吾妻鏡入門第廿八巻

寛喜三年辛卯(1231)九月

寛喜三年(1231)九月小十三日丙申。今夜。於御所和哥御會。基綱。親行。光西等參上云々。

読下し                     こんや    ごしょ  をい   わか   おんかい もとつな  ちかゆき  こうさいら さんじょう    うんぬん
寛喜三年(1231)九月小十三日丙申。今夜、御所に於て和哥の御會。基綱、親行、光西等參上すと云々。

現代語寛喜三年(1231)九月小十三日丙申。今夜、御所で和歌の会です。後藤基綱・源親行・光西伊賀光宗などが参加しました。

寛喜三年(1231)九月小廿三日丙午。リ。將軍家出御馬塲殿。有流鏑馬。遠笠懸。如駿河前司。武藤次郎之宿老等。依殊仰施射藝。還有其興云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけ  ばばどの  いで  たま    やぶさめ  とおがさがけあ
寛喜三年(1231)九月小廿三日丙午。リ。將軍家 馬塲殿へ出で御う。流鏑馬、遠笠懸有り。

するがのぜんじ  むとうのじろう   ごと  の すくろうら   こと    おお    よっ  しゃげい  ほどこ   かへっ そ  きょうあ   うんぬん
駿河前司、武藤次郎の如き之宿老等、殊なる仰せに依て射藝を施す。還て其の興有りと云々。

現代語寛喜三年(1231)九月小二十三日丙午。晴れです。将軍頼経様(14)は馬場殿へお出ましです。流鏑馬や遠笠懸などがありました。駿河前司三浦義村や武藤小次郎資頼などの古参が、特におぼしめしがあって、弓の芸を行いました。若者と違った面白味がありましたとさ。

寛喜三年(1231)九月小廿四日丁未。リ。寅刻。月犯軒轅第三星云々。

読下し                     はれ とらのこく つき けんえんだいさんせい おか    うんぬん
寛喜三年(1231)九月小廿四日丁未。リ。寅刻、月 軒轅第三星 を犯すと云々。

現代語寛喜三年(1231)九月小二十四日丁未。晴れです。午前四時頃に月が軒轅第三星を犯しました。

疑問軒轅は、不明。乞教示。

寛喜三年(1231)九月小廿五日戊申。於御所。有御鞠。相摸四郎。同三郎入道。周防前司。小山五郎右衛門尉。肥田八郎。備中法橋定尊等候其庭云々。又來月一日蝕御祈事。今日被仰于松殿法印。大進僧都。宰相律師等云々。三壇御修法也。

読下し                     ごしょ   をい    おんまりあ
寛喜三年(1231)九月小廿五日戊申。御所に於て、御鞠有り。

さがみのしろう  おな   さぶろうにゅうどう  すおうのぜんじ おやまのごろううえもんのじょう  ひたのはちろう  びっちゅうほっきょうじょうそん ら そ   にわ  そうら   うんぬん
相摸四郎、同じき三郎入道、周防前司、小山五郎右衛門尉、肥田八郎、 備中法橋定尊 等其の庭に候うと云々。

また  らいげつついたち おいのり こと  ふ       きょう まつどのほういん  だいしんそうづ  さいしょうりっしらに おお  らる    うんぬん  さんだん みしゅほうなり
又、 來月一日の御祈@の事を蝕れる。今日松殿法印、大進僧都、宰相律師等于仰せ被ると云々。三壇の御修法也。

参考@來月一日の御祈は、10月1日の冬装束に改める日。

現代語寛喜三年(1231)九月小二十五日戊申。御所で蹴鞠がありました。相模四郎北条朝直・同三郎入道北条資時・周防前司中原親実・小山五郎右衛門尉長村・肥多八郎宗直・備中法橋定尊達がその庭に揃いました。
又、来月一日のお祈りについて触れ、今日、松殿法印良基・大進僧都観基・宰相律師に命じました。三人で同時に祈る護摩炊きです。

寛喜三年(1231)九月小廿七日庚戌。日中。名越邊騒動。敵討入于越後守第之由有其聞。武州自評定座。直令向給。相州以下出仕人々從其後同馳駕。而越州者他行。留守侍等於彼南隣。搦取悪黨〔自他所逃來隱居〕之間。賊徒或令自殺。或致防戰云々。仍遣壯士等。自路次。被歸訖。盛綱諌申云。帶重職給御身也。縱雖爲國敵。先以御使聞食左右。可有御計事歟。被差遣盛綱等者。可令廻防禦計。不事問令向給之條。不可也。向後若於可有如此儀者。殆可爲乱世之基。又可招世之謗歟云々。武州被答云。所申可然。但人之在世。思親類故也。於眼前。被殺害兄弟事。豈非招人之謗乎。其時者定無重職詮歟。武道爭依人躰哉。只今越州被圍敵之由聞之。他人者處少事歟。兄之所志。不可違于建暦承久大敵云々。于時駿河前司義村候傍承之。拭感涙。盛綱垂面敬屈云々。義村起座之後。參御所。於御臺所語此事於同祗候男女。聞之者感歎之餘。盛綱之諷詞与武州陳謝。其理猶在何方哉之由。頗及相論。遂不决之云々。越州聞此事。弥以歸往。即潜載誓状云。至于子孫。對武州流。抽無貳忠。敢不可挿凶害云々。其状。一通遣鶴岳別當坊。一通爲備來葉之癈忘。加家文書云々。

読下し                     にっちゅう なごえへんそうどう   てき  えちごのかみ だいに う   い   のよし   そ   きこ  あ
寛喜三年(1231)九月小廿七日庚戌。日中。名越邊騒動す。敵、越後守@の第于討ち入る之由、其の聞へ有り。

ぶしゅう ひょうじょう  ざよ     じき  むか  せし  たま    そうしゅう いげ しゅっし  ひとびと そ  あと  したが おな    が   は
武州 評定の座自り、直に向は令め給ふ。相州以下の出仕の人々其の後に從い同じく駕を馳せる。

しか    えっしゅうは たぎょう   るす  さむらいら か みなみどなり をい   あくとう 〔 たしょ よ   ちょうらい  いんきょ   〕   から  と   のあいだ
而るに越州者他行し、留守の侍等彼の南隣に於て、悪黨〔他所自り逃來し隱居す〕を搦め取る之間、

ぞくと ある     じさつせし    ある    ぼうせんいた    うんぬん  よっ  そうし ら   つか      ろじ よ     かえられをはんぬ
賊徒或ひは自殺令め、或ひは防戰致すと云々。仍て壯士等を遣はし、路次自り、歸被 訖。

もりつな いさ  もう    い
盛綱A諌め申して云はく。

じゅうしょく お   たま  おんみなり  したが こくてきたり  いへど   ま   おんし  もっ   そう    きこ    め     おはから    こと あ  べ   か
 重職を帶び給ふ御身也。縱い國敵爲と雖も、先ず御使を以て左右を聞こし食し、御計いの事有る可き歟。

もりつなら   さ   つか  され  ば   ぼうぎょ  はか    めぐ  せし  べ     こと  と   ず し   むか  たま  のじょう   ふか なり
盛綱等を差し遣は被れ者、防禦の計りを廻ら令む可し。事を問は不令て向い給ふ之條、不可也。

きょうご も  かく  ごと  ぎ あ   べ     をい  は  ほとん らんせ のもとい たるべ     また  よのそしり  まね  べ   か  うんぬん
向後若し此の如き儀有る可きに於て者、殆ど乱世之基 爲可し。又、世之謗を招く可き歟と云々。

ぶしゅうこた  られ  い
武州答へ被て云はく。

もう ところ  しか  べ     ただ    ひとの よ   あ     しんるい  おも    ゆえなり
申す所は然る可し。但し、人之世に在る、親類を思うの故也。

がんぜん  をい   きょうだい せつがいされ こと  あにひとのそしり まね   あらざ   と
眼前に於て、兄弟を殺害被る事、豈人之謗を招くに非らん乎。

 そ   ときは   さだ   しょうしょく せん な      か   ぶどう いかで じんたい  よ     や   ただいま  えっしゅう てき  かこまれ  のよし  これ  き
其の時者、定めて重職の詮無からん歟。武道爭か人躰に依らん哉。只今、越州 敵に圍被る之由、之を聞く。

たにん は しょうじ  しょ    か  あにの こころざ ところ  けんりゃく じょうきゅう たいてきにたが  べからず  うんぬん
他人者少事に處せん歟。兄之 志す 所、 建暦、 承久の大敵于違う不可と云々。

ときに するがのぜんじよしむら かたわら そうら これ うけたまは かんるい ぬぐ    もりつなつら  た   けいくつ    うんぬん
時于 駿河前司義村 傍 に候い之を承り、感涙を拭う。盛綱面を垂れ敬屈すと云々。

よしむら ざ  た   ののち  ごしょ  まい    みだいどころ  をい  こ   ことを おな    しこう   だんじょ  かた
義村座を起つ之後、御所に參り。御臺所に於て此の事於同じく祗候の男女に語る。

これ  き   もの かんげの あま    もりつなの ふうし と ぶしゅう  ちんしゃ  そ ことわり なおいずれ  あ   やの よし  すこぶ そうろん  およ    つい  これ  けっさず  うんぬん
之を聞く者感歎之餘り、盛綱之諷詞与武州の陳謝、其の理は猶何方に在り哉之由、頗る相論に及び、遂に之を决不と云々。

えっしゅう こ  こと  き     いよい  もっ  きおう    すなは ひそか せいじょう の     い
越州 此の事を聞き、弥よ以て歸往す。即ち 潜に誓状に載せて云はく。

しそんに いた        ぶしゅう  りゅう たい     むに   ちう  ぬき      あえ きょうがい さしはさ べからず  うんぬん
子孫于至るまで、武州の流に對し、無貳の忠を抽んず。敢て凶害を挿む不可と云々。

 そ  じょう  いっつう つるがおかべっとうぼう  つか     いっつう  らいようの はいもう  そな    ため   け  もんじょ  くは    うんぬん
其の状、一通は 鶴岳別當坊に遣はし、一通は來葉B之癈忘Cに備えん爲、家の文書に加うと云々。

参考@越後守は、朝時。北條時政の名越邸を継いでいると思われるが、今まで北條時政邸との推定場所が発掘調査の結果否定され、位置不明。
参考A盛綱は、平。得宗被官。
参考B
來葉は、子孫。
参考C
癈忘は、忘れる。

現代語寛喜三年(1231)九月小二十七日庚戌。昼間、名越のあたりで騒ぎがありました。敵が越後守北条朝時さんの家へ攻め込んできたと、耳に入りました。武州北条泰時さんは、政務会議中の席から、直接向かいました。相州北条時房さんはじめ出席の人々もその後を追って、同様に馬を飛ばしました。しかし、越州北条朝時さんは出かけており、留守番をしていた侍たちが、その南隣で犯人〔よそから逃げてきて隠れていました〕を捕まえたので、賊たちはある者は自殺をし、又或る者は闘いましたとさ。そこで、意気盛んな勇士を行かせて、途中から引き返しました。

平盛綱が、諫言するのには「重い役職についている身なのです。たとえ、国の敵であっても、まず部下を行かせて事情を確かめるように、考えるべきでしょう。私平盛綱を行かせれば、守りの方法を考えるでしょう。内容を確かめもしないで、向かっていくのはいけません。今後、このような事があれば、それは、世の乱れの元となりましょう。又、世間からも非難を受けるでしょう。」との事です。

泰時さんが答えて「言ってる事は最もです。但し、人の世の常で親類を思うからです。目の前で、兄弟を殺されるのがなんで人の非難を受ける事になるでしょう。その時には、重職なんて何の役に立つでしょうか。武力は人の体を助けるためでしょう。たった今、越州朝時が敵に囲まれてると聞いた。他人にとっては小さな出来事でも、兄の心の中では、建暦や承久の大敵と変わりありません。」との事です。

そしたら、駿河前司三浦義村がそばに居てこれを聞いた関心のあまり涙をぬぐいました。平盛綱はうなだれてしまいました。三浦義村は席を立った後、御所へ行って、竹御所のところで、居合わせた男女にこの話をしました。この話を聞いた者は、感激のあまり、平盛綱の諫言と武州北条泰時さんの言い訳と、その理論はどちらの方が筋が通っているか、言い争いになりましたが、決着はつきませんでしたとさ。

越州北条朝時さんは、この話を聞いて、なおさら武州北条泰時さんに心を寄せ、すぐに内緒で誓約書を書きました。子々孫々まで武州泰時さんの家に対し忠誠を誓い、決して敵対することはありませんだとさ。この誓約書の一通を八幡宮の筆頭坊さんに預け、一通は子孫が忘れないようにと、家の文書にしましたとさ。

寛喜三年(1231)九月小廿九日壬子。被行變異御祈云々。

読下し                     へんい  おいのり  おこなはれ  うんぬん
寛喜三年(1231)九月小廿九日壬子。變異の御祈を行被ると云々。

現代語寛喜三年(1231)九月小二十九日壬子。天変へのお祈りを行いましたとさ。

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