吾妻鏡入門第廿八巻

貞永元年壬辰(1232)十一月

貞永元年(1232)十一月小三日己酉。五大尊堂其地被引始。又被造道路云々。

読下し                    ごだいそんどう そ  ち   ひ   はじ  らる    また  どうろ  つくらる   うんぬん
貞永元年(1232)十一月小三日己酉。五大尊堂 其の地を引き始め被る。又、道路@を造被ると云々。

参考@道路は、明王院入口の二つ橋前の旧六浦道からの直線の参道であろう。

現代語貞永元年(1232)十一月小三日己酉。五大明王を祀る堂の土地に縄張りを引き始めました。又、行き来する道路を造りましたとさ。

貞永元年(1232)十一月小九日乙夘。依可被造御堂詣往之路。自今夜。於其所被祭土公。七ケ日之間。陰陽師相替可勤之云々。

読下し                     みどう けいおうのみち つくらる  べ     よっ    こんや よ     そ  ところ  をい  どくう  まつられ
貞永元年(1232)十一月小九日乙夘。御堂詣往之路を造被る可きに依て、今夜自り、其の所に於て土公を祭被る。

なぬかにち のあいだ おんみょうじ あいかわ これ つと    べ     うんぬん
七ケ日 之間、 陰陽師 相替り之を勤める可きと云々。

現代語貞永元年(1232)十一月小九日乙卯。竹御所祈願のお堂への道を作るため、今夜からその場所で土地神様へのお祈りの土公祭をしました。七日間の間、陰陽師が交代でこれを勤めるようにとの事です。

貞永元年(1232)十一月小十三日己未。依飢饉。可救貧弊民之由。武州被仰之間。矢田六郎左衛門尉既下行九千餘石米訖。而件輩今年無據于弁償之旨。又愁申之。可相待明年糺返之趣。重被仰矢田云々。凡去今年飢饉。武州被廻撫民術之餘。美濃國高城西郡大久礼以上千餘町之乃貢。被停進濟之儀。遣平出左衛門尉。春日兵衛尉等於當國。於株河驛。被施于往反浪人等。於尋縁邊上下向輩者。勘行程日數与旅粮。至稱可止住由之族者。預置于此庄園之間百姓被扶持之云々。

読下し                       ききん  よっ    ひんぺい たみ  すく  べ   のよし ぶしゅうおお  らる  のあいだ
貞永元年(1232)十一月小十三日己未。飢饉に依て、貧弊の民を救う可き之由、武州仰せ被る之間、

やたのろくろうさえもんのじょう すで きゅうせんよこく こめ  げぎょう をはんぬ
 矢田六郎左衛門尉 既に九千餘石の米を下行し 訖。

しか  くだん やから ことしべんしょうに よんどころ な  のむね  またこれ  うれ  もう
而るに件の輩、今年弁償 于 據ろ 無き之旨、又之を愁ひ申す。

みょうねん あいま  ただ  かへ  べ  のおむむき かさ    やた   おお  らる   うんぬん
明年を 相待ち糺し返す可き之趣、 重ねて矢田に仰せ被ると云々。

およ きょこんねん ききん
凡そ去今年 飢饉。

ぶしゅう  ぶみん  すべ  めぐ  さる  のあま    みののくに たかぎにしぐん おおくれ いじょうせんよちょうの のうぐ   しんせいの ぎ  と  られ
武州 撫民の術を廻ら被る之餘り、美濃國 高城西郡 大久礼@以上千餘町之乃貢、進濟之儀を停め被、

ひらいでさえもんのじょう かすがひょうえのじょう らを とうごく  つか     くひぜかわのうまや をい    おうはん ろうにんらに ほどこされ
 平出左衛門尉、 春日兵衛尉 等於當國へ遣はし、 株河驛A に於て、往反の浪人等于施被る。

えんぺんをたず    じょうげこう  やからは  こうてい  にっすう かんが りょりょう  あた
縁邊於尋ねる上下向の輩者、行程の日數を勘へ旅粮を与う。

しじゅうすべ    よし  しょう  のやから  いた    は   かく  しょうえんに あず お  のあいだ ひゃくせうこれ  ふち さる    うんぬん
止住可きの由を稱す之族に至りて者、此の庄園于預け置く之間、百姓之を扶持被ると云々。

参考@大久礼は、岐阜県安八郡輪之内町。大樽庄で、旧下大樽村と下大樽新田が他村と合併して仁木村となり、再度合併して輪之内町となる。
参考A株河驛は、杭瀬川で大垣市赤坂町。

現代語貞永元年(1232)十一月小十三日己未。飢饉のため、貧しく弱って居る民衆を救うようにと、武州泰時さんが仰せになったので、矢田六郎左衛門尉が既に九千余石の米を貸し与えました。しかしながら、今年の返済分の手持ちが無いとなおも嘆き訴えてきました。来年を待って返済するように、重ねて矢田に仰せになりましたとさ。
およそ去年も今年も飢饉です。泰時さんは農民を大事にする策を手立てするあまり、美濃国高城西郡(安八郡)大久礼(輪之内町)などの1000余haの税金の、納付を止め、平出左衛門尉・春日兵衛尉などをその国へ派遣して、株河宿(大垣市赤坂町)で、通る放浪農民に施しをしました。そのあたりを旅する者達に、行き先までの日数に合わせて旅用の食糧(糒と思われる)を与えました。留まって農業をしたいと云う者には、この荘園に預けたので、百姓が面倒を見ましたとさ。

貞永元年(1232)十一月小十六日壬戌。爲御臺所御方違本所。被点信濃民部大夫入道行然家。近日依可被造御堂也。

読下し                      みだいどころ おんかたたが    ほんじょ  な    しなののみんぶたいふにゅうどうぎょうねん  いえ  てん  らる
貞永元年(1232)十一月小十六日壬戌。御臺所、御方違への本所と爲し、 信濃民部大夫入道行然 の家を点じ被る。

きんじつ みどう  つくられ  べ     よっ  なり
近日御堂を造被る可きに依て也。

現代語貞永元年(1232)十一月小十六日壬戌。将軍頼経様の奥さん竹御所は、方角変えのために、出発点として信濃民部大夫入道行然二階堂行盛の家を指定しました。近いうちにお堂を建てるからです。

貞永元年(1232)十一月小十七日癸亥。入夜。御臺所爲御方違。渡御民部大夫入道行然家云々。

読下し                       よ   い    みだいどころ おんかたたが   ため  みんぶたいふにゅうどうぎょうねん いえ  わた  たま     うんぬん
貞永元年(1232)十一月小十七日癸亥。夜に入り、御臺所、御方違への爲、 民部大夫入道行然 の家へ渡り御うと云々。

現代語貞永元年(1232)十一月小十七日壬亥。夜になって、将軍の奥さん竹御所は方角変えのために、民部大夫入道行然二階堂行盛の家へ移りましたとさ。

貞永元年(1232)十一月小十八日甲子。御臺所御願御堂〔大慈寺内〕立柱上棟云々。

読下し                      みだいどころ ごがん  みどう 〔 だいじじない 〕 りちゅうじょうとう うんぬん
貞永元年(1232)十一月小十八日甲子。御臺所御願の御堂〔大慈寺内〕立柱上棟と云々。

現代語貞永元年(1232)十一月小十八日甲子。竹御所のお堂〔大慈寺内〕の柱立て棟上げ式だそうな。

貞永元年(1232)十一月小廿日丙寅。今夜深雪。終夜不休止。

読下し                     こんや しんせつ しゅうや やまず
貞永元年(1232)十一月小廿日丙寅。今夜深雪、終夜休止不。

現代語貞永元年(1232)十一月小二十日丙寅。今夜大雪です。一晩中止みませんでした。

貞永元年(1232)十一月小廿一日丁夘。早旦。將軍家爲覽雪。渡御竹御所。後藤大夫判官供奉。即還御。

読下し                       そうたん  しょぐんけゆき  み   ため  たけごしょ  わた  たま    ごとうのたいふほうがん ぐぶ    すなは  かえ  たま
貞永元年(1232)十一月小廿一日丁夘。早旦。將軍家雪を覽ん爲、竹御所@に渡り御う。後藤大夫判官供奉す。即ち還り御う。

参考@竹御所は、竹御所が住んでいた比企谷(妙本寺)奥に指定。

現代語貞永元年(1232)十一月小二十一日丁卯。早朝に将軍頼経様は、雪見のため、竹御所へ出かけました。後藤大夫判官基綱がお供をして、すぐに帰りました。

貞永元年(1232)十一月小廿三日己巳。陸奥國平泉保吉祥寺燒亡。本尊觀自在菩薩也。希代靈像爲灰燼。是藤原C衡建立梵宇也。

読下し                       むつのくに ひらいずみのほう きっしょうじしょうぼう    ほんぞん  かんじざいぼさつなり  きだい  れいぞう かいじん  な
貞永元年(1232)十一月小廿三日己巳。陸奥國  平泉保 吉祥寺@燒亡す。本尊は觀自在菩薩也。希代の靈像 灰燼と爲す。

これ  ふじわらきよひら こんりゅう ぼんうなり
是、藤原C衡 建立の梵宇也。

参考@吉祥寺は、文治5年(1189)917日条の毛越寺の説明の中に吉祥堂が出てきて、ご本尊様は京都洛北静原の通称小町寺の補陀洛寺の本尊〔観音様〕を模刻したものとある。

現代語貞永元年(1232)十一月小二十三日己巳。東北地方の平泉毛越寺内の吉祥寺が焼けました。本尊は観音様です。世にもまれな霊力の有る像が灰になってしまいました。これは、藤原清衡が建立したお寺です。

貞永元年(1232)十一月小廿八日甲戌。武州爲御當番。今夜令宿侍于御所給。而御共侍持參御莚。不可布御疊之上。昵近于人之者。爭不弁此程之礼哉。尤耻傍輩推察之由被仰。出羽前司。民部大夫入道以下。宿老兩三輩候其所承之。周防前司親實。此事可爲末代美談之由。潜感申之云々。

読下し                       ぶしゅう おとうばん  し     こんや ごしょに すくじ せし  たま    しか   おんとも さむらい おんむしろ じさん
貞永元年(1232)十一月小廿八日甲戌。武州御當番と爲て、今夜御所于宿侍令め給ふ。而して御共の 侍 御莚を持參す。

おんたたみ し  べからずの うえ  ひとに じっきんの もの  いかで このほどのれい わきま ざら  や   もっと ぼうはい  すいさつ  は     のよし  おお  らる
 御疊を布く不可之上、人于昵近之者、爭か此程之礼を弁へ不ん哉。尤も傍輩の推察を耻じる之由、仰せ被る。

ではのぜんじ  みんぶたいふにゅうどう いげ  すくろう りょうさんやから そ  ところ  こう  これ うけたまは
出羽前司、民部大夫入道以下の宿老 兩三輩、 其の所に候じ之を承る。

すおうのぜんじちかざね  かく  こと まつだい  びだん たるべ   のよし  ひそか これ  かん  もう    うんぬん
周防前司親實、 此の事 末代の美談爲可き之由、潜に之を感じ申すと云々。

現代語貞永元年(1232)十一月小二十八日甲戌。泰時さんは当番なので、今夜は御所の侍所に宿直です。そしたらお供の侍が筵(むしろ)を持ってきました。畳を敷かないばかりか、「人のそばに仕える者が、どうしてこのくらいの礼儀を分別出来ない事があろうや。本当は同僚からの思惑批判を恥じるべきであろう。」とおっしゃいました。出羽前司中条家長・民部大夫入道行然二階堂行盛などの長老が二・三人その場所に居て、これを聞きました。周防前司中原親実は、こりゃ子々孫々まで伝えるべき良い話だと小さな声で感動を云いましたとさ。

参考畳や筵を敷くのは、居眠りを前提にするので、寝ずの番がそれを用意するのは不心得だとを云っているのだろうか?

貞永元年(1232)十一月小廿九日乙亥。早旦雪聊降。庭上偏似霜色。將軍家爲覽林頭。渡御永福寺。御水干。御騎馬也。武州自去夜未退出給。即扈從給。式部大夫。陸奥五郎。加賀守康俊。大夫判官基綱。左衛門尉定員。都築九郎經景。中務丞胤行。波多野次郎朝定已下。撰召携和哥之輩。爲御共。於寺門邊。卿僧正快雅參會。入御釣殿。有和歌御會。但雪氣變雨脚之間。餘興未盡還御。而於路次。基綱申云。雪爲雨無全云々。武州令聞之給。被仰云。
 あめの志たにふればぞ雪の色もみる
   基綱 みかさの山をたのむかげとて云々。
今日。六波羅成敗法十六ケ條。被仰下之云々。

読下し                       そうたん ゆきいささ ふ    ていじょう ひとへ しもいろ  に     しょうぐんけりんとう  み   ため  ようふくじ  わた  たま
貞永元年(1232)十一月小廿九日乙亥。早旦 雪聊か降る。庭上 偏に霜色に似たり。將軍家林頭を覽ん爲、永福寺へ渡り御う。

ごすいかん  おんきばなり   ぶしゅうさんぬ よ よ   いま  たいしゅつ たま     すなは こしょう  たま
御水干、御騎馬也。武州去る夜自り未だ退出し給はず。即ち扈從し給ふ。

しきぶのたいふ  むつのごろう   かがのかみやすとし  たいふほうがんもとつな  さえもんのじょうさだかず  つづきのくろうつねかげ  なかつかさのじょうたねゆき
式部大夫、陸奥五郎、 加賀守康俊、 大夫判官基綱、 左衛門尉定員、 都築九郎經景、 中務丞胤行、

はたののじろうともさだ いげ わか   かか   のやから  えら  め     おんとも  な     じもんあた    をい    きょうのそうじょうかいが さんかい
波多野次郎朝定已下、和哥に携はる之輩を撰び召し、御共と爲す。寺門邊りに於て、卿僧正快雅 參會す。

つりどの  い   たま     わか   おんえ あ     ただ  せっけ  うきゃく  へん    のあいだ  よきょういま  つく        かえ  たま
釣殿に入り御う。和歌の御會有り。但し雪氣、雨脚に變ずる之間、餘興未だ盡さざるに還り御う。

しか    ろじ   をい    もとつなもう    い       ゆき  あめ  ためまっと な    うんぬん  ぶしゅうこれ  き   せし  たま    おお  られ  い
而して路次に於て、基綱申して云はく。雪、雨の爲全う無しと云々。武州之を聞か令め給ひ、仰せ被て云はく。

    雨  の  下  に 降 れ ば ぞ ゆき いろ も 見 る
 あめの志たにふればぞ雪の色もみる

      もとつな   三笠  の やま を 頼 む  影 と て     うんぬん
   基綱 みかさの山をたのむかげとて 云々。

 きょう    ろくはら   せいばいほう じうろっかじょう  これ  おお  くださる    うんぬん
今日、六波羅に成敗法 十六ケ條、之を仰せ下被ると云々。

現代語貞永元年(1232)十一月小二十九日乙亥。早朝に雪が少し降りました。庭は霜が降ったようです。将軍頼経様は林の雪模様を見るために永福寺へお出でになりました。水干を来て乗馬です。泰時さんは夕べ宿直で、未だ帰っていなかったので、すぐにお供をしました。式部大夫北条政村・陸奥五郎北条実泰・加賀守町野康俊・大夫判官後藤基綱・左衛門尉藤原定員・都築九郎経景(都筑)・中務丞東胤行・波多野次郎朝定を始めとする和歌に通じている連中を選んで呼び、お供にしました。寺の門で卿僧正快雅がお迎えして、釣殿へ入りました。和歌の会がありました。但し、雪は雨になってしまったので、楽しみが終わらないうちにお帰りです。そして、帰りの道すがら、後藤基綱が「雪が雨になってしまったので、折角の歌会が完了しませんでしたね。」と云うと、武州北条泰時さんがこれを聞いて「雨の下に降ればぞ雪の色も見る」と云うと、後藤基綱は「三笠の山を頼む影とて」と返したそうです。」(和歌の意味って分かりませんね?雨が降ったからこそ雪の色をかんじられたのです、雪と云えば三笠の山を思い出しますね?)

今日、裁判の法16条を伝えられましたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第廿八巻

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