吾妻鏡入門第廿九巻

天福二年甲午(1234)三月大

天福二年(1234)三月大一日己亥。今日。御臺所御着帶也。午剋有其儀

読下し                    きょう  みだいどころ ごちゃくたいなり  うまのこく そ   ぎ あ
天福二年(1234)三月大一日己亥。今日。御臺所 御着帶也。 午剋 其の儀有り。

現代語天福二年(1234)三月大一日己亥。今日は、将軍の奥さんの竹御所さんが、妊娠5か月目の腹帯(岩田帯)を初めて着用するそのお祝いです。昼頃にその儀式がありました。

天福二年(1234)三月大五日癸卯。武州孫子〔匠作嫡男。歳十一〕於御所。被加首服。相州〔布衣〕。武州〔同〕。越後守。式部大夫〔政|〕。前民部權少輔。攝津守師員。駿河前司義村。出羽前司家長。大夫判官基綱。上野介朝光等着西侍。若公〔水干〕同侍南座。有小時。以藤内左衛門尉定員。被召之。若公被參于寢殿西向簾中。其後應召。武州參給。式部大夫。前民部權少輔。左近大夫將監佐房。左衛門尉大夫泰秀。右馬權助仲能等勤所役。次理髪相州。次御加冠。号北條弥四郎經時。次八條少將取御釼。授新冠。賜之退出于休所。次兩國司已下人々着座庭上。將軍家出御南面。八條少將實C朝臣候御簾。次被進御引出物。御釼。御鎧。御馬等云云。其後被垂御簾。新冠已下人々。又堂上有垸飯儀。一如元三。武州退出之後。被引進龍蹄於相州。平左衛門尉盛綱爲御使。又以尾藤左近將監入道。諏方兵衛尉等。今日役人面々。被賀仰云々。

読下し                   ぶしゅう   まご   〔しょうさく ちゃくなん  としじういち 〕  ごしょ  をい    しゅふく  くは  らる
天福二年(1234)三月大五日癸卯。武州が孫子〔匠作が嫡男。歳十一〕御所に於て、首服を加へ被る。

そうしゅう 〔 ほい 〕   ぶしゅう 〔どう〕    えちごのかみ  しきぶのたいふ 〔まさむら〕  さきのみんぶごんのしょうゆう  せっつのかみもろかず するがのぜんじよしむら
相州〔布衣〕、武州〔同〕、越後守、式部大夫〔政|〕、 前民部權少輔、 攝津守師員、 駿河前司義村、 

ではぜんじいえなが  たいふほうがんもとつな  こうづけのすけともみつら にし さむらい つ     わかぎみ 〔すいかん〕 おな  さむらい みなみざ
出羽前司家長、大夫判官基綱、 上野介朝光等 西の 侍に着く。若公〔水干〕同じく侍の 南座。

しばらくあ     とうないさえもんのじょうさだかず  もっ    これ  めさる
小時有りて、藤内左衛門尉定員を以て、之を召被る。

わかぎみ しんでん  ぬしむき れんちうにまいらる    そ   ご めし  おう    ぶしゅうさん  たま
 若公 寢殿の西向の簾中于參被る。其の後召に應じ、武州參じ給ふ。

しきぶのたいふ  さきのみんぶごんのしょうゆう さこんたいふしょうげんすけふさ さえもんのじょうたいふやすひで  うまごんのすけなかよしら しょえき  つと
式部大夫、 前民部權少輔、 左近大夫將監佐房、 左衛門尉大夫泰秀、 右馬權助仲能等 所役を勤む。

つぎ  りはつ  そうしゅう  つぎ  ごかかん  ほうじょういやしろうつねとき  ごう
次に理髪は相州。次に御加冠。北條弥四郎經時と号す@

つぎ  はちじょうしょうしょう ぎょけん と     しんかん  さず    これ  たま    やすみどころにたいしゅつ
次に 八條少將 御釼を取り、新冠に授く。之を賜はり、休所于退出す。

つぎ りょうこくし いげ   ひとびとていじょう ちゃくざ   しょうぐんけなんめん  い   たま    はちじょうしょうしょうさねきよあそん おんみす そうら
次に兩國司已下の人々庭上に着座す。將軍家南面に出で御う。 八條少將實C朝臣 御簾に候う。

つぎ  おんひきでもの すす  らる    ぎょけん おんよろい おんうまら  うんぬん
次に御引出物を進め被る。御釼、御鎧、御馬等と云云。

 そ  ご おんみす たれらる   しんかん いげ  ひとびと  またどうじょう おうばん  ぎ あ     いち  がんさん  ごと
其の後御簾を垂被る。新冠已下の人々、又堂上に垸飯の儀有り。一に元三の如し。

ぶしゅう たいしゅつののち りゅうていを そうしゅう ひ   すす  らる   へいさえもんのじょうもりつな おんしたり
武州 退出之後、龍蹄於 相州に引き進め被る。平左衛門尉盛綱 御使爲。

また  びとうのさこんしょうげんにゅうどう  すわのひょうのじょうら   もっ    きょう  えき  ひとめんめん    が   おお  らる    うんぬん
又、 尾藤左近將監入道、 諏方兵衛尉等を以て、今日の役の人面々に、賀し仰せ被ると云々。

現代語天福二年(1234)三月大五日癸卯。泰時さんの孫〔匠作時氏さんの長男で11歳〕を御所で元服式を行いました。時房さん〔狩衣〕、泰時さん〔同じ〕、越後守朝時、式部大夫政村、前民部権少輔源親広、摂津守中原師員、駿河前司三浦義村、出羽前司中条家長、大夫判官後藤基綱、上野介結城朝光などが、西の侍所に着席しました。若君〔水干〕は同じ侍所の南側に座りました。少したって、寝殿の西向いの御簾の中へ行きました。泰時さんも行きました。政村・親広・左近大夫将監大江佐房・左衛門尉大夫長井泰秀・右馬権助伊賀仲能たちが、それぞれの役目を勤めます。子供髪を切り落とす役は時房さん。そして(時房さんが将軍の代理で)冠を頭にのせて元服し名を北条弥四郎経時と名付けました(経の字は将軍から与えた)。次に八条少将実清さんが将軍からの刀を持って新成人に与えました。これを受け取り、休憩室へ下がり出ました。
次に、時房さん・泰時さんはじめの人々は、寝殿前の庭に座りました。将軍頼経様は寝殿の南面にお出ましです。八条少将実清が御簾を巻き上げました。次に将軍からの引き出物を出しました。刀・鎧・馬などだそうな。
その後、御簾を垂らしました。新成人を始めとする人々は、宴会場で御馳走のふるまいがありました。それはまるで正月の三が日のようです。
泰時さんは、屋敷へ引き下がった後で、馬を時房さんに送りました。平三郎左衛門尉盛綱が使いです。又、尾藤左近将監入道景綱・諏訪兵衛尉盛重に命じて、今日の諸役の人々にお礼を伝えましたとさ。

解説@北條弥四郎經時と号すは、時政が四郎・義時が小四郎だったので、経時を四郎の四郎として弥四郎と位置付けている。

天福二年(1234)三月大十日戊申。大藏卿〔爲長卿〕献書状於武州。今日到來。相副一巻記於件状。武州令持參御所給。師員於御前讀申之。其記云。北野回祿事。有仗儀。爲長賜長門。來八月以前。寳殿可奉造畢之由 宣下。又炎上翌日夜。大宮中納言〔實有卿〕夢想之告。天神有四韻御作。覺七字計覺悟之。昨林中火扇凉風云々。又去二月比。南都天狗現恠。一夜中。於人家千餘宇書三字〔未來不云々〕。匪短慮之所覃。尤爲奇恠云々。

読下し                   おおくらきょう〔ためながきょう〕 しょじょうをぶしゅう  けん    きょうとうらい
天福二年(1234)三月大十日戊申。大藏卿〔爲長卿〕書状於武州に献ず。今日到來す。

いっかん  き を くだん じょう  あいそ    ぶしゅう ごしょ   じさん せし  たま    もろかず ごぜん  をい  これ  よ   もう    そ   き   い
一巻の記於件の状に相副へ、武州御所へ持參令め給ふ。師員御前に於て之を讀み申す。其の記に云はく。

きたの かいろく  こと  じょうぎあ    ためなが ながと  たま      きた  はちがついぜん   ほうでん ぞうひつ たてまつ べ   のよしせんげ
北野回祿の事、仗儀有り。爲長長門を賜はり、來る八月以前に、寳殿 造畢し奉る可し之由宣下す。

また  えんじょう よくじつ  よ   おおみやちうなごん 〔さねありきょう〕 むそうのつげ    てんじんしいん  おんさくあ     さ     しちじばか  これ  かくご
又、炎上の翌日の夜、大宮中納言〔實有卿〕@夢想之告に、天神四韻Aの御作有り。覺めて七字計り之を覺悟す。

さくりんちうかりょうふう  あお    うんぬん
昨林中火凉風を扇ぐと云々。

またさんぬ にがつ  ころ  なんと  てんぐあやし あらは   いちやじう     じんか  せんよう  をい  さんじ 〔いまだきたらず うんぬん〕   か
又去る二月の比、南都に天狗恠を現し、一夜中に、人家千餘宇に於て三字〔未來不と云々〕を書く。

たんりょの およ  ところ あらず  もっと きっかい  な     うんぬん
短慮之覃ぶ所に匪。 尤も奇恠を爲すと云々。

参考@大宮中納言実有は、一条実有。西園寺公経が子。清水谷家祖。
参考A四韻は、四声と同じで、四つの韻をもつ8句の律詩。漢字の韻による4種の区別。音の高低と長短の複合により、平声・上声・去声・人声に分類。

現代語天福二年(1234)三月大十日戊申。大蔵大臣〔菅原為長卿〕が手紙を泰時さんに差し出したのが、今日届きました。一巻の記録書をその手紙と一緒に武州北条泰時さんが御所へ持って来ました。摂津守中原師員が将軍の前で読み上げました。その記録には「北野神社の火事について、政務評議会がありました。為長が長門の国を与えられ、そこからの年貢で、来る八月前に寝殿を建設するように、天皇から命じられました。又、火事の翌日の夜に、大宮大納言〔一条実有さん〕が夢のお告げで、天神が四声の句を作られました。夢から覚めて七文字を覚えております。作林中火涼風を扇ぐだそうな。又、先月の二月に、奈良の天狗が不思議を表したのは、一夜に人家千戸以上に三文字〔いまだに来ないのだそうな〕を書いたのです。人の推測も及びませんで、とてもあやしいことだ。」との事です。

天福二年(1234)三月大廿二日庚申。大納言阿闍梨隆弁始參御所。召入見參云々。去六日自本寺下着。

読下し                     だいなごんあじゃりりゅうべん はじ    ごしょ  まい     め     げざん  い     うんぬん
天福二年(1234)三月大廿二日庚申。大納言阿闍梨隆弁@始めて御所に參る。召して見參に入ると云々。

さんぬ むいか ほんじよ   げちゃく
去る六日本寺自り下着す。

参考@隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。

現代語天福二年(1234)三月大二十二日庚申。大納言阿闍梨隆弁が、初めて御所に来ました。将軍が呼んでお会いになりました。先日の六日に三井寺から着いたのです。

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