吾妻鏡入門第廿九巻

天福元年癸巳(1233)十二月小

天福元年(1233)十二月小十二日壬午。陰。於南御堂。被供養八万四千基塔。導師内大臣僧都定親〔弁僧正弟子。通親卿息〕開眼咒願弁僧正定豪。將軍家御出〔御直垂〕御臺所御同車。相州。武州參給。

読下し                      くも    みなみみどう  をい    はちまんよんせんき  とう  くよう さる
天福元年(1233)十二月小十二日壬午。陰り。南御堂に於て、八万四千基の塔を供養被る。

どうし  ないだいじんそうづていしん 〔べんのそうじょう  でし  みちちかきょうそく〕  かいげん しゅがん べんのそうじょうていごう
導師は内大臣僧都定親〔弁僧正が弟子。通親卿息〕開眼 咒願は@弁僧正定豪。 

しょうぐんけおんいで 〔おんひたたれ〕  みだいどころごどうしゃ  そうしゅう  ぶしゅうさん  たま
將軍家御出〔御直垂〕。 御臺所御同車。相州、武州參じ給ふ。

参考@咒願は、僧が施主(せしゆ)の幸福などを祈願すること。

現代語天福元年(1233)十二月小十二日壬午。曇りです。南御堂勝長寿院で、八万四千基の泥塔を奉納する法要をしました。指導僧は、内大臣僧都定親〔弁僧正定豪の弟子僧で、源通親さんの子〕。泥塔の開眼供養と施主のための祈願は弁僧正定豪です。将軍頼経様の出席〔直垂〕。奥さんの竹御所は牛車に同乗。相州時房さん・武州泰時さんも来ました。

天福元年(1233)十二月小廿八日戊戌。リ。將軍家〔御布衣〕爲御方違。入御竹御所。御臺所御同車云々。

読下し                      はれ  しょうぐんけ 〔おん ほい 〕 おんかたたが   ため  たけごしょ  い   たま    みだいどころごどうしゃ  うんぬん
天福元年(1233)十二月小廿八日戊戌。リ。將軍家〔御布衣〕御方違への爲、竹御所に入り御う。御臺所御同車と云々。

現代語天福元年(1233)十二月小二十八日戊戌。晴れです。将軍頼経様〔狩衣〕方角変えのために、竹御所へ入りました。奥さんも同乗だそうな。

天福元年(1233)十二月小廿九日己亥。陸奥五郎子息小童〔歳十〕。於武州御亭元服。号太郎實時。如駿河前司在座。一事以上。亭主御經營也。即又爲加冠。是非兼日之搆。有所存俄及此儀之由。被仰云々。

読下し                       むつのごろう   しそく しょうどう 〔としとお〕   ぶしゅう  おんてい  をい  げんぷく    たろうさねとき  ごう
天福元年(1233)十二月小廿九日己亥。陸奥五郎が子息の小童〔歳十〕。武州の御亭に於て元服す。太郎實時と号す。

するがのぜんじ  ごと  ざ   あ   ひとつこといじょう  てい あるじ ごけいえいなり  すなは また かかんたり
駿河前司の如き座に在り。一事以上@、亭の主の御經營也。即ち又加冠爲A

これ  けんじつのかま   あらず  しょぞんあ    にはか かく  ぎ   およ  のよし  おお  らる    うんぬん
是、兼日之搆へに非B。所存有りて俄にC此の儀に及ぶ之由、仰せ被ると云々。

参考@一事以上は、全部。
参考A即ち又加冠爲は、泰時が烏帽子親で、実親から実の字を、冠親から時の字を貰ったものであろう。
参考B兼日之搆へに非は、予定はしていなかったが。
参考C
俄には、急に。

現代語天福元年(1233)十二月小二十九日己亥。陸奥五郎実泰の小さな子供〔10歳〕が、武州泰時さんの屋敷で元服式を行いました。太郎実時と名付けました。駿河前司三浦義村などが、同席しました。式の全てを泰時さんの負担で済ませました。もちろん冠をかぶせる加冠親をしました。このことは、前もって予定はしていなかったのですが、思う所があって急にこの式を行ったと、云っておられるそうな。

天福二年正月へ

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