吾妻鏡入門第廿九巻

文暦二年未(1235)六月大

文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。被鑄五大堂洪鐘。而今日鑄損之。奉行人周防前司欲勘發鑄物師之處。。陳申云。依銅不足如此。可被加銅云々。

読下し                     ごだいどう  こうしょう  い らる    しか    これ  きょう い そん
文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。五大堂の洪鐘を鑄被る。而るに之を今日鑄損じる。

ぶぎょうにんすおうのぜんじ  いもじ   かんぱつ     ほっ    のところ  ちん  もう    い       どうぶそく     かく   ごと    どう  くは  られ  べ     うんぬん
奉行人周防前司 鑄物師を勘發せんと欲する之處、陳じ申して云はく。銅不足にて此の如し。銅を加へ被る可しと云々。

現代語文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。五大堂の梵鐘を鋳造しましたが、今日失敗をしてしまいました。指揮担当の周防前司中原親実は、鋳物師を叱りつけようとしたら、弁解して云うのには、「銅が足りなかったのでこうなりました。銅を足しますから。」との事でした。

文暦二年(1235)六月大廿一日壬午。洪鐘可被鑄改之由。於御所有其沙汰。周防前司奉行之。來廿九日御堂供養以前。早旦可有此儀云々。

読下し                     こうしょう いあらた られ  べ   のよし   ごしょ   をい  そ    さた あ
文暦二年(1235)六月大廿一日壬午。洪鐘 鑄改め被る可し之由、御所に於て其の沙汰有り。

すおうのぜんじ これ  ぶぎょう    きた にじうくにち  みどう くよう いぜん     そうたんかく  ぎ あ   べ     うんぬん
周防前司 之を奉行す。來る廿九日の御堂供養以前に、早旦此の儀有る可しと云々。

現代語文暦二年(1235)六月大二十一日壬午。梵鐘の鋳造をやり直すように、御所で命令がありました。周防前司中原親実が担当します。二十九日の開眼供養の前に作り終えるようにとの事でした。

文暦二年(1235)六月大廿九日庚寅。新御堂安鎭。弁僧正定豪修之。又被鑄直洪鐘。先日以銅錢三百貫文鑄損之。今度卅余貫。成功殊勝云々。東大寺洪鐘。三ケ度被鑄直之。法勝寺鐘。承暦二年十二月二日鑄損之。後日被改云々。辰剋懸鐘。同時奉安置五大明王像於堂中。巳二點。依可有明王院〔五大尊堂〕供養。將軍家爲御參堂出御〔御束帶。御釼。笏〕。供奉人々數輩〔畧之〕。入御堂中。兩國司被參儲。午二點。有供養儀。曼茶羅供也。願文大藏卿爲長草之。C書内大臣〔實氏公〕。
大阿闍梨
 弁僧正定豪
職衆廿二口
 鳥羽法印光寳    助法印嚴海
 大夫法印忠遍    師僧都定基
 左大臣法印兼盛   宮内卿僧都承快
 大納言法印良全   大納言僧都定親
 加賀律師定C    宰相律師實俊
 宰相律師圓親    大藏卿律師定雅
 三位阿闍梨範乘   少將阿闍梨實果
 大納言阿闍梨隆弁  越後阿闍梨定憲
 宰相阿闍梨長全   宰相内供定宗
 因幡阿闍梨定弁   兵部卿阿闍梨親遍
 少納言阿闍梨定瑜  大夫律師良賢
布施
 導師分
 被物三十重〔色々〕 裹物〔納染絹十五端〕
 白綾三十疋     染綾三十疋
 計張三十疋     顯文紗三十端
 丹後絹卅疋     巻絹三十疋
 染付三十巻     唐綾三十端
 筋計張卅疋     紫村濃三十端
 紫三十端      綾地三十端
 紺村濃卅端     帖絹三十疋
 絹淺黄卅端     紺染絹卅疋
 白布三十端     紺布三十端
 藍摺三十端     色革三十枚
 香炉筥一      居筥一
 水精念珠      横皮
 法服一具      香染衣一具
 上童裝束一具    宿衣一領
加布施
 砂金百兩〔在銀打敷〕野釼一腰〔銀長覆輪在錦袋〕
此外供米二十石
 馬十疋
職衆分〔口別〕
 被物十重〔色々〕  裹物一
 白綾十端      色々絹十端
 巻絹十疋      帖絹十疋
 染付十巻      染絹十端
 白布十端      紺布十端
 藍摺十端      色皮十枚
 供米五石
 馬三疋

読下し                     しんみどう   あんちん  べんのそうじょうていごう これ しゅう    また  こうしょう いなおさる
文暦二年(1235)六月大廿九日庚寅。新御堂の安鎭、 弁僧正定豪 之を修す。又、洪鐘を鑄直被る。

せんじつ どうぜにさんびゃくかんもん もっ  これ  い そん      このたび さんじうよかん せいこうしゅしょう うんぬん
先日、銅錢 三百貫文 を以て之を鑄損じる。今度は卅余貫、成功殊勝と云々。

とうだいじ  こうしょう   さんかどこれ  いなおさる
東大寺の洪鐘は、三ケ度之を鑄直被る。

ほうしょうじ  かね   じょうりゃくにねんじうにがつふつかこれ  いそん     ごじつ あらた らる    うんぬん
法勝寺の鐘は、承暦二年十二月二日之を鑄損じ、後日改め被ると云々。

たつのこく かね  か       どうじ  ごだいみょうおうぞうを どうちう  あんちたてまつ
 辰剋 鐘を懸くる。同時に五大明王像於堂中に安置 奉る。

みのにてん みょうおういん 〔ごだいそんぞう〕  くよう あ   べ     よっ   しょうぐんけ ごさんどう  ため  い   たま     〔おんそくたい  ぎょけん  しゃく〕
巳二點。明王院〔五大尊堂〕供養有る可きに依て、將軍家御參堂の爲に出で御う。〔御束帶。御釼。笏〕

 ぐぶ  ひとびとすうやから 〔これ  りゃく  〕 みどうちう  い     りょうこくし まい  もう   らる    うまのにてん  くよう   ぎ あ     まんだらぐなり
供奉の人々數輩〔之を畧す〕御堂中に入る。兩國司參り儲け被る。午二點。供養の儀有り。曼茶羅供也。

がんもん おおくらきょうためなが これ そう    せいしょ  ないだいじん 〔さねうじこう〕
願文は 大藏卿爲長 之を草す。C書は内大臣〔實氏公〕

 だいあじゃり
大阿闍梨

  べんのそうじょうていごう
 弁僧正定豪

しきしゅう にじゅうにく
職衆@廿二口

  とばのほういんこうほう        すけのほういんがんかい
 鳥羽法印光寳    助法印嚴海

  たいふほういんちうへん       そちのそうづていき
 大夫法印忠遍    師僧都定基

  さだいじんほういんけんせい     くないきょうそうづじょうかい
 左大臣法印兼盛   宮内卿僧都承快

  だいなごんほういんりょうぜん     だいなごんそうづていしん
 大納言法印良全   大納言僧都定親

  かがのりっしていせい         さいしょうりっしじつしゅん
 加賀律師定C    宰相律師實俊

  さいしょうりっしえんしん        おおくらきょうりっしていが
 宰相律師圓親    大藏卿律師定雅

  さんみあじゃりはんじょう        しょうしょうあじゃりじっか
 三位阿闍梨範乘   少將阿闍梨實果

  だいなごんあじゃりりゅうべん     えちごのあじゃりていけん
 大納言阿闍梨隆弁  越後阿闍梨定憲

  さいしょうあじゃりちょうぜん      さいしょうないくていそう
 宰相阿闍梨長全   宰相内供定宗

  いなばのあじゃりていべん      ひょうぶきょうあじゃりしんぺん
 因幡阿闍梨定弁   兵部卿阿闍梨親遍

  しょうなごんあじゃりていゆ      たいふりっしりょうけん
 少納言阿闍梨定瑜  大夫律師良賢

 ふせ
布施

 どうしぶん
 導師分

  かずけものさんじうえ 〔いろいろ〕   つつみもの 〔そめぎぬじうごたん  おな  〕
 被物三十重〔色々〕 裹物〔染絹十五端を納む〕

  しろあやさんじっぴき         そめあやさんじっぴき
 白綾三十疋     染綾三十疋

  けいちょうさんじっぴき         けんもんしゃ さんじったん
 計張三十疋     顯文紗A三十端

  たんごぎぬさんじっぴき        まきぎぬさんじっぴき
 丹後絹卅疋     巻絹三十疋

  そめつけさんじっかん         からあやさんじったん
 染付三十巻     唐綾三十端

  きんけいちょうさんじっぴき      むらさきむらこいさんじったん
 筋計張卅疋     紫村濃三十端

  むらさきさんじったん         あやぢさんじったん
 紫三十端      綾地三十端

  こんむらこいさんじったん      ちょうけんさんじっぴき
 紺村濃卅端     帖絹三十疋

  きぬあさぎさんじったん       こんぞめぎぬさんじっぴき
 絹淺黄卅端     紺染絹卅疋

  しらぶ さんじったん         こんぷさんじったん
 白布三十端     紺布三十端

  あいずりさんじったん         いろかわさんじうまい
 藍摺三十端     色革三十枚

  こうろばこいち             すえばこ いち
 香炉筥一      居筥B

  すいしょうねんじゅ           おうひ
 水精念珠      横皮

  ほうふく いちぐ             こうのそめごろもいちぐ
 法服一具      香染C衣一具

  じょうどうしょうぞくいちぐ        すくね いちりょう
 上童裝束一具    宿衣一領

 かぶせ
加布施

  さきんひゃくりょう 〔ぎん  うちしき あ   〕  のだち ひとこし 〔ぎん  ちょうぶくりん  わた  ふくろあ   〕
 砂金百兩〔銀の打敷Dに在り〕野釼E一腰〔銀の長覆輪、錦の袋在り〕

このほか くまいにじっこく
此外 供米二十石

  うまじっぴき
 馬十疋

しきしょうぶん 〔くべつ〕
職衆分〔口別〕

  かずけものとえ 〔いろいろ〕      つつみものいち
 被物十重〔色々〕  裹物一

  しろあやじったん           いろいろぎぬじったん
 白綾十端      色々絹十端

  まきぎぬじっぴき           ちょうけんじっぴき
 巻絹十疋      帖絹十疋

  そめつけじっかん           そめぎぬじったん
 染付十巻      染絹十端

  しらぶ じったん            こんぷ じったん
 白布十端      紺布十端

  あいずりじったん           いろかわじうまい
 藍摺十端      色皮十枚

  くまい ごこく
 供米五石

  うまさんぴき
 馬三疋

参考@職衆は、法会の時お経を上げたり散華を撒いたりする坊さん達。
参考A顕文紗は、顕紋紗で紗の衣装の模様の部分だけを平織で浮き出させたもの。
参考B居筥は、法会の時、導師のそばに置く経巻等を入れる蓋のない箱。
参考C香染は、丁子を濃く煎じて汁で染めた。
参考D打敷は、菓子などを盛る時に敷く白紙。調度などの下に敷く布。
参考E
野剣は、公卿用の太刀。

現代語文暦二年(1235)六月大二十九日庚寅。新しいお堂のお祓いの護摩炊きを弁僧正定豪が行いました。梵鐘は鋳直しました。先日、銅銭300貫文を使って鋳損ないました。今度は30数貫足してうまくできましたとさ。東大寺の鐘は三度も鋳直し、法勝寺の鐘は、永暦2年(1161)12月2日に鋳損なって、後日改めてやったそうな。

午前8時頃鐘を鐘楼に掛けました。同時に五大明王の像を堂の中に安置しました。午前9時半頃に明王院〔五大尊のお堂〕の開眼供養があるので、将軍頼経様はお参りのためお出になられました〔衣冠束帯・帯剣・笏を持つ〕。お供の人々数人〔略〕がお堂に入りました。時房さんと泰時さんが来て用意させました。午前11時半頃儀式がありました。曼荼羅経です。仏への願の文書は、大蔵卿為長さんが文書を作成し、内大臣実氏さんが清書をしました。

主役の指導の坊さんは、弁僧正定豪で、散華などを努めるお供の坊さんは、鳥羽法印光宝・助法印厳海・大夫法印忠遍・師僧都定基・左大臣法印兼盛・宮内卿僧都承快・大納言法印良全・大納言僧都定親・加賀律師定清・宰相律師実俊・宰相律師円親・大蔵卿律師定雅・三位阿闍梨範乗・少将阿闍梨実果・大納言阿闍梨隆弁・越後阿闍梨定憲・宰相阿闍梨長全・宰相内供定宗・因幡阿闍梨定弁・兵部卿阿闍梨親遍・少納言阿闍梨定瑜・大夫律師良賢

お布施 指導僧の分は、被り物30重ね〔色とりどり〕。風呂敷包み〔染め絹15反を入れてます〕。白い綾絹30匹。染めた綾絹30匹。計張(不明)30匹。顕文紗30反。丹後絹30反。巻絹30匹。染付30巻。唐綾30反。筋計張(不明)30匹。紫のグラデーション染め30反。紫染め30反。綾地30反。紺のグラデーション染め30反。金銭代わりの絹30匹。絹の浅黄染め30反。紺に染めた絹30匹。白い布30反。紺の布30反。藍色の摺り染め30反。色染めの皮30枚。香炉入りの箱一つ。居筥一つ。水晶の数珠。横皮(?)。坊さんの衣装一揃え。丁子で染めた衣装一揃え。稚児の衣装一揃え。寝間着一着。

おまけのお布施。砂金百両〔銀の打敷(敷物)に乗せている〕。公卿用の飾り太刀〔銀の金具作り、錦の袋に入れてある〕この他にお供え用の米20石、馬10頭。

散華などを努めるお供の坊さんの分〔一人づつに〕被り物10重ね〔色とりどり〕。風呂敷包み1。白い綾絹10反。色とりどりの絹10反。白い綾絹10反。色とりどりの絹10反。巻絹10反。金銭代りの絹10疋。染付10巻。染めた絹10反。白い布10反。紺の布10反。藍色の摺り染め10反。色染の皮10枚。供養のお米5石。馬3頭。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。午なら11時〜11:24を一点、11:24〜11:48を二点、11:48〜12:12を三点、12:12〜12:36を四点、12:36〜13:00を五点。

文暦二年(1235)六月大卅日辛夘。來月依爲閏月。今夜可被行六月祓哉否事。爲藤内判官定員奉行。被尋問有職并陰陽道輩。河内入道等申云。如義解文者。可行于閏月事分明也。和哥云。のちのみそかをみそかとはせよ者。其上。治承四年 建久八年 建保四年。皆被行于閏月云々。諸人一同之。資俊申云。兩月行之例存之云々。然而就多分儀不被行之云々。

読下し                   きた  つき うるうづきたる  よっ    こんや ろくがつはら   おこなは べ     や いな    こと
文暦二年(1235)六月大卅日辛夘。來る月は閏月爲に依て、今夜六月祓へを行被る可き哉否やの事、

とうないほうがんさだかず  ぶぎょう  な     ゆうそくなら   おんみょうどう やから じんもんさる    かわりにゅうどうらもう    い
藤内判官定員を奉行と爲し、有職并びに陰陽道の輩に尋問被る。河内入道等申して云はく。

 ぎげ   ふみ  ごと  ば  うるうづきに おこな べ   ことぶんめいなり   わか   い
義解の文の如く者、閏月于行う可き事分明也。和哥に云はく。

 後  の  晦日  を  晦日   とはせよ
のちのみそかをみそかとはせよ

てへ    そ   うえ  じしょうよねん けんきゅはちねん けんぽうよねん  みなうるうづきに おこなは  うんぬん  しょにんこれ いちどう    すけとしもう    い
者り。其の上、治承四年、建久八年、建保四年、皆閏月于行被ると云々。諸人之に一同す。資俊申して云はく。

りょうげつ おこな のれい  これ  ぞん   うんぬん  しかれど たぶん  ぎ   つ   これ  おこなはれず うんぬん
兩月に行う之例、之を存ずと云々。然而も多分の儀に就き之を行被不と云々。

現代語文暦二年(1235)六月大三十日辛卯。来月は閏月なので、今夜年に二度(6月末と12月末)のお祓いの6月の分をやるべきかどうか、藤内判官藤原定員が担当して、学識者や陰陽師達に質問しました。河内入道源光行などが言うのには「令義解」の文書などには、閏月に行うようにとはっきりしています。和歌にも「後の晦日を晦日とはせよ」とあります。その上、治承4年・建久8年・建保4年は皆閏月に行われています。」だとさ。集まった人々も賛成しました。安陪資俊が言うには「両方の月で行った例は知りません。」とのことです。結局余分な事になるので行いませんでしたとさ。

閏六月へ

吾妻鏡入門第廿九巻

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