貞永元年壬辰(1232)五月小
貞永元年(1232)五月小十四日甲午。武州專政道給之餘。試御成敗式條之由。日來内々有沙汰。今日已令始之給云々。偏所被仰合玄番允康連也。法橋圓全執筆。是關東諸人訴論事。兼日被定法不幾之間。於時縡亘兩段。儀不一揆。依之固其法。爲断濫訴之所起也。」今夕將軍家鼻血出給云々。 |
読下し ぶしゅうもっぱ せいどう
たま の
あま ごせいばいしきじょう こころ のよし ひごろないない さた あ
貞永元年(1232)五月小十四日甲午。武州專ら政道し給ふ之餘り、御成敗式條@を試む之由、日來内々沙汰有り。
きょう すで これ
はじ せし
たま うんぬん ひと げんばのじょうやすつら おお
あ さる ところなり ほっきょうえんぜん しゅひつ
今日已に之を始め令め給ふと云々。偏へに
玄番允康連に仰せ合は被る所也。法橋圓全 執筆す。
これ
かんとうしょにんそろん こと けんじつ さだ
らる ほういく ざるのあいだ とき をい
ことりょうだん わた ぎ いっきせず
是、關東諸人訴論の事、兼日に定め被る法幾なら不之間、時に於て縡兩段に亘りA、儀一揆不。
これ よっ そ ほう かた
らんそ の
おこ ところ た ためなり
之に依て其の法を固め、濫訴之起る所を断たんが爲也。」
こんゆう
しょぐんけ はなぢいで たま うんぬん
今夕、將軍家鼻血出で給ふと云々。
参考@御成敗式条は、御成敗式目。
参考A縡兩段に亘りは、二つが矛盾していて。
現代語貞永元年(1232)五月小十四日甲午。武州泰時さんは、政治を執権し、とうとう御成敗式目を作ってみようと、この頃内々に命じていました。今日、始められました。ひたすら玄場允三善太田康連と相談しました。法橋円全が書き留めました。これは、関東武士の所領争いの裁判沙汰について、過去の事例が沢山あるので、場合によっては双方が矛盾していて裁決に至らないのです。それなので、法を定めておき、矛盾した判決を防ぐためです。」
今日夕方、将軍頼経様は鼻血を流しましたとさ。
貞永元年(1232)五月小十五日乙未。日中以後。將軍家御不例。此間世上咳病盛也。上下無遁者。世称之三日病云々。仍於御所中。被行鬼氣祭云々。 |
読下し にっちゅういご しょうぐんけごふれい
かく あいだ せじょう がいびょう
さか なり
貞永元年(1232)五月小十五日乙未。日中以後、將軍家御不例。此の間、世上
咳病 盛ん也。
じょうげのが ものな よ これ
みっかやまい しょう うんぬん よっ ごしょちう をい ききさい おこなはれ うんぬん
上下遁るる者無し。世之を三日病@と称すと云々。仍て御所中に於て、鬼氣祭を行被ると云々。
参考@三日病は、三日麻疹(はしか)。麻疹(はしか)に似た発疹が出て二〜三日で治ることから。風疹(ふうしん)の俗称。
現代語貞永元年(1232)五月小十五日乙未。日中以後将軍頼経様は病気です。近頃世間では咳の病気が流行していて、身分の上下に係らず逃れられません。三日ばしかと呼ばれています。そこで御所の中で、鬼気祭を行ったそうな。
貞永元年(1232)五月小十六日丙申。御不例心神殊違乱云々。 |
読下し ごふれい しんしんこと
いらん うんぬん
貞永元年(1232)五月小十六日丙申。御不例、心神殊に違乱すと云々。
現代語貞永元年(1232)五月小十六日丙申。病気です、精神も特に乱れているようです。
貞永元年(1232)五月小十七日丁酉。今曉被行御占等。七座泰山府君親職。リ幸。リ職。國継。リ賢。親貞。經昌。土公重宗。鬼氣リ茂等奉仕之。」今日未刻。烏糞懸于御前北面御簾云々。仍有百怪御祭。國継奉仕云々。 |
読下し こんぎょう
おんうらら おこなはれ しちざ たいさんふくん ちかもと はるゆき はるもと くにつぐ
はるかた ちかさだ つねまさ
貞永元年(1232)五月小十七日丁酉。今曉
御占等を行被る。七座の泰山府君、親職、リ幸、リ職、國継、リ賢、親貞、經昌。
どくう しげむね きき はるしげら
これ ほうし
土公は重宗。鬼氣はリ茂等之を奉仕す。」
きょう
ひつじのこく からすふん ごぜん
ほくめん おんみすに か
うんぬん よっ ひゃっかいおんさいあ くにつぐほうし うんぬん
今日
未刻、 烏 糞を御前北面の御簾于懸けると云々。仍て百怪
御祭有り。國継奉仕すと云々。
現代語貞永元年(1232)五月小十七日丁酉。今朝の夜明けに占い等を行いました。七人の泰山府君祭は、安陪親職・安陪晴幸・安陪晴職・安陪國継・安陪晴賢・安陪親貞・安陪経昌です。土公祭は安陪重宗です。鬼気祭は安陪晴茂が勤めました。」
今日の午後二時頃に、カラスが将軍の座の北側の御簾にフンをかけたそうな。そこで百怪祭を行いました。國継が勤めました。
貞永元年(1232)五月小十八日戊戌。依烏怪。爲御祈祷。於御所被行千度御秡。」今日。武州迎故修理亮〔時氏〕第三年忌辰。於彼墳墓堂。被供養新造阿弥陀三尊。導師弁僧正定豪云々。 |
読下し からす あや よっ ごきとう ため ごしょ をい せんど おはらへ おこなはれ
貞永元年(1232)五月小十八日戊戌。烏の怪しに依て、御祈祷の爲、御所に於て千度の御秡を行被る。」
きょう ぶしゅう こしゅりのすけ 〔ときうじ〕 だいさんえんきしん むか か
ふんぼどう
をい しんぞうあみださんぞん くよう さる
今日、武州
故修理亮〔時氏〕の第三年忌辰を迎へ、彼の墳墓堂に於て、新造阿弥陀三尊を供養被る。
どうし べんのそうじょうていごう うんぬん
導師は弁僧正定豪と云々。
現代語貞永元年(1232)五月小十八日戊戌。烏の怪しい行為によって、祈祷として御所で千回のお祓いを行いました。」
今日、泰時さんは、故修理亮時氏の三回忌を迎え、その墓のお堂で新作の阿弥陀三尊の開眼供養を行いました。指導僧は弁僧正定豪だそうな。
貞永元年(1232)五月小廿六日丙午。將軍家御不例平愈。今日有御沐浴之儀。 |
読下し しょうぐんけ
ごふれい へいゆ きょう おんもくよくの ぎ あ
貞永元年(1232)五月小廿六日丙午。將軍家の御不例平愈す。今日、御沐浴之儀有り。
現代語貞永元年(1232)五月小二十六日丙午。将軍頼経様の病気が治りましたので、病の気を洗い流す沐浴の儀式を行いました。