天福二年甲午(1234)七月小
天福二年(1234)七月小六日癸卯。仰家司等。召起請。是奉行事。不謂親踈。不論貴賎。各存正儀。可致沙汰之趣也。其衆十七人。 |
読下し
かし ら
おお きしょう め
天福二年(1234)七月小六日癸卯。家司等に仰せて、起請を召す。
これぶぎょう こと しんそ いはず きせん ろんぜず
おのおの せいぎ ぞん さた いた べ のおもむきなり そ しゅうじうしちにん
是奉行の事、親踈を謂不。貴賎を論不。 各 正儀を存じ。沙汰致す可き之
趣 也。其の衆十七人(ママ)。
さきのやましろのかみふじわらひでとも さきのやましろのかみなかはらもりなが
前山城守藤原秀朝 前山城守中原盛長
さんにおおえもちやす さんにみよしやすもち
散位大江以康 散位三善康持
みんぶだいじょうみよしやすつら
なかつかさのじょうおおえとしゆき
民部大丞三善康連 中務丞大江俊行
だんじょうのちうおおえもちもと だいぜんのじょうおおえもりゆき
彈正忠大江以基 大膳進大江盛行
さえもんのじょうこれむねしげみち ひょうごのじょうみよしともただ
左衛門尉惟宗重通 兵庫允三善倫忠
ふじわらよりとし しゃみぎょうにん
藤原頼俊 沙弥行忍
これむねゆきみち みよしやすまさ 〔やすむね あらた 〕
惟宗行通 三善康政〔康宗に改む〕
現代語天福二年(1234)七月小六日癸卯。幕府の政務機関に仕える連中に命じて、誓約書を出させました。これは、執行に際して親しいか否か、身分の高低にこだわらず、それぞれ正義を心得て、処置するとの内容です。その人々は17人です。
前山城守藤原秀朝 前山城守中原盛長
散位大江以康 散位三善康持
民部大丞三善康連 中務丞大江俊行
弾正忠大江以基 大膳進大江盛行
左衛門尉惟宗重通 兵庫允三善倫忠
藤原頼俊 沙弥行忍
惟宗行通 三善康政〔康宗に変名〕
天福二年(1234)七月小廿六日癸亥。御臺所令移御産所〔相州第〕供奉人々數輩。渡御相州亭之後。及子剋有御産氣。廷尉定員催鳴弦役人。十人參進〔各白直垂。立烏帽子〕。 |
読下し
みだいどころ ごさんじょ 〔そうしゅう だい〕 うつ せし ぐぶ ひとびとすうやから
天福二年(1234)七月小廿六日癸亥。御臺所
御産所〔相州の第〕へ移ら令む。供奉の人々數輩。
そうしゅうてい わた
たま ののち ねのこく
およ ごさんけ あ ていいさだかずめいげん えき
ひと もよお じうにんさんしん 〔おのおのしろ ひたたれ たてえぼし 〕
相州亭へ渡り御う之後、子剋に及び御産氣有り。廷尉定員鳴弦の役の人を催す。十人參進す。〔
各 白の直垂、立烏帽子〕
さこんくらんど じょうのたろう
左近藏人 城太郎
こうづけのしちろうさえもんのじょう するがのごろうさえもんのじょう
上野七郎左衛門尉 駿河五郎左衛門尉
おうみのさぶろうひょうえのじょう みうらのまたたろう
近江三郎兵衛尉 三浦又太郎
いとうのさぶろうさえもんのじょう かさいのしんさえもんのじょう
伊東三郎左衛門尉 葛西新左衛門尉
ちうじょうさえもんのじょう いずみのじろうさえもんのじょう
中條左衛門尉 和泉二郎左衛門尉
現代語天福二年(1234)七月小二十六日癸亥。将軍室の竹御所が、お産の場所〔時房さん宅〕へ移りました。お供の人々は数人です。時房さん宅へ移った後、夜中の12時頃に産気づきました。廷尉藤原定員が悪魔祓いの弓を鳴らす人々の世話をしました。十人が来ました〔それぞれ浄衣の白の直垂に立烏帽子です〕。
左近蔵人毛利親光 城太郎安達義景
上野七郎左衛門尉朝広 駿河五郎左衛門尉三浦資村
近江三郎兵衛尉 三浦又太郎氏村
伊東三郎左衛門尉祐綱 葛西新左衛門尉清時
中条左衛門尉 和泉次郎左衛門尉景氏
天福二年(1234)七月小廿七日甲子。寅剋御産〔兒死而生給〕。御加持弁僧正定豪云々。御産以後御惱乱。辰剋遷化〔御歳卅二〕。是正治將軍姫君也。 |
読下し
とらのこくおさん 〔 こ し て
うま たま 〕 おんかじ べんのそうじょうていごう うんぬん
天福二年(1234)七月小廿七日甲子。寅剋御産〔兒死し而生れ給ふ〕。御加持は弁僧正定豪と云々。
おさん いご ごのうらん たつのこくせんげ 〔おんとしさんじうに〕 これしょうじしょうぐん ひめぎみなり
御産以後御惱乱。辰剋遷化す。〔御歳卅二〕是正治將軍が姫君也。
現代語天福二年(1234)七月小二十七日甲子。午前4時頃にお産〔子供は死産でした〕。無事な出産の加持祈祷は弁僧正定豪だそうな。お産の後、悩み苦しんでいましたが、午前8時頃亡くなりました〔年齢は32歳です〕。この方は、正治年中に将軍だった頼家様の姫君なのです。