
せし ば
じんみんあんどてんかたいへいたるべ のよしなり
此の事を信じ令め者、人民安穩天下泰平爲可き之由也。」
こんや
ごしょ しかくしきょう ききおんさいら これ おこなはれ
今夜、御所の四角四境鬼氣御祭等之を行被る。
参考@示現は、神様などからのお伝え。
参考A心經は、般若心経。
参考B急々如律令は、中国の後漢時代に、祈りなどの命文の後ろに書いた。意味は「直ぐに実行せよ」。三国志時代は「悪魔よされ」の意味となる。日本では戦国時代には、免許皆伝の最後に書くようになる。江戸時代には、招福のまじないとなった。
現代語寛喜三年(1231)五月大四日己丑。先月の事ですが、ある坊さんが祗薗さん(八坂神社)のお告げだと言って、夢で見た言葉をお札に書き表し、京都で配りました。そこで殿下九条道家さんから将軍頼経様に送り進めてきました。たとえ、人毎に銭五文か三文を割当で般若心経を讀誦するように。すぐに南東の方角で鬼気祭を祀るのである。そうすれば、今年は世間に流行病も餓死をも除くことが出来るでしょう。伝染病については、5月以後6月18日前に怒るでしょうとか。だからこのお札を魔よけに掛けておくように。(呪文は略す)この事を信じて行えば、人々の安心や天下が平和であるでしょうだとさ。」
今夜、御所の丑寅・辰巳・坤・乾の角と、鎌倉の四方とで鬼気祭を行いました。
寛喜三年(1231)五月大五日庚寅。リ。南風烈。任綸旨。於國分寺。可轉讀最勝王經之由。被仰下于關東御分國々。行然奉行之。 |
読下し はれ みなみかぜはげ
寛喜三年(1231)五月大五日庚寅。リ。南風烈し。
りんじ まか こくぶんじ をい さいしょうおうきょう てんどくすべ のよし かんとう
ごぶんくにぐにに おお くださる ぎょうねん これ ぶぎょう
綸旨に任せ、國分寺に於て、最勝王經@を轉讀可し之由、關東御分國々A于仰せ下被る。 行然
之を奉行す。
参考@最勝王經は、鎮護国家のお経。
参考A關東御分國々は、五知行国で、武蔵・相摸・越後・伊豆・駿河を指す。
現代語寛喜三年(1231)五月大五日庚寅。晴れです。南風が烈しい。先月18日に届いた天皇の命令書の通りに、国分寺で最勝王経を略読みするように関東に統治を任されている国々へ命令しました。民部大夫入道行然二階堂行盛が担当です。
寛喜三年(1231)五月大七日壬辰。地震。今日大進僧都觀基修藥師護摩。天變御祈也。リ幸奉仕地震祭云々。 |
読下し ぢしん きょう だいしんそうづかんき やくしごま しゅう てんぺん おいのりなり
寛喜三年(1231)五月大七日壬辰。地震。今日、大進僧都觀基
藥師護摩を修す。天變の御祈也。
はるゆき ぢしんさい ほうし うんぬん
リ幸
地震祭を奉仕すと云々。
現代語寛喜三年(1231)五月大七日壬辰。地震です。今日、大進僧都観基が、薬師如来の護摩炊きを勤めました。天の星の運航の異常に対するお祈りです。安陪晴幸は地震祭を勤めましたとさ。
寛喜三年(1231)五月大九日甲午。リ。今朝。駿河次郎泰村爲奉幣御使。進發常陸國鹿嶋社。是爲天下泰平御祈也。」又於御所。一万巻心經〔此内一千巻書寫〕被遂供養。導師安樂房法眼行慈。是同御祈云々。 |
読下し はれ けさ
するがのじろうやすむら
ほうへい おんし な ひたちのくにかしましゃ しんぱつ
寛喜三年(1231)五月大九日甲午。リ。今朝、駿河次郎泰村
奉幣の御使と爲し、常陸國鹿嶋社@へ進發す。
これ
てんかたいへい おいのり ためなり
是、天下泰平の御祈の爲也。」
また ごしょ をい いちまんがん
しんぎょう 〔 こ うちいっせんがん しょしゃ 〕 くよう と らる
又、御所に於て、一万巻
心經〔此の内一千巻を書寫す〕の供養を遂げ被る。
どうし あんらくぼうほうげんぎょうじ これおな おいのり うんぬん
導師は安樂房法眼行慈。是同じき御祈と云々。
参考@鹿嶋社は、茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮。荘園で、領家は九条道家。泰村が代参なので三浦氏が地頭かも知れない。
現代語寛喜三年(1231)五月大九日甲午。晴れです。今朝、三浦駿河次郎泰村は幣を捧げる代参として常陸国の鹿島神社へ出発です。これは、世間が平和で射るようにとのお祈りのためです。」
又、御所では、一万巻の般若心経〔このうち千巻を将軍が書き写しました〕の法要を行いました。指導僧は、安楽坊法眼行慈ですが、これも同じ祈願でだそうな。
寛喜三年(1231)五月大十三日戊戌。今日。有被定下條々。先諸國守護人者。大犯三ケ條之外。不可致過分沙汰。檢非違所者。廻寛宥之計。可專乃貢勤之由云々。次同守護地頭。有領家訴訟之時。不應六波羅召之由。依有其聞。二ケ度者可相觸。及三ケ度者。可注申關東之由。先度被仰之處。成優恕之儀。不申之歟。自今以後。無隱容可言上之旨。重可被仰遣。次竊盜事。假令於錢百文已下之小犯者。以一倍。令致弁償。可令安堵其身。至百文以上之重科者。搦取一身。不可煩親類妻子所從。如元可令居住。謀叛夜討等者。不及寛宥之由云々。 |
読下し きょう さだ くだされ じょうじょう
あ
寛喜三年(1231)五月大十三日戊戌。今日、定め下被るの條々
有り。
ま しょこく しゅごにんは
たいぼんさんかじょう の ほか かぶん さた
いた べからず
先ず諸國の守護人者、大犯三ケ條@之外、過分の沙汰Aを致す不可。
けびいしょ は かんゆうのはから めぐ のうぐ つと もっぱ べ のよし うんぬん
檢非違所者、寛宥之計いを廻らし、乃貢の勤めを專らす可き之由と云々。
つい
おな しゅご ぢとう りょうけ そしょうあ のとき ろくはら めし おうぜずの
よし そ きこ
あ よっ にかど は あいふる べ
次で同じき守護地頭、領家の訴訟有る之時、六波羅の召に應不之由、其の聞へ有るに依て、二ケ度者相觸る可し。
さんかど およ ば かんとう ちう もう べ のよし せんどおお らる
のところ ゆうじょの ぎ な これ
もうさざるか
三ケ度に及ば者、關東へ注し申す可し之由、先度仰せ被る之處、優恕之儀を成し、之を申不歟。
いまよ
いご おんような ごんじょうすべ のむね かさ おお
つか さる べ
今自り以後、隱容無く言上可き之旨、重ねて仰せ遣は被る可し。
つぎ
せつとう こと たとい ぜにひゃくもん いげの
しょうはん をい は いちばい
もっ べんしょうせし そ み あんどせし べ
次に竊盜の事、假令
錢百文
已下之小犯に於て者、一倍を以て、弁償致令め、其の身を安堵令む可し。
ひゃくもん
いじょうのちょうか いた は いっしん から と しんるいさいししょじゅう わずら
べからず もと ごと きょうじゅうせし べ
百文
以上之重科に至りて者、一身を搦め取り、親類妻子所從を煩はす不可。元の如く居住令む可し。
むほん ようちら は かんゆう およばすのよし うんぬん
謀叛夜討等者、寛宥に不及之由と云々。
参考@大犯三ケ條は、大番催促と謀反人・殺害人検断。「右大将家の御時、定め置かるるところは、大番催促、謀叛、殺害人、付けたり、夜討強盗山賊海賊等の事なり。(中略)早く右大将家の御時の例に任せ、大番役ならびに謀叛殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし」御成敗式目第三条参照
参考A過分の沙汰は、分を過ぎる行為。身分違いに、権限外の事(殆どが上者への年貢の横領)。
現代語寛喜三年(1231)五月大十三日戊戌。今日、決定して命令する箇条書きがあります。まず、諸国の守護人は、大犯三ケ条以外の、権限外の行いをしてはいけない。警察権限実行所は寛大な心を持って、年貢の収集に専念しなさい。
次に同様に守護地頭に対し、上級荘園権利者の領家から訴訟があった場合は、六波羅からの呼び出しを聞かないと聞いているので、二度は呼び出しをしなさい。三度目になったら鎌倉へ書面を出しなさいと、以前に言ってあるが、同情をして言って来なかったのか。今以後は、温情を与えず報告してくるように、改めて命令します。
次に泥棒については、たとえ百文以下の軽い犯罪でも、倍の返済をさせて、釈放しなさい。百文以上の重罪に対しては、その身を拘束して、親類縁者には罪科に及ばず。元の通り居住させなさい。謀反や夜討には、容赦入りません。
なんだとさ。
寛喜三年(1231)五月大十四日己亥。霽。巳刻。烏飛入御所進物所。女房大盤一前打覆云々。仍及卜。可令愼病事給之由。占申云々。 |
読下し
はれ みのこく からすごしょ しんもつどころ とびい
にょぼう おおばん いちぜんうちかへ うんぬん
寛喜三年(1231)五月大十四日己亥。霽。巳刻、烏御所の進物所@へ飛入り、女房の大盤
一前打覆すAと云々。
よっ うらな およ やまい こと つつし せし
たま べ のよし うらな もう うんぬん
仍て卜いに及ぶ。病の事を愼ま令め給ふ可し之由、占い申すと云々。
参考@進物所は、本来天皇の供膳を司る所。貴族の食事を調理した所。
参考A一前打覆すは、一膳。お膳をひっくり返した。
現代語寛喜三年(1231)五月大十四日己亥。晴れました。午前十時頃、カラスが御所の食事の支度をする進物所へ飛び込んで、女官のお膳一膳をひっくり返しました。そこで占いをすることになりました。病気について注意するようにと、占い結果を申しあげましたとさ。
寛喜三年(1231)五月大十七日壬寅。霽。申尅。武州御不例云々。又此間炎旱渉旬。疾疫滿國。仍爲天下泰平國土豊稔。今日。於鶴岳八幡宮。令供僧已下三十口之僧。讀誦大般若經。又十ケ日之程。可修問答講之由被定仰。 |
読下し
はれ
さるのこく ぶしゅう ごふれい
うんぬん また こ あいだ えんかん
しゅん わた しつえきくに み
寛喜三年(1231)五月大十七日壬寅。霽。申尅、武州御不例と云々。又、此の間
炎旱 旬に渉り、疾疫國に滿つる。
よっ てんかたいへいこくどほうねん ため きょう つるがおかはちまんぐう
をい ぐそう いげ さんじっくの そう
し だいはんにゃきょう どくしょう
仍て天下泰平國土豊稔の爲、今日、鶴岳八幡宮に
於て、供僧已下三十口之僧を令て、大般若經を讀誦す。
また とおかにちの
ほど もんどうこう しゅう
べ のよし さだ おお らる
又、十ケ日之程、問答講を修す可し之由、定め仰せ被る。
だいいちにち 〔 こうじ さんみそうづらいけん といじゃ あんらくぼうほうげんちょうけい〕 だいににち 〔 こう とんかくぼうりっしりょうき とい ざしんぼうりっしえんしん 〕
第一日 〔講師は三位僧都頼兼 問者は安樂房法眼重慶〕 第二日 〔講は頓覺房律師良喜 問は座心房律師圓信〕
だいさんにち 〔 こう ざしんぼうりっし とい とんかくぼうりっし〕 だいよんにち 〔 こう たんごっしらいぎょう とい えんじぼう 〕
第三日 〔講は座心房律師 問は頓覺房律師〕 第四日 〔講は丹後律師頼曉 問は圓爾房〕
だいごにち 〔 こう えんじぼう とい たんごっし 〕 だいろくにち 〔 こう びんごたっしゃ とい きょうれんぼう 〕
第五日 〔講は圓爾房 問は丹後律師〕 第六日 〔講は備後堅者 問は教蓮房〕
だいしちにち 〔 こう きょうれんぼう とい びんごたっしゃ 〕
だいはちにち 〔 こう ひぜんあじゃり とい ちくごぼう 〕
第七日 〔講は教蓮房 問は備後堅者〕 第八日 〔講は肥前阿闍梨 問は筑後房〕
だいくにち 〔 こう えんじぼう とい ひぜんあじゃり 〕 だいじうにち 〔 こう あんらくぼうほうげん とい さんみそうづ 〕
第九日 〔講は圓爾房 問は肥前阿闍梨〕 第十日 〔講は安樂房法眼 問は三位僧都〕
現代語寛喜三年(1231)五月大十七日壬寅。晴れました。午後四時頃、武州北条泰時さんが具合が悪くなりました。最近、十日以上も雨が降らず、飢えのため伝染病が国に流行しています。それなので、世間の安心と国土の豊年のために、今日鶴岡八幡宮で、八幡宮の坊さん始め三十人の坊さんで、大般若経を声を立ててお経を上げました。又、十日間の仏法を質問し合う問答講を勤めるようにおきめになりました。
第一日目〔先生は三位僧都頼兼、質問者は安楽房法眼重慶〕 第二日目〔先生は頓覚房律師良基、質問者は座心房律師円信〕
第三日目〔先生は座心房律師円信、質問者は頓覚房律師良基〕第四日目〔先生は丹後律師頼暁、質問者は円爾房〕
第五日目〔先生は円爾房、質問者は丹後律師頼暁〕 第六日目〔先生は備後堅者、質問者は教蓮房〕
第七日目〔先生は教蓮房、質問者は備後堅者〕 第八日目〔先生は肥前阿闍梨、質問者は筑後房〕
第九日目〔先生は円爾房、質問者は肥前阿闍梨〕 第十日目〔先生は安楽房法眼重慶、質問者は三位僧都頼兼〕