寛喜三年辛卯(1231)十二月大
寛喜三年(1231)十二月大五日丙辰。卿法印。信濃法印參御所。献盃酒。相州。武州被參。垂髪等及延年云々。 |
読下し きょうのほういん しなののほういんごしょ まい
はいしゅ
けん そうしゅう ぶしゅうまいらる
寛喜三年(1231)十二月大五日丙辰。卿法印、信濃法印御所へ參り、盃酒を献ず。相州、武州參被る。
すいはつら えんねん およ うんぬん
垂髪@等延年Aに及ぶと云々。
参考@垂髪は、稚児。
参考A延年は、延年の舞。寺院芸能の一。平安中期に興り、鎌倉・室町時代に最も栄えた。延暦寺・興福寺などの寺院で、大法会のあとの大衆(だいしゆ)の猿楽や稚児の舞などによる遊宴歌舞の総称。
現代語寛喜三年(1231)十二月大五日丙辰。大蔵卿法印良信と信濃法印道禅が御所へ来て、お酒を献上しました。相州北条時房さんも武州北条泰時さんも来ました。稚児達が芸を披露しましたとさ。
寛喜三年(1231)十二月大十日辛酉。明春二所御參詣事。有其沙汰云々。 |
読下し みょうしゅん にしょ ごさんけい こと
そ さた あ うんぬん
寛喜三年(1231)十二月大十日辛酉。明春の二所御參詣の事、其の沙汰有りと云々。
現代語寛喜三年(1231)十二月大十日辛酉。来春の箱根・走湯両権現参りについて、実施するよう決めましたとさ。
寛喜三年(1231)十二月大廿六日丁丑。リ。五大尊御衣木。導師信濃法印道禪。又爲明年太一定分御厄。御祈被始之。長日勤行。其上被造立御本尊〔藥師。觀音。不動〕等。同以道禪有開眼供養之儀。玄番允康連。隱岐左衛門尉行義等奉行之。 |
読下し
はれ ごだいそん みそぎ どうし しなののほういんどうぜん
寛喜三年(1231)十二月大廿六日丁丑。リ。五大尊の御衣木@。導師は信濃法印道禪。
また みょうねん
たいつじょうぶん おんやく ため おいのり これ
はじ らる
又、明年
太一定分Aの御厄の爲の御祈、之を始め被る。
ちょうじつ ごんぎょう そ うえ ごほんぞん 〔
やくし かんのん ふどう 〕 ら ぞうりゅうさる おな もっ どうぜん かいがんくよう のぎ あ
長日Bの勤行。其の上、御本尊〔藥師。觀音。不動〕等を造立被る。同じく以て道禪、開眼供養之儀有り。
げんばのじょうやすつら おきのさえもんのじょうゆきよしら
これ ぶぎょう
玄番允康連、
隱岐左衛門尉行義等之を奉行す。
参考@御衣木は、神仏像を作る用材。
参考A太一定分は、厄年。三歳から六歳刻みの厄年。来年は数えの十五歳。
参考B長日は、一日中休まずにお経を上げること。
現代語寛喜三年(1231)十二月大二十六日丁丑。晴れです。五大明王の用材の穢れを除き、霊性を持たせる加持式です。指導僧は、信濃法印道禅です。又、来年は数えの十五の厄年なので、そのお祓いのお祈りを始めました。一日中休まずにお経を上げます。その上、御本尊〔薬師如来・観音菩薩・不動明王〕も造りました。同じように道禅が開眼供養の儀式をしました。玄番允太田康蓮と隠岐左衛門尉二階堂行義が、担当します。
寛喜三年(1231)十二月大廿八日己夘。今夜。被行三萬六千神祭〔廣資〕代厄親貞。 |
読下し
こんや さんまんろくせんしんさい〔ひろすけ〕 おこなはれ だいやく
ちかさだ
寛喜三年(1231)十二月大廿八日己夘。今夜。三萬六千神祭〔廣資〕を行被る。代厄@は親貞。
参考@代厄は、呼んで字の如くと思われる。
現代語寛喜三年(1231)十二月大二十八日己卯。今夜、三万六千神祭〔安陪広資〕を行いました。将軍の厄払いの代参は安陪親貞です。
寛喜三年(1231)十二月大卅日辛巳。今夜戌亥兩時。甚雨雷鳴。及深更雨休。大晦夜雷鳴。爲殊重變之由云々。 |
読下し こんや いぬい りょうとき はなは あめ かみなりな しんそう およ
あめやす
寛喜三年(1231)十二月大卅日辛巳。今夜戌亥の兩時、甚だ
雨 雷 鳴る。深更に及び雨休む。
おおみそか よ らいめい こと ちょうへんたるのよし うんぬん
大晦の夜の雷鳴、殊なる重變爲之由と云々。
現代語寛喜三年(1231)十二月大三十日辛巳。今夜、午後八時から十時の二刻、土砂降りの雷雨でした。夜中になって雨はやみました。大晦日の夜の雷は、特別な変事が重なるそうな。