吾妻鏡入門第廿八巻

寛喜四年壬辰(1232)二月四月二日改元

寛喜四年(1232)二月大七日戊午。御臺所御不例。今日々中以後。頗御辛苦云々。仍被行御祈等。五壇法。北斗供。泰山府君。代厄御祭云々。

読下し                    みだいどころごふれい  きょう  にっちゅう いご  すこぶ  ごしんく  うんぬん   よっ  おいのりら おこなはれ
寛喜四年(1232)二月大七日戊午。御臺所御不例。今日の々中以後、頗る御辛苦と云々。仍て御祈等を行被る。

ごだん  ほう    ほくとぐ   たいさんふくん  だいやくおまつり  うんぬん
五壇の法、北斗供、泰山府君、代厄御祭と云々。

現代語寛喜四年(1232)二月大七日戊午。将軍頼経様の奥さんの竹御所が具合が悪い。今日の日中以後、かなり苦しそうです。そこでお祈りを行いました。五大明王を拝む・北西の供養・泰山府君祭・厄替わりのまじないだそうな。

寛喜四年(1232)二月大八日己未。天霽。戌刻。月犯天關并太白犯婁星。爲希代重變之由。天文道驚申云々。

読下し                   そらはれ いぬのこく つき  てんかん  おか   なら    たいはくろうせい  おか
寛喜四年(1232)二月大八日己未。天霽。戌刻、月、天關を犯し、并びに太白婁星を犯す。

きだい ちょうへんたるの よし  てんもんどうおどろ もう    うんぬん
希代の重變爲之由、天文道驚き申すと云々。

現代語寛喜四年(1232)二月大八日己未。空は晴れました。午後八時頃、月が天關おうし座ゼンータ星を犯し、それに太白金星と婁宿距星牡羊座べータ星を犯しました。世にもまれな現象が重なったと、天文方が驚いて申し上げましたとさ。

寛喜四年(1232)二月大十三日甲子。御臺所御不例事御少減云々。今日。依御不例事。小山下野入道。宇都宮修理亮等自彼國參上云々。

読下し                      みだいどころぐふれい  こと  ごしょうげん  うんぬん
寛喜四年(1232)二月大十三日甲子。御臺所御不例の事、御少減と云々。

きょう  ごふれい  こと  よっ    おやまのすもつけにゅうどう  うつのみやのしゅりのすけら か  くによ   さんじょう   うんぬん
今日御不例の事に依て、 小山下野入道、 宇都宮修理亮等 彼の國自り參上すと云々。

現代語寛喜四年(1232)二月大十三日甲子。竹御所の具合が少し良くなりましたとさ。今日、病気の事を聞いて小山下野入道生西朝政・宇都宮修理亮泰綱が、国元から鎌倉へ出て来ましたとさ。

寛喜四年(1232)二月大十四日乙丑。甘繩邊民居燒亡。

読下し                      あまなわあた   みんきょ しょうぼう
寛喜四年(1232)二月大十四日乙丑。甘繩邊りの民居 燒亡す。

現代語寛喜四年(1232)二月大十四日乙丑。甘縄あたりの民家が焼けました。

寛喜四年(1232)二月大廿日辛未。自一條殿。被進新調車。是將軍家近日可有御上階之故也云々。大夫尉基綱請取之云々。

読下し                   いちじょうどの よ   しんちょう くるま  すす  らる    これ  しょうぐんけきんじつ  ごじょうかい あ   べ  のゆえなり  うんぬん
寛喜四年(1232)二月大廿日辛未。一條殿@自り、新調の車を進め被る。是、將軍家近日、御上階A有る可き之故也と云々。

たいふのじょうもとつな これ  う   と     うんぬん
大夫尉基綱、之を請け取ると云々。

参考@一條殿は、九条道家。九条の屋敷には東福寺を建立し、一条へ移った。
参考A
御上階は、位が上る。

現代語寛喜四年(1232)二月大二十日辛未。一条殿九条道家(頼経父)さんから新車を送って来ました。これは近いうちに将軍が京都へ上ってくるようにとの事です。大夫尉後藤基綱が、これを受け取りましたとさ。

寛喜四年(1232)二月大廿三日甲戌。御臺所御沐浴云々。

読下し                     みだいどころ  おんもくよく  うんぬん
寛喜四年(1232)二月大廿三日甲戌。御臺所、御沐浴と云々。

現代語寛喜四年(1232)二月大二十三日甲戌。竹御所は病の気を洗い流す儀式沐浴をしたそうな。

寛喜四年(1232)二月大廿四日乙亥。武藏國六所宮拝殿破壞。有修造之儀。武藤左衛門尉資頼奉行之。

読下し                     むさしのくに ろくしょのみや はいでん はかい   しゅうぞうの ぎ あ     むさとうさえもんのじょうすけより  これ  ぶぎょう
寛喜四年(1232)二月大廿四日乙亥。武藏國六所宮@の拝殿 破壞し、修造之儀有り。 武藤左衛門尉資頼、之を奉行す。

参考@武藏國六所宮は、府中市の大国魂神社。かつて武蔵総社六所宮と呼ばれた。明治4年、社号を「大國魂神社」に改めた。

現代語寛喜四年(1232)二月大二十四日乙亥。武蔵国六所宮(大国魂神社)の拝む建物拝殿が壊れたので修理について会議がありました。武藤左衛門尉資頼が修理を指揮担当するのです。

寛喜四年(1232)二月大廿六日丁丑。武藏國槫沼堤大破之間。可令修固之由。可被仰便宜地頭之旨被定。左近入道々然。石原源八經景等爲奉行下向。彼國諸人領内百姓不漏一人可催具。在家別俵二可充之者。自三月五日始之。自身行向其所。可致沙汰之旨。含命云々。

読下し                     むさしのくに くれぬまづつみ たいは    のあいだ  しゅうこせし  べ   のよし  びんぎ  ぢとう  おお  らる  べ   のむね  さだ  らる
寛喜四年(1232)二月大廿六日丁丑。武藏國 槫沼堤@ 大破する之間、修固令む可き之由、便宜の地頭に仰せ被る可き之旨、定め被る。

さこんにゅうどうどうねん  いしわらげんぱちつねかげらぶぎょう  な   げこう    か   くに  しょにん  りょうない ひゃくせうひとり  もらさずもよお ぐ   べ
左近入道々然、 石原源八經景等 奉行と爲し下向す。彼の國の諸人、領内の百姓一人も漏不催し具す可し。

ざいけべつ  たわらに  これ  あ     べ      れば  さんがついつかよ   これ  はじ    じしん そ  ところ ゆきむか    さた いた  べ   のむね  めい  ふく    うんぬん
在家別に俵二、之を充てる可してへ者、三月五日自り之を始め、自身其の所に行向い、沙汰致す可き之旨、命を含むと云々。

参考@槫沼堤は、越辺川と都幾川が合流する場所なので、埼玉県坂戸市赤尾の辺りと思われる。

現代語寛喜四年(1232)二月大二十六日丁丑。武蔵国の越辺川と都幾川が合流する場所の槫沼堤(埼玉県坂戸市赤尾)が大破したので、固く修理するように、近くの地頭に命令するように決めました。左近入道道然と石原源八経景は、担当として現場へ出張しました。武蔵の国の御家人は、自分の領地から百姓一人をもれなく連れて行くように。農家毎に俵二枚を割り当てるので、三月五日からこれを始めて、奉行自身が現場に出かけて行って措置するように、命令をしましたとさ。

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