吾妻鏡入門第廿九巻

貞永二年癸巳(1233)正月大

貞永二年(1233)正月大一日丙午。垸飯〔相州御沙汰〕。御劔〔民部權少輔〕。御弓箭〔近江前司信綱〕。御行騰沓〔佐原三郎左衛門尉家連〕。
 一御馬〔置鞍〕式部大夫     陸奥五郎
 二御馬    相摸四郎     同六郎
 三御馬    上野七郎     同五郎
 四御馬
 五御馬    本間太郎左衛門尉 同三郎左衛門尉

読下し                   おうばん 〔そうしゅう    ごさた  〕   ぎょけん 〔みんぶごんのしょうゆう〕  おんゆみや 〔おうみのぜんじのぶつな〕
貞永二年(1233)正月大一日丙午。垸飯〔相州が御沙汰〕。御劔〔民部權少輔〕。御弓箭〔近江前司信綱〕

おんむかばき くつ 〔さはらのさぶろうさえもんのじょうえいえつら〕
御行騰 沓〔佐原三郎左衛門尉家連〕

  いちのおんうま 〔くら  お  〕 しきぶのたいふ         むつのごろう
 一御馬〔鞍を置く〕式部大夫     陸奥五郎     参考常磐流北条政村と金沢流北条實泰

  にのおんうま          さがみのしろう           おなじきろくろう
 二御馬     相摸四郎     同六郎     参考大仏流北条朝直と時定

  さんのおんうま         こうづけのしちろう         おなじきごろう
 三御馬     上野七郎     同五郎     参考結城朝廣と重光。

  しのおんうま
 四御馬

  ごのおんうま          ほんまのじろうさえもんのじょう  おなじきさぶろうさえもんのじょう
 五御馬     本間太郎左衛門尉 同三郎左衛門尉 参考忠貞と元忠(本間@は時房流の被官化)

参考@本間家は、時房の代官として佐渡へ、後に庄内高田へ分家し財をなし「本間様にはおよびもせぬがせめてなりたや殿様に」と詠われる。

現代語貞永二年(1233)正月大一日丙午。将軍(頼経16才)への御馳走のふるまいは、相州北条時房さんの献上です。刀の献上は民部権少輔源親広。弓矢の献上は近江前司佐々木信綱。乗馬袴(ローハイド)と乗馬沓の献上は佐原三郎左衛門尉家連。引き出物の馬は
 
頭目が、式部大夫北条政村   陸奥五郎北条実泰。〔鞍を乗せる〕
 2頭目は、相模四郎北条朝直   同六郎北条時定。
 3頭目は、上野七郎結城朝広   同五郎結城重光。
 4頭目は、不明。
 5頭目は、本間太郎左衛門尉忠貞 同三郎左衛門尉本間元忠。

貞永二年(1233)正月大二日丁未。垸飯〔武州沙汰〕。御劔〔式部大夫。布衣〕。御弓箭〔上野介朝光〕。御行騰沓〔出羽前司家長〕。
 一御馬    相摸五郎     同六郎
 二御馬    隱岐三郎左衛門尉 同四郎左衛門尉
 三御馬    信濃左衛門尉   同左近將監
 四御馬    近江太郎左衛門尉 同三郎兵衛尉
 五御馬    越後太郎     同四郎

読下し                   おうばん 〔ぶしゅう    さた   〕  ぎょけん 〔しきぶのたいふ   ほい  〕   おんゆみや 〔こうづけのすけともみつ〕
貞永二年(1233)正月大二日丁未。垸飯〔武州が沙汰〕。御劔〔式部大夫。布衣〕。御弓箭〔上野介朝光〕

おんむかばき くつ 〔ではのぜんじいえなが〕
御行騰 沓〔出羽前司家長〕

  いちのおんうま      さがみのごろう           おなじきろくろう
 一御馬    相摸五郎     同六郎

  にのおんうま       おきのさぶろうさえもんのじょう  おなじきしろうさえもんのじょう
 二御馬    隱岐三郎左衛門尉 同四郎左衛門尉

  さんのおんうま      しなののさえもんのじょう      おなじきさこんしょうげん
 三御馬    信濃左衛門尉   同左近將監

  しのおんうま       おうみののたろうさえもんのじょう おなじきさぶろうひょうえのじょう
 四御馬    近江太郎左衛門尉 同三郎兵衛尉

  ごのおんうま       えちごのたろう           おなじきしろう
 五御馬    越後太郎     同四郎

現代語貞永二年(1233)正月大二日丁未。将軍(頼経14才)への御馳走のふるまいは、武州北条泰時さんの献上です。刀の献上は式部大夫北条政村〔狩衣〕。弓矢は上野介結城朝光。乗馬袴と沓は出羽前司中条家長。引き出物の馬は、
 
1頭目の馬は、相模五郎北条時直      同六郎。
 2頭目の馬は、隠岐三郎左衛門尉二楷堂行義 同四郎左衛門尉二階堂行久。
 3頭目の馬は、信濃左衛門尉二階堂行泰   同左近将監。
 4頭目の馬は、近江太郎左衛門尉佐々木重綱 同三郎兵衛尉。
 5頭目の馬は、越後太郎名越流北条光時   同四郎北条時幸。

貞永二年(1233)正月大三日戊申。垸飯。越州沙汰。御釼式部大夫。御弓箭近江前司。御行騰沓攝津左衛門尉爲光。
 一御馬    越後太郎     本庄左衛門尉
 二御馬    越後二郎     河原田太郎左衛門尉
 三御馬    越後三郎     河原田藤内左衛門尉
 四御馬    越後四郎     小伊手太郎左衛門尉
 五御馬    久下拯源内    同三郎

読下し                   おうばん  えつしゅう  さた   ぎょけん しきぶのたいふ  おんゆみや  おうみのぜんじ
貞永二年(1233)正月大三日戊申。垸飯。越州が沙汰。御釼は式部大夫。御弓箭は近江前司。

おんむかばき くつ せっつのさえもんのじょうためみつ
御行騰 沓は攝津左衛門尉爲光。

  いちのおんうま       えちごのたろう           ほんじょうさえもんのじょう
 一御馬    越後太郎     本庄左衛門尉

  にのおんうま        えちごのじろう           かはらだのたろうさえもんのじょう
 二御馬    越後二郎     河原田太郎左衛門尉

  さんのおんうま       えちごのさぶろう          かはらだとうないさえもんのじょう
 三御馬    越後三郎     河原田藤内左衛門尉

  しのおんうま        えちごのしろう           こいでのたろうさえもんのじょう
 四御馬    越後四郎     小伊手太郎左衛門尉

  ごのおんうま        くげのじょうげんない       おなじきさぶろう
 五御馬    久下拯源内    同三郎

現代語貞永二年(1233)正月大三日戊申。将軍(頼経14才)への御馳走のふるまいは、越州名越流北条朝時さんの献上です。刀の献上は式部大夫北条政村。弓矢は近江前司佐々木信綱。乗馬袴と沓は、摂津左衛門尉狩野為光。引き出物の馬は、
 
1頭目の馬は、越後太郎北条光時 本庄左衛門尉時家
 2頭目の馬は、越後二郎北条時章 河原田太郎左衛門尉
 3頭目の馬は、越後三郎北条時長 河原田藤内左衛門尉
 4頭目の馬は、越後四郎北条時幸 小出太郎左衛門尉
 5頭目の馬は、久下丞源内    同三郎

貞永二年(1233)正月大十三日戊午。武州參右大將家法花堂給。今日依爲御忌月也。到彼砌。布御敷皮於堂下坐給。御念誦移剋。此間。別當尊範令參會。可有御堂上之由。頻雖申之。御在世之時。無左右不參堂上。薨御之今。何忘礼哉之由被仰。遂自庭上令歸給云々。

読下し                     ぶしゅう   うだいしょうけ    ほけどう   まい  たま    きょう  おんいみづけ たる  よっ  なり
貞永二年(1233)正月大十三日戊午。武州、右大將家の法花堂@に參り給ふ。今日 御忌月A爲に依て也。

 か  みぎり  いた   おんしきがわを どうした  し   すは  たま   ごねんしょう  とき  うつ
彼の砌に到り、御敷皮於 堂下に布き坐り給ふ。御念誦 剋を移す。

かく あいだ べっとうそんはん さんかいせし   ごどうじょう  あ   べ   のよし   しき    これ  もう    いへど   ございせいの とき   そう な   どうじょう  まい    ず
此の間、別當尊範 參會令め、御堂上に有る可き之由、頻りに之を申すと雖も、御在世之時、左右無く堂上に參られ不。

 こうごのいま   なにれい  わす    や のよしおお  らる    つい  ていじょうよ  かえ  せし  たま    うんぬん
薨御之今、何礼を忘れん哉之由仰せ被る。遂に庭上自り歸ら令め給ふと云々。

参考@法花堂は、神奈川県鎌倉市西御門二丁目5−2頼朝墓の位置。
参考A
御忌月は、命日で1199年1月13日。

現代語貞永二年(1233)正月大十三日戊午。武州北条泰時さんは、右大将家頼朝様の法華堂へお参りしました。今日は祥月命日だからです。そのお堂のそばへ行き、敷物用の毛皮を堂の前に敷いて、お経を上げました。この時に、法華堂筆頭の尊範がそばへ来て、お堂の中へお上がり下さいと、何度もお勧めしましたが、「ご本人の在世中も簡単に堂の中へは入りませんでした。亡くなられた今、なんでその礼儀を忘れましょうや。」とおっしゃられて、とうとう庭で済ませてお帰りになりましたとさ。

二月、三月欠 四月へ

吾妻鏡入門第廿九巻

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