吾妻鏡入門第廿八巻

貞永元年壬辰(1232)九月大

貞永元年(1232)九月大一日戊寅。畿内近國并西國境相論事。共以爲公領者。尤可爲國司成敗。於庄園者。爲領家沙汰。經奏聞。可爲聖断之由被定。且以此趣。被仰六波羅云々。

読下し                    きないきんごくなら    さいごく さかいそうろん こと  とも  もっ  こうりょうたらば  もっと  こくし   せいばい  な   べ
貞永元年(1232)九月大一日戊寅。畿内近國并びに西國の境相論の事、共に以て公領爲者、尤も國司の成敗と爲す可し。

しょうえん をい  は   りょうけ   さた   な     そうもん  へ   せいだんたるべ  のよしさだ  らる    かつう こ  おもむき もっ     ろくはら  おお  らる    うんぬん
庄園に於て者、領家の沙汰と爲し、奏聞を經、聖断爲可き之由定め被る。且は此の趣を以て、六波羅へ仰せ被ると云々。

現代語貞永元年(1232)九月大一日戊寅。京都とその周辺の国、それに九州での領地の境界争いについては、双方が朝廷に属す国衙領の場合は、そりゃ国司の権限に任せよう。庄園の場合は上級荘園監督者の領家の裁断として、朝廷へ申し出て裁決をえるようにと、お決めになりました。又この趣旨を六波羅探題へも通知しましたとさ。

貞永元年(1232)九月大十一日戊子。リ。武州以五十ケ條式條。相副和字御書。被送遣于六波羅。駿河源左衛門尉〃〃爲使者。

読下し                      はれ  ぶしゅう ごじっかじょう  しきじょう もっ     わじ   おんしょ  あいそ     ろくはら に おく  つか  さる
貞永元年(1232)九月大十一日戊子。リ。武州五十ケ條の式條@を以て、和字Aの御書を相副へ、六波羅于B送り遣は被る。

するがげんさえもんのじょうなにがし ししゃたり
 駿河源左衛門尉〃〃 使者爲。

参考@五十ケ條の式條は、御成敗式目。
参考A和字は、かなまじり。非漢文。
参考B六波羅于は、六波羅探題の重時に。

現代語貞永元年(1232)九月大十一日戊子。晴れです。武州泰時さんは、五十か条の御成敗式目をかな交じりの文書を一緒に六波羅へ送られました。駿河左衛門尉なんとかが使者です。

貞永元年(1232)九月大十三日庚寅。雨降。去三日午剋中宮御平産皇女之由。自大相國被申將軍家云々。

読下し                      あめふ    さんぬ みっかうまのこく ちうぐう ごこうじょ   へいさん  のよし  だいそうこくよ   しょうぐんけ  もうさる    うんぬん
貞永元年(1232)九月大十三日庚寅。雨降る。去る三日午剋、中宮@御皇女を平産す之由、大相國A自り將軍家に申被ると云々。

参考@中宮は、頼経姉の竴子。後堀河天皇の中宮。
参考A
大相國は、猪熊関白近衛家實。

現代語貞永元年(1232)九月大十三日庚寅。雨降りです。先日の三日の昼頃に、将軍頼経様姉の中宮が女子を安産したと、大相国猪熊関白近衛家実さまから将軍頼経様に云って来ました。。

貞永元年(1232)九月大十八日乙未。未刻地震。

読下し                      ひつじのこくぢしん
貞永元年(1232)九月大十八日乙未。未刻地震。

現代語貞永元年(1232)九月大十八日乙未。午後二時頃地震です。

貞永元年(1232)九月大廿八日乙巳。御臺所御方違之後。入御幕府。相州。武州被參。故令献盃酒椀飯等給云々。

読下し                      みだいどころ おんかたたが ののち  ばくふ  い   たま    そうしゅう ぶしゅうまいらる
貞永元年(1232)九月大廿八日乙巳。御臺所 御方違へ之後、幕府に入り御う。相州、武州參被る。

ことさら はいしゅおうばんら  けん  せし  たま    うんぬん
 故に盃酒椀飯等を献ぜ令め給ふと云々。

現代語貞永元年(1232)九月大二十八日乙巳。竹御所は、方角変えが終わったので、幕府へ帰って来ました。時房さん・泰時さんも御所へ来て、わざわざお酒と御馳走を献上しましたとさ。

閏九月へ

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