貞永元年壬辰(1232)八月小
貞永元年(1232)八月小六日甲寅。御臺所御方違事。駿河入道家不可叶于本所方角。可被用東御所之由。有其沙汰云々。久良奉行之。 |
読下し みだいどころ
おんかたたが
こと するがにゅうどうけ ほんじょ ほうがくに
かな べからず
貞永元年(1232)八月小六日甲寅。御臺所
御方違への事、駿河入道家が本所の方角于叶う不可。
ひがしのごしょ もち らる べ のよし そ さた あ うんぬん ひさよしこれ ぶぎょう
東御所を用い被る可き之由、其の沙汰有りと云々。久良之を奉行す。
現代語貞永元年(1232)八月小六日甲寅。将軍室竹御所は、方角変えのために駿河入道中原季時の家は現在地からの方角がまずいのです。東御所を使うように、決まりました。大和藤左衛門尉久良が担当します。
貞永元年(1232)八月小八日丙辰。御臺所爲精進造營。自今夜御坐東御所。百四十五日御方違也。 |
読下し みだいどころ
しょうじんぞうえい ため こんや よ ひがしのごしょ おは ひゃくしじうごにち おんかたたが なり
貞永元年(1232)八月小八日丙辰。御臺所、精進
造營の爲、今夜自り東御所に坐す。百四十五日の御方違へ也。
現代語貞永元年(1232)八月小八日丙辰。竹御所は、父頼家の追善供養のお堂を建立するため、今夜から東御所におられます。145日の方角変えです。
貞永元年(1232)八月小九日丁巳。リ。和賀江嶋終其功。仍尾藤左近入道。平三郎左衛門尉。諏方兵衛尉爲御使巡檢云々。 |
読下し はれ わがえじま
そ
こうおえ
貞永元年(1232)八月小九日丁巳。リ。和賀江嶋其の功終る@。
よっ びとうさこんにゅうどう へいさぶろうさえもんのじょう すわのひょうえのじょう おんし な じゅんけん
うんぬん
仍て尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、 諏方兵衛尉
御使と爲し巡檢すと云々。
現代語貞永元年(1232)八月小九日丁巳。晴れです。和賀江ノ島の工事が完了しました。それで、尾藤左近入道景綱・平三郎左衛門尉盛綱・諏訪兵衛尉盛重が、幕府の派遣員として検査をしましたとさ。
疑問@和賀江嶋其の功終るは、着工が七月十九日なので二十四日間で完成か?
貞永元年(1232)八月小十日戊午。霽。御臺所御願堂舎建立日時被定之云々。」又武州令造給御成敗式目被終其篇。五十箇條也。今日以後訴論是非。固守此法。可被裁許之由被定云々。是則可比淡海公律令歟。彼者海内龜鏡。是者關東鴻寳也〔元正天皇御宇養老二年戊午。淡海公令擇律令給云々〕。 |
読下し はれ
みだいどころ
ごがん どうしゃこんりゅう にちじ これ
さだ らる うんぬん
貞永元年(1232)八月小十日戊午。霽。御臺所
御願の堂舎建立の日時、之を定め被ると云々。」
また ぶしゅう つく
せし たま ごせいばいしきもく そ へん おえらる ごじっかじょうなり
又、武州の造ら令め給ふ御成敗式目、其の篇を終被る。五十箇條也。
きょう いご そろん
ぜひ
かた こ ほう まも さいきょうさる
べ のよしさだ らる うんぬん
これすなは たんかいこう りつりょう ひ べ
か
今日以後訴論の是非は、固く此の法を守り、裁許被る可き之由定め被ると云々。是
則ち淡海公@の律令に比す可き歟。
か は
かいだい ききょう これは かんとう
こうほうなり 〔げんしょうてんのう おんう ようろうにねんつちのえうま たんかいこうりつりょう えら せし たま うんぬん〕
彼者、海内の龜鏡。是者、關東の鴻寳也。〔元正天皇の御宇養老二年戊午。淡海公律令を擇び令め給ふと云々〕
参考@淡海公は、藤原不比等。大宝元年(701)の大宝律令の注釈書で、公文書を令義解と云い、私的な方を令集解と云う。
現代語貞永元年(1232)八月小十日戊午。晴れました。竹御所の願のお堂の建立着工の日時を決めましたとさ。」
又、泰時さんが作らせている御成敗式目の編集が終わりました。50条です。今日以後の訴訟の裁決は、しっかりこの法を守って、判決を下すべきだとお決めになりました。これは、藤原不比等の律令に匹敵するものです。あちらは日本のお手本になるもので、こちらは関東の大きな宝です〔元正天皇(860-748)の時代の養老二年(718)戊午。藤原不比等が律令を作らせましたとさ〕。
貞永元年(1232)八月小十三日辛酉。評定。殿下御領接津國垂水西御牧内萱野郷有犯過人。可被召渡守護所之由。可示達左大弁宰相之趣。今日被仰六波羅。凡強盜夜討凶賊等事。雖爲權門領。雖無使入部。可召渡守護所之旨。治定先訖。而可出使廳之由。寄(家)司等令存知云々。向後不可然之由云々。」筑後前司資頼入道〔法名是佛〕辞鎭西奉行事。彼状去比到着。今日有其沙汰。以石見左衛門尉資能。被補其替云々。 |
読下し ひょうじょう でんかごりょう
せっつのくに たるみにしみまきない かやのごう はんかにん あ
貞永元年(1232)八月小十三日辛酉。評定。殿下御領@接津國 垂水西御牧内萱野郷Aに犯過人有り。
しゅごしょ めしわたさる べ のよし さだいべんさいしょう しめ
たっ べ のおもむき きょう ろくはら おお
らる
守護所に召渡被る可き之由、左大弁宰相に示し達す可き之趣、今日六波羅に仰せ被る。
およ ごうとう ようち きょうぞくら
こと けんもんりょう たり いへど
し にゅうぶ な いへど しゅごしょ め わた べ
のむね ちじょうさき をはんぬ
凡そ強盜夜討凶賊等の事、權門領B爲と雖も、使の入部C無しと雖も、守護所に召し渡す可き之旨、治定先に訖。
しか しちょう いだ べ のよし けいしら ぞんちせし うんぬん きょうこう しか
べからずの よし うんぬん
而るに使廳Dに出す可き之由、家司等存知令むと云々。向後
然る不可之由と云々。」
ちくごのぜんじすけよりにゅうどう 〔ほうみょうぜぶつ〕 ちんぜいぶぎょう じ こと か じょう
さんぬ ころとうちゃく きょう そ さた あ
筑後前司資頼入道〔法名是佛〕鎭西奉行を辞する事、彼の状
去る比到着す。今日其の沙汰有り。
いわみさえもんのじょうすけよし もっ そ かえ ぶ さる うんぬん
石見左衛門尉資能を以て、其の替に補被ると云々。
参考@殿下御領は、藤原氏の総本家に代々伝わる荘園領地。
参考A萱野郷は、箕面市(みのおし)萱野。元義経の領地。
参考B權門領は、摂関家領。
参考C使の入部は、檢非違使の捜査。
参考D使廳は、檢非違使の庁。
現代語貞永元年(1232)八月小十三日辛酉。政務会議。殿下九条教実様の藤原氏代々伝わる領地の摂津国垂水西御牧内萱野郷(大阪府箕面市萱野)に犯罪者がおります。守護の所へ護送するように、左大弁宰相平範輔に指示するように、今日六波羅へ通知しました。
だいたい強盗・夜討などの極悪犯については、摂関家領であっても、検非違使の立ち入り捜査権がないとは云えど、守護の所へ引き渡すように、以前に決めております。それなのに檢非違使へ差し出すことについて、摂関家の執事は知ってはいたんだそうだ。今後はそうではないようにとの事だそうな。」
筑後前司藤原資頼入道〔出家名は是仏〕は、九州平定司令官の職を辞職したいとの手紙が先日到着しました。今日、その許可があり、息子の石見左衛門尉資能が、その職を世襲して任命されましたとさ。
貞永元年(1232)八月小十五日癸亥。小雨降。鶴岳放生會。將軍家御出如例。民部少輔有時役御劍。供奉廷尉及五人。於關東未有例。基綱。祐時。助政〔已上五位〕盛時。光村〔已上六位〕等也。 |
読下し こさめふ つるがおか ほうじょうえ しょうぐんけおんいで
れい ごと みんぶしょうゆうありとき ぎょけん
えき
貞永元年(1232)八月小十五日癸亥。小雨降る。鶴岳の放生會、將軍家御出
例の如し。民部少輔有時@御劍を役す。
ぐぶ
ていい ごにん およ かんとう をい
いま れいあ もとつな すけとき
すけまさ 〔いじょう ごい 〕 もりとき みつむら 〔いじょうろくい〕 らなり
供奉の廷尉五人に及ぶ。關東に於て未だ例有らず。基綱、祐時、助政〔已上五位〕盛時、光村〔已上六位〕等也。
現代語貞永元年(1232)八月小十五日癸亥。小雨が降ってます。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する放生会です。将軍頼経様のお出ましは何時もの通りです。民部少輔北条六郎有時が太刀持ちを勤めました。お供は検非違使が5人もです。今迄関東では5人もの検非違使の例はありません。後藤基綱・伊東祐時・宇佐美祐政〔以上五位〕佐原盛時・三浦光村です。
-貞永元年(1232)八月小十六日甲子。霽。將軍家又御參宮。御臺所出御棧敷。盛時。光村等候埒邊。盛時具家子〔布衣〕一人。光村負小節箭。具家子〔布衣〕三人〔各郎等四人。雜色二人。童大長二人。調度懸各一人〕馬塲儀如例。而競馬時。有兵衛尉景氏与土肥左衛門尉義綱等。被召决之。以景氏可令勝之由。及御祈祷之處。如御本意云々。 |
読下し
はれ
しょうぐんけまた ごさんぐう みだいどころ おんさじき いで もりとき みつむらら
らち へん そうら
貞永元年(1232)八月小十六日甲子。霽。將軍家又御參宮。御臺所
御棧敷に出る。盛時、光村等埒@邊に候う。
もりとき
いえのこ 〔 ほい 〕 ひとり ぐ
盛時家子〔布衣〕一人を具す。
みつむら こぶしや お いえのこ 〔 ほい 〕 さんにん 〔かくろうとうよにん ぞうしきふたり わらわおおおさふたり ちょうどがけおのおのひとり〕 ぐ
光村小節箭を負ひ、家子〔布衣〕三人〔各郎等四人。雜色二人。童大長二人。調度懸
各 一人〕を具す。
ばば ぎ れい ごと しか くらべうま とき ひょうえのじょうかげうじ と といのさえもんのじょうよしつなら あ これ め けっ らる
馬塲の儀例の如し。而るに競馬の時、
兵衛尉景氏 与 土肥左衛門尉義綱
等有り。之を召し决せ被る。
かげうじ もっ かたせし べ のよし ごきとう およ のところ ごほんい ごと うんぬん
景氏を以て勝令む可し之由、御祈祷に及ぶ之處、御本意の如くと云々。
参考@埒(らち)は、垣根。
現代語貞永元年(1232)八月小十六日甲子。晴れました。将軍頼経様は又お参りです。竹御所は臨時席の桟敷へ出ました。佐原盛時・三浦光村が垣根のあたりについてます。佐原盛時は、家来〔狩衣〕一人を連れ、光村は小型の弓矢を持って、家来3人〔それぞれに子分4人。雑用2人。童髪の下男2人。弓担ぎ3人〕を連れてます。馬場での奉納儀式は何時もの通りです。しかし、競馬の時に兵衛尉景氏と土肥左衛門尉義綱とを、指名して勝負をさせました。景氏が勝たせるように祈祷していたら、結果はその通りになったんだとさ。