吾妻鏡入門第廿九巻

天福元年(貞永二年)癸巳(1233)四月大十五日改元

天福元年(1233)四月大十五日己丑。霽。隱岐三郎左衛門尉自京都皈參。去月廿九日。大殿春日詣無爲遂御。今月三日中宮院号〔藻壁門〕宣下由申之。

読下し                     はれ  おきのさぶろうさえもんのじょう きょうとよ  きさん    さんぬ つきにじうくにち おおとの かすがもうで ぶい   と   たま
天福元年(1233)四月大十五日己丑。霽。隱岐三郎左衛門尉京都自り皈參す。去る月廿九日、大殿@春日詣A無爲に遂げ御う。

こんげつみっかちうぐう  いんごう 〔そうへきもん〕 せんげ  よし  これ  もう
今月三日中宮Bの院号〔藻壁門C宣下の由、之を申す。

参考@大殿は、九条道家で頼経将軍の父親。
参考A
春日詣は、藤原氏の神社、春日大社へ氏の長者(藤原氏総本家)として詣でる事。
参考B中宮は、
平安中期以降、皇后より後から入内(じゆだい)した、天皇の妃。身分は皇后と同じ。Goo電子辞書から。ここは後堀河天皇の中宮竴子(1209-1233)
参考C藻壁門は、平安京大内裏外郭十二門の一。西側にある三門の中央。西中御門(にしなかのみかど)大路に向かって開く。佐伯門。Goo電子辞書から

現代語天福元年(1233)四月大十五日己丑。晴れました。隠岐三郎左衛門尉二階堂行義が京都から帰って来ました。先月29日大殿九条道家様が春日大社へのお参りを無事に終えました。今月三日中宮竴子さんに院の名〔藻壁門院〕が与えられたと報告しました。

天福元年(1233)四月大十六日庚寅。大風以前出擧者。不論上下親踈。停止一倍。以五把利可爲一倍之由被定。遍爲令下知諸國。差定奉行人。被注遣六波羅云々。
一手
 宗監物孝尚〔十ケ國〕
  尾張 伊勢 伊賀 美濃 近江 若狹 攝津 河内 飛騨 越前
一手
 治部丞宗成〔九ケ國〕
  山城 丹波 丹後 但馬 因幡 出雲 石見 長門 伯耆
一手
 左衛門尉明定〔十一ケ國〕

読下し                     おおかぜ いぜん すいこ は   じょうげしんそ  ろん  ず   いちばい  ちょうじ
天福元年(1233)四月大十六日庚寅。大風@以前の出擧者、上下親踈を論ぜ不、一倍Aを停止し、

 ごは   り   もっ  いちばい  な   べ   のよし  さだ  らる
五把の利Bを以て一倍と爲す可き之由、定め被る。

ひと    しょこく   げち せし    ため  ぶぎょうにん  さ   さだ    ろくはら  ちう  つか  さる    うんぬん
遍へに諸國へ下知令めん爲、奉行人を差し定め、六波羅へ注し遣は被ると云々。

いって
一手

  そうのけんもつたかなお 〔じっかこく〕
 宗監物孝尚 〔十ケ國〕

    おはり   いせ    いが    みの   おうみ   わかさ   せっつ   かはち   ひだ   えちぜん
  尾張 伊勢 伊賀 美濃 近江 若狹 攝津 河内 飛騨 越前

いって
一手

  じぶのじょうむねなり 〔きゅうかこく〕
 治部丞宗成〔九ケ國〕

    やましろ  たんば  たんご   たじま   いなば   いずも   いわみ   ながと   ほうき
  山城 丹波 丹後 但馬 因幡 出雲 石見 長門 伯耆

いって
一手

  さえもんのじょうあきさだ 〔じういっかこく〕
 左衛門尉明定〔十一ケ國〕

    はりま   みまさか  びぜん  びっちゅう  あき    いよ     とさ     あは   あはじ   きい   いずみ
  播磨 美作 備前 備中 安藝 伊与 土佐 阿波 淡路 紀伊 和泉

参考@大風は、二十七巻寛喜二年(1230)八月八日条の大風らしい。
参考A一倍は、利息が同額の100%。なので倍返しになる。
参考B五把の利は、一束につき五把の利息(50%)。一把は穂摘みで第一指と二指で作った輪。十把で一束。一束は玄米で五升、白米にすると二升。

現代語天福元年(1233)四月大十六日庚寅。台風前の種もみの貸し出しは、身分の上下、貸借者と近しいか疎遠かを問わず、倍返しを止めて、一束に付き五把(五割)の利子を倍返しとみなす、と決めました。これを全国へ命令するために。指示担当者を指名して六波羅へ書き送りましたとさ。

一人は、宗監物筑前三郎孝尚〔十か国〕尾張・伊勢・伊賀・美濃・近江・若狭・摂津・河内・飛騨・越前
                  (愛知・三重・三重・岐阜・滋賀・福井・大阪・大阪・岐阜・福井)

一人は、治部丞宗成〔九か国〕山城・丹波・但馬・因幡・出雲・石見・長門・伯耆
             (京都・京都・兵庫・鳥取・島根・島根・山口・鳥取)

一人は、左衛門尉坂上明定〔十一か国〕播磨・美作・備前・備中・安芸・伊予・土佐・阿波・淡路・紀伊・和泉
               (兵庫・岡山・岡山・岡山・広島・愛媛・高知・徳島・兵庫・和歌山・大阪)

天福元年(1233)四月大十七日辛夘。霽。將軍家并御臺所入御武州御亭。彼東壷夘花瞿麥等花盛也。仍有御連歌。相摸三郎入道眞昭。式部大夫〔政〕式部大夫親行。大夫判官基綱。都築九郎經景等應召參上。親行献秀句「也」之間。直賜御劍。及曉更還御。六位八人取松明。

読下し                     はれ  しょうぐんけなら   みだいどころ  ぶしゅう  おんてい  い   たま
天福元年(1233)四月大十七日辛夘。霽。將軍家并びに御臺所、武州の御亭へ入り御う。

か  ひがしつぼ  うのはな  なでしこら はなさか  なり  よっ  ごれんが あ
彼の東壷に夘花、瞿麥等花盛り也。仍て御連歌有り。 

さがみのさぶろうにゅうどうしんしょう  しきぶのたいふ 〔まさ〕   しきぶのたいふちかゆき  たいふほうがんもとつな  つづきのくろうつねかげら め   おう  さんじょう
相摸三郎入道眞昭、 式部大夫〔政〕部大夫親行、 大夫判官基綱、 都築九郎經景等召しに應じ參上す。

ちかゆき  しゅうく  けん    のあいだ  じき  ぎょけん  たま     ぎょうこう  およ  かえ  たま    ろくい  はちにんたいまつ を
親行、秀句を献ずる之間、直に御劍を賜はる。曉更に及び還り御う。六位の八人松明を取る。

現代語天福元年(1233)四月大十七日辛卯。晴れました。将軍頼経様と竹御所は、泰時さんの屋敷へ入りました。そこの東の坪庭に卯の花や瞿麦(撫子ナデシコ)が花の盛りです。そこで連歌がありました。相模三郎真昭(北条資時)・式部大夫北条政村・式部大夫源親行・大夫判官後藤基綱・都築九郎経景などが呼ばれてやって来ました。親行が優秀な句を詠んだので、直接刀を褒美に与えられました。暁に変えられました。六位の八人が松明を持ちました。

天福元年(1233)四月大廿三日丁酉。霽。改元詔書到着。去十五日改貞永二年爲天福元年。大藏卿爲長卿撰進之云々。

読下し                     はれ  かいげん しょうしょとうちゃく   さんぬ じうごにち じょうえいにねん  あらた てんぷくがんねん な
天福元年(1233)四月大廿三日丁酉。霽。改元の詔書 到着す。去る十五日 貞永二年を改め 天福元年と爲す。

おおくらきょうためながきょう これ  えら  すす    うんぬん
大藏卿爲長卿 之を撰び進むと云々。

現代語天福元年(1233)四月大二十三日丁酉。晴れました。改元の公文書が届きました。先日の15日に貞永元年を変えて、天福元年にしました。大蔵大臣の菅原為長さんが選んで進上したそうです。

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