吾妻鏡入門第廿八巻

貞永元年(寛喜四年)壬辰(1232)四月四月二日改元

寛喜四年(1232)四月大一日辛亥。今日可有日蝕之旨。宿曜備中法橋依申之。可被裹御所否。以周防前司親實。被問暦道。各不可有蝕之由申之。

読下し                    きょう にっしょくあ   べ   のむね  すくよう びっちゅうほっきょう これ  もう     よっ     ごしょ  つつまれ  べ     いな
寛喜四年(1232)四月大一日辛亥。今日日蝕有る可き之旨、 宿曜@備中法橋 之を申すに依て、御所を裹被る可きや否や、

すおうのぜんじちかざね もっ    れきどう  と はれ   おのおの さわ  あ   べからずの よしこれ  もう
周防前司親實を以て、暦道に問被る。 各 蝕り有る不可之由之を申す。

参考@宿曜は、天文学。

現代語寛喜四年(1232)四月大一日辛亥。今日、日食がありますと、天文学の備中法橋定尊が云うので、日食の光は穢れがあるので、御所を筵で覆いかぶせるかどうか、周防前司中原親実に命じて暦専門官に問い合わせさせました。それぞれ、問題はありませんと報告しました。

貞永元年(1232)四月大四日甲寅。京都大番事。有其沙汰。國中地頭中。雖令居住他國。於先々勤來之輩者。催加代官。可令勤之由。被仰守護人等云々。

読下し                    きょうとおおばん こと   そ    さた あ
貞永元年(1232)四月大四日甲寅。京都大番の事、其の沙汰有り。

くにじう   ぢとう   うち  たこく  きょじゅうせし   いへど   さきざき  をい  きんらいのやからは  だいかん もよお くは    つと  せし  べ   のよし
國中の地頭の中、他國に居住令むと雖も、先々に於て勤來之輩者、代官を催し加へ、勤ま令む可し之由、

しゅごにん ら   おお  らる    うんぬん
守護人等に仰せ被ると云々。

現代語貞永元年(1232)四月大四日甲寅。京都で代理を警護する大番役について、命令がありました。それぞれの国の地頭は、他の国に居住していても、これからは地頭をしている国の勤番の連中は、代官を派遣して勤めさせなさいと、各国の守護人に命じましたとさ。

貞永元年(1232)四月大七日丁巳。新補地頭所務間事七ケ條。被定其法云々。

読下し                     しんぽぢとう   しょむ  あいだ  ことしちかじょう  そ   ほう  さだ  らる    うんぬん
貞永元年(1232)四月大七日丁巳。新補地頭の所務@の間の事七ケ條、其の法を定め被ると云々。

参考@所務は、領地関係。金銭相続関係は、雑務。

現代語貞永元年(1232)四月大七日丁巳。承久の乱以後に任命された新補地頭の領地関係については、七か条の法を定めましたとさ。

貞永元年(1232)四月大九日己未。法花堂西之護摩堂。去年十月廿五日燒亡時囘祿訖。而爲御臺所御願可被造云々。仍今日。於政所。爲信乃民部大夫入道行然奉行。件堂自御所當何方哉之由。有其沙汰。遣陰陽師〔泰貞。リ賢。宣賢〕被糺方角。入夜明火於御所与法花堂。往反兩方窺見之。爲丑方分之由。各言上云々。

読下し                     ほけどう にし の ごまどう   きょねんじうがつにじうごにち しょうぼう  ときかいろく をはんぬ
貞永元年(1232)四月大九日己未。法花堂西之護摩堂、 去年十月廿五日 燒亡の時囘祿し 訖。

しか   みだいどころ  ごがん  な   つくらる  べ     うんぬん
而るに御臺所の御願と爲し造被る可きと云々。

よっ  きょう   まんどころ をい    しなのみんぶたいふにゅうどうどうねん ぶぎょう  な     くだん どう ごしょよ  いずれかた  あた  や の よし  そ   さた あ
仍て今日、政所に於て、 信乃民部大夫入道行然 奉行と爲し、件の堂御所自り何方に當る哉之由、其の沙汰有り。

おんみょうじ 〔やすさだ はるかた のぶかた〕    つか    ほうがく  たださる
陰陽師〔泰貞。リ賢。宣賢〕を遣はし方角を糺被る。

 よ   い   みょうかを ごしょ と  ほけどう   りょうほう  おうはん  これ  うかが み    うしかたぶんたるの よし おのおの ごんじょう   うんぬん
夜に入り明火於御所与法花堂、兩方を往反し之を窺い見て、丑方分爲之由、 各 言上すと云々。

現代語貞永元年(1232)四月大九日己未。頼朝法華堂の西にあった護摩炊き用のお堂も、去年10月15日の火事で燃えてしまいました。しかし、将軍の奥さんの竹御所の願として再建したいと言い出しました。そこで政務事務所では、信濃民部大夫入道行然二階堂行盛を担当として、そのお堂の場所は御所から何の方角に当たるのか調べる事になりました。陰陽師〔安陪泰貞・安陪晴賢・安陪宣賢〕を行かせて方角を確かめさせました。夜になって、松明の灯りを御所と法華堂の両方に灯して、これを双方から見て、丑の方角だと、それぞれ報告しましたとさ。

貞永元年(1232)四月大十一日辛酉。霽。將軍家御參鶴岳八幡宮。御淨衣。御乘車。大夫判官基綱。祐時。祐政等供奉。駿河前司義村持御釼。佐原三郎左衛門尉懸御調度。於宮寺被行八講云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん    ごじょうい   ごじょうしゃ  たいふほうがんもとつな すけとき  すけまさら  ぐぶ
貞永元年(1232)四月大十一日辛酉。霽。將軍家 鶴岳八幡宮へ 御參す。御淨衣、御乘車。大夫判官基綱、祐時、祐政等供奉す。

するがのぜんじよしむら ぎょけん も    さわらのさぶろうさえもんのじょう ごちょうど   か      ぐうじ   をい  はちこう  おこなはれ  うんぬん
駿河前司義村 御釼を持ち、佐原三郎左衛門尉 御調度を懸く。宮寺に於て八講を行被ると云々。

現代語寛喜四年(1232)四月大十一日辛酉。晴れました。鶴岡八幡宮へお参りです。清浄な白い服で牛車です。大夫判官後藤基綱・伊東祐時・宇佐美祐政などがお供をしました。駿河前司三浦義村は太刀持ちで、佐原三郎左衛門尉家連が弓矢を掛けてます。鶴岡八幡宮寺で八人の坊さんによる講義がありましたそうな。

貞永元年(1232)四月大十二日壬戌。御參同宮。

読下し                      どうぐう  ぎょさん
貞永元年(1232)四月大十二日壬戌。同宮へ御參。

現代語貞永元年(1232)四月大十二日壬戌。鶴岡八幡宮へお参りです。

貞永元年(1232)四月大十三日癸亥。今日又御神拝。

読下し                     きょう また  ごしんぱい
貞永元年(1232)四月大十三日癸亥。今日又、御神拝。

現代語貞永元年(1232)四月大十三日癸亥。今日もまた、お参りです。

貞永元年(1232)四月大十四日甲子。同御參。今日改元詔書到來。去二日改寛喜四年爲貞永元年。

読下し                     おな    ぎょさん    きょう かいげん しょうしょとうらい   さんぬ ふつか かんぎよねん  あらた じょうえいがんねん な
貞永元年(1232)四月大十四日甲子。同じき御參す。今日改元の詔書到來す。去る二日 寛喜四年を改め 貞永元年と爲す。

現代語貞永元年(1232)四月大十四日甲子。同様にお参りです。今日、改元の文書が届きました。先日の二日に寛喜四年を替えて貞永元年としました。

貞永元年(1232)四月大十五日乙丑。リ。將軍家自去十一日。至今日。御奉幣于鶴岡上下宮。無爲令遂給云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけさんぬ じういちにちよ     きょう  いた  つるがおかじょうげぐうに ごほうへい   ぶい   と   せし  たま    うんぬん
貞永元年(1232)四月大十五日乙丑。リ。將軍家去る十一日自り、今日に至り、鶴岡上下宮于御奉幣、無爲に遂げ令め給ふと云々。

現代語貞永元年(1232)四月大十五日乙丑。晴れです。将軍頼経様は、先日の11日から今日まで、鶴岡八幡宮の上下の宮に幣を捧げるお参りが無事に済みましたとさ。

貞永元年(1232)四月大廿一日辛未。近日。都鄙夜討強盜蜂起之由。有其聞之間。仰守護人地頭等。面々不見隱。不可聞隱之旨。被仰下。

読下し                     きんじつ   とひ   ようち ごうとう ほうき の よし  そ   きこ  あ   のあいだ  しゅごにん ぢとうら   おお
貞永元年(1232)四月大廿一日辛未。近日。都鄙@の夜討強盜蜂起之由、其の聞へ有る之間、守護人地頭等に仰せて、

めんめん みかくさず き  かく  べからずのむね  おお  くださる
面々に見隱不聞き隱す不可之旨、仰せ下被る。

参考@都鄙は、都会と鄙びた田舎。

現代語貞永元年(1232)四月大二十一日辛未。最近、都会でも田舎でも夜襲や強盗が増えていると、噂が入るので、守護人や地頭等に命じて、それぞれに見たり聞いたりしたのを隠さないで届けるよう、命じられました。

貞永元年(1232)四月大廿五日乙亥。霽。今曉太白犯填星〔一尺六寸所〕司天等献勘文。接津守執申之。

読下し                     はれ  こんぎょう たいはくてんせい おか  〔いっしゃくろくすん  ところ〕   してんら  かんもん  けん  せっつのかみ これ  しっ  もう
貞永元年(1232)四月大廿五日乙亥。霽。今曉、太白填星を犯す〔一尺六寸の所〕。司天等勘文を献ず。接津守 之を執し申す。

現代語貞永元年(1232)四月大二十五日乙亥。今朝の夜明けに太白星(金星)が填星(土星)の軌道を犯しました〔48cmの所〕。天文方が上申書を出しました。摂津守中原師員が取り次ぎました。

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