吾妻鏡入門第廿九巻

文暦二年未(1235)四月大

文暦二年(1235)四月大一日癸亥。京都飛脚參着。殿下去二月廿一日以後。御不例追日増氣之間。攝録大殿御還着之由申之云々。

読下し                    きょうと  ひきゃくさんちゃく
文暦二年(1235)四月大一日癸亥。京都の飛脚參着す。

でんか さんぬ にがつ にじういちにち いご   ごふれい ひ  おっ  ましげのあいだ  せつろく おおとの ごかんちゃくのよし  これ  もう     うんぬん
殿下@去る二月 廿一日 以後、御不例日を追て増氣之間、攝録は大殿A御還着之由 之を申すと云々。

参考@殿下は、九条教實。将軍頼経の兄。
参考A
大殿は、九条道家。将軍頼経の父。

現代語文暦二年(1235)四月大一日癸亥。京都からの伝令が到着しました。「殿下九条教実さんが先日の2月21日から病気にかかり、日が経つにつれて、悪化しており、摂政関白の職務には大殿の九条道家さんが返り咲いた。」と報告したそうな。

文暦二年(1235)四月大二日甲子。子剋。京都飛脚重到來。前攝政殿去月廿七日御絶入。同廿八日巳剋薨云々〔是將軍家御舎兄也〕。

読下し                    ねのこく  きょうと  ひきゃくかさ    とうらい
文暦二年(1235)四月大二日甲子。子剋、京都の飛脚重ねて到來す。

さきのせっしょうどの さんぬ つき にじうしちにち おんたえい    おな   にじうはちにち みのこく こう   うんぬん      〔これ  しょうぐんけ  ごしゃけいなり 〕
 前攝政殿 去る月 廿七日 御絶入り、同じき 廿八日 巳剋 薨ずと云々。〔是、將軍家が御舎兄也〕

現代語文暦二年(1235)四月大二日甲子。午前零時頃に京都からの伝令が続いて到着しました。前の摂政九条教実さんが、先月27日に意識を失い、同じ28日の午前10時頃に亡くなったそうです〔この人は将軍頼経様のお兄様です〕。

文暦二年(1235)四月大三日乙丑。將軍家御輕服之上。依爲攝政殿薨御。被閣政務三ケ日云々。

読下し                   しょうぐんけ  ごきょうぶくのうえ  せっしょうどの  こうごたる   よっ    せいむ  みっかび さしおかれ  うんぬん
文暦二年(1235)四月大三日乙丑。將軍家、御輕服之上@、攝政殿が薨御爲に依て、政務を三ケ日閣被ると云々。

参考@御輕服之上は、竹御所の死による喪中。そこに兄の死があり、穢れが重なったので。

現代語文暦二年(1235)四月大三日乙丑。将軍頼経様は、竹御所の軽い喪中の最中に摂政殿九条教実様の死で、穢れが重なったので政務を三日間休むそうです。

文暦二年(1235)四月大六日戊辰。隱岐四郎左衛門尉行久爲使節上洛。依前殿下御事也。

読下し                    おきのしろうさえもんのじょうゆきひさ   しせつ  な  じょうらく    さきのでんか おんこと  よっ  なり
文暦二年(1235)四月大六日戊辰。隱岐四郎左衛門尉行久、使節と爲し上洛す。前殿下の御事に依て也。

現代語文暦二年(1235)四月大六日戊辰。隱岐四郎左衛門尉二階堂行久は、幕府からの派遣員として京都へ上ります。九条教実様のお悔みのためです。

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