吾妻鏡入門第廿九巻

嘉禎元年未(1235)十月大

嘉禎元年(1235)十月大八日丁酉。改元詔書到來。去月十九日。改文暦二年。爲嘉禎元年云々。

読下し                   かいげん しょうしょとうらい    さんぬ つきじうくにち ぶんりゃくにねん  あらた   かていがんねん  な    うんぬん
嘉禎元年(1235)十月大八日丁酉。改元の詔書到來す。去る月十九日、文暦二年を改め、嘉禎元年と爲すと云々。

現代語嘉禎元年(1235)十月大八日丁酉。改元の公文書が届きました。先月の19日に文暦2年を替えて、嘉禎元年としましたとさ。

嘉禎元年(1235)十月大十四日癸夘。於政所。有改元吉書始之儀云々。

読下し                     まんどころ をい    かいげん  きっしょはじめのぎ あ     うんぬん
嘉禎元年(1235)十月大十四日癸夘。政所に於て、改元の吉書始之儀有りと云々。

現代語嘉禎元年(1235)十月大十四日癸卯。政務事務所で、改元による事務初めの縁起の良い文書を書く儀式がありましたとさ。

嘉禎元年(1235)十月大十七日丙午。京都使者到來。去八月將軍家令任陸奥出羽按察使御之由申之。

読下し                     きょうと   ししゃ とうらい    さんぬ はちがつ しょうぐんけ むつ でわ  あぜち  にん  せし  たま  のよし  これ  もう
嘉禎元年(1235)十月大十七日丙午。京都の使者到來す。去る八月、將軍家陸奥出羽按察使@に任じ令め御う之由、之を申す。

参考@按察使は、元々の職は、国司を監督する役目だったが、この頃では名官(名誉職)となっている。

現代語嘉禎元年(1235)十月大十七日丙午。京都朝廷の使いが来ました。去る8月に将軍頼経様が出羽国の国司監督官に任命されたと報告しました。

嘉禎元年(1235)十月大十九日戊申。申剋雨降。雷數聲。

読下し                     さるのこくあめふ   かになり すうこえ
嘉禎元年(1235)十月大十九日戊申。申剋雨降る。 雷 數聲。

現代語嘉禎元年(1235)十月大十九日戊申。午後4時頃に雨が降り、雷が数回鳴りました。

嘉禎元年(1235)十月大廿八日丁巳。去月廿日。御禊行幸。無爲被遂行。自去夜。主上疱瘡御不豫。凡此事。洛陽流布。諸人不免云々。

読下し                     さんぬ つきはつか  ごけい ぎょうこう   ぶい   と   おこなは
嘉禎元年(1235)十月大廿八日丁巳。去る月廿日。御禊@の行幸、無爲に遂げ行被る。

さんぬ よ よ    しゅじょう ほうそう ごふよ   およ  かく  こと  らくよう   るふ     しょにん まぬか ず   うんぬん
去る夜自り、主上A疱瘡御不豫。凡そ此の事、洛陽に流布し、諸人 免れ不と云々。

参考@御禊は、天皇の即位後、大嘗会の前月に鴨川でのみそぎの儀式。
参考A
主上は、四条天皇。

現代語嘉禎元年(1235)十月大二十八日丁巳。先月の20日に、四条天皇は鴨川でのみそぎの儀式へのお出ましが無事に終えることが出来ました。先日の夜から天皇は疱瘡を患ってます。この疱瘡が京都中に流行っていて、誰もが逃れられないそうです。

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