吾妻鏡入門第廿九巻

嘉禎元年未(1235)十二月大

嘉禎元年(1235)十二月大十一日己亥。宇佐宮神領事。十一ケ所爲没収地。其内四ケ所者被返付之。於七ケ所者。依無其次。未及被返付。而今日有沙汰。縱雖過廿ケ年。自然便宜出來之時者。不拘式條。可有御裁定之由云々。

読下し                        うさぐう しんりょう  こと  じういっかしょぼっしゅうちたり  そ   うちよんかしょは これ  かえ  つ   らる
嘉禎元年(1235)十二月大十一日己亥。宇佐宮神領@の事、十一ケ所没収地爲。其の内四ケ所者之を返し付け被る。

しちかしょ   をい  は   そ  ついでな    よっ    いま  かえ  つ   らる    およ      しか    きょう  さた あ
七ケ所に於て者、其の次無きに依て、未だ返し付け被るに及ばず。而るに今日沙汰有り。

たと  にじっかねん  す      いへど   じねん  べんぎ い   きた  のときは   しきじょう かかは ず  ごさいてい あ   べ   のよし  うんぬん
縱い廿ケ年を過ぎると雖も、自然にA便宜出で來る之時者、式條に拘ら不、御裁定有る可き之由と云々。

参考@宇佐宮神領は、宇佐神宮大宮司家の宇佐氏が平家についていた為、源氏方の緒方三郎惟能によって取上げられた。
参考
A自然には、予想外に。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大十一日己亥。宇佐神宮の領地については、11か所を没収しましたが、そのうち4か所を返納しました。7か所については、返付する理由がないので、未だ返す必要は有りませんでした。しかし今日検討会があって、たとえ20年を過ぎたとしても、予想外にその理由が生じた時は、御成敗式目の条文にこだわらずに、裁定するようにとの事でした。

嘉禎元年(1235)十二月大十八日丙午。將軍家御不例事。御疱瘡有出現氣之由。良基朝臣申之。今夜又始行御祈祷等。及子剋。平左衛門尉盛綱爲武州御使。參御所申云。毎日可被修御招魂祭之由云々。仍先七ケ夜可奉仕之旨。被仰國継云々。

読下し                      しょぐんけ  ごふれい  こと  おんほうそう しゅつげん け あ   のよし  よしもとあそん これ  もう
嘉禎元年(1235)十二月大十八日丙午。將軍家御不例の事、御疱瘡 出現の氣有る之由、良基朝臣@之を申す。

こんや また ごきとうら   しぎょう
今夜又御祈祷等を始行す。

ねのこく  およ   へいさえもんのじょうもりつな ぶしゅう  おんし  な     ごしょ  まい  もう    い
子剋に及び、平左衛門尉盛綱A武州の御使と爲し、御所へ參り申して云はく。

まいにち ごしょうこんさい しゅうさる  べ   のよし  うんぬん
毎日御招魂祭Bを修被る可き之由と云々。

よっ  ま   なぬかや ほうしべ   のむね  くにつぐ  おお  らる    うんぬん
仍て先ず七ケ夜奉仕可き之旨、國継に仰せ被ると云々。

参考@良基朝臣は、典薬頭の丹波。
参考A平左衛門尉盛綱は、得宗家の家令。
参考B招魂祭は、死者の霊を招き衰弱している生きた人間の活性化のための祈り。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大十八日丙午。将軍頼経様の病気について、疱瘡の予兆が出ていると、典薬頭丹波良基さんがそう言ってます。今夜又御祈祷を始めました。真夜中の12時頃になって、平盛綱が泰時さんの使いとして、御所へ来て申しあげるのには「毎日衰弱した人を活性化する祈りの招魂祭を行うようにとのことだとさ。それでまず七夜努めるように安陪国継に命じられましたとさ。

嘉禎元年(1235)十二月大廿日戊申。爲御不例御祈。於御所南庭。被行七座泰山府君祭。忠尚。親職。リ賢。資俊。廣資。國継。泰宗等奉仕之。及黄昏。被行四角四境祭。御所艮角〔陰陽大允リ茂〕、巽角〔圖書助リ秀〕、坤角〔右京權亮經昌〕、乾角〔雅樂助C貞〕、小袋坂〔雅樂大夫泰房〕、小壷〔近江大夫親貞〕、六浦〔陰陽小允以平〕、固瀬河〔縫殿助久方〕。

読下し                      ごふれい  おんき  ため  ごしょ  なんてい  をい    しちざ  たいさんふくんさい  おこなは
嘉禎元年(1235)十二月大廿日戊申。御不例の御祈の爲、御所の南庭に於て、七座の泰山府君祭@を行被る。

ただなお ちかもと  はるかた すけとし  ひろすけ くにつぐ  やすむねら これ  ほうし
忠尚、親職、リ賢、資俊、廣資、國継、泰宗等之を奉仕す。

たそがれ  およ    しかくしきょうさい  おこなは
黄昏に及び、四角四境祭を行被る。

ごしょ うしとら かど 〔おんみょうだいじょうはるもち〕 たつみ かど 〔ずしょのすけはるひで〕 ひつじさる かど 〔うくおうごんのすけつねまさ〕 いぬい かど 〔うたのすけきよさだ〕
御所の艮の角〔陰陽大允リ茂〕、巽の角〔圖書助リ秀〕、坤の角〔右京權亮經昌〕、乾の角〔雅樂助C貞〕

こぶくろざか 〔うたのたいふやすふさ〕    こつぼ  〔おうみのたいふちかさだ〕   むつら 〔おんみょうしょうじょうもちひら〕  かたせがわ 〔ぬいのすけひさかた〕
小袋坂〔雅樂大夫泰房〕、小壷〔近江大夫親貞〕、六浦〔陰陽小允以平〕、固瀬河〔縫殿助久方〕。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十日戊申。病気(疱瘡)を治すお祈りのため、御所の南庭で、七人の泰山府君祭を行いました。安陪忠尚・安陪親職・安陪晴賢・安陪資俊・安陪広資・安陪国継・安陪泰宗の七人が勤めました。
夕方になって、御所の四方と鎌倉の四方境界とでお祓いをする四角四境祭を行いました。東北が陰陽大允安陪晴茂、南東が図書助安陪晴秀、南西が左京権亮安陪経昌、西北が雅楽助安陪清貞。西北の小袋坂が雅楽大夫安陪泰房、南東の小坪が近江大夫安陪親貞、東北の六浦が陰陽小允安陪以平、西南の片瀬川が縫殿助安陪久方。

解説@泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

嘉禎元年(1235)十二月大廿一日己酉。御祈等始行。
 愛染王護广    忍辱山僧正
 十一面護广    信濃法印道禪
 不動供      攝津法眼行重
 七曜供      助法印珎譽
 天曹地府祭    文元朝臣
 如法咒咀并鬼氣祭 親職
 土公祭      大膳權亮道氏

読下し                       ごきとうらしぎょう
嘉禎元年(1235)十二月大廿一日己酉。御祈等始行す。

  あいぜんおうごま         にんにくさんそうじょう
 愛染王護广    忍辱山僧正(定豪)

  じういちめんごま          しなののほういんどうぜん
 十一面護广    信濃法印道禪

   ふどうぐ             せっつのほうげんぎょうちょう
 不動供      攝津法眼行重

  しちようぐ             すけのほういんちんよ
 七曜供      助法印珎譽

  てんそうちふさい         ふみもとあそん
 天曹地府祭    文元朝臣

  にょほうじゅそ なら     ききさい   ちかもと
 如法咒咀并びに鬼氣祭 親職

   どくう さい            だいぜんごんのすけみちうじ
 土公@祭      大膳權亮道氏

参考@土公は、土をつかさどる神。春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にあって、その季節にその場所を動かすと祟りがあるとされる。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十一日己酉。お祈り(疱瘡治癒)を始めました。
 愛染明王の護摩炊きが、忍辱山僧正定豪。
 十一面観音の護摩炊きが、信濃法印道禅。
 不動明王のお祈りが、摂津法眼行重。
 一週間の日月火水目金七天体信仰の護摩炊きが、助法印珍与。
 冥官(みょうかん)を祭って戦死者の冥福などを祈る儀式の天曹地府祭が、安陪文元さん。
 規則通りの呪いを解く祈りと悪鬼祓いの鬼気祭は、安陪親職。
 土を司る神の土公祭は、大膳権亮道氏。

嘉禎元年(1235)十二月大廿二日庚戌。又被行御祈等。 佛眼鳥羽法印光寳 金輪内大臣僧都定親 金剛童子護广丹後僧都頼曉 靈氣道断祭陰陽助忠尚 雷神祭相摸權守俊定等奉仕之。

読下し                       また ごきとうら  おこなは    ぶつげん とばのほういんこうほう  こんりん ないだいじんそうづていしん
嘉禎元年(1235)十二月大廿二日庚戌。又御祈等を行被る。佛眼@は鳥羽法印光寳。金輪Aは内大臣僧都定親。

こんごうどうじ ごま   たんごのそうづらいぎょう  りょうきどうだんさい  おんみょうのすけただなお らいじんさい さがみごんのかみとしさだ ら これ  ほうし
金剛童子B護广は丹後僧都頼曉。靈氣道断祭Cは 陰陽助忠尚。 雷神祭は相摸權守俊定 等 之を奉仕す。

参考@仏眼は、五眼の一つで一切を見通す。密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化した経典。
参考A金輪は、一字金輪。密教で大日如来が最高の境地に入った時に説いた真言(ぼろん)の一字を人格化した仏。また、一字金輪仏を本尊とする修法を一字金輪法という。一字金輪仏頂。ウィキペディアから
参考B金剛童子は、調伏や息災を祈る密教の修法。
参考C
霊気道断祭は、死霊・怨霊を断つ修法。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十二日庚戌。又も祈祷(疱瘡治癒)を行いました。真理を見つめる経典は、法印光宝。大日如来は、内大臣僧都定親。息災を祈る金剛童子の護摩炊きは、丹後僧都頼暁。死霊・怨霊を断つ祈りは、陰陽助安陪忠尚。雷様の祭りは相摸権守俊定などが、勤めました。

嘉禎元年(1235)十二月大廿三日辛亥。尊勝護摩一七ケ日始行之。

読下し                       そんしょうごま ひとなぬかにちこれ しぎょう
嘉禎元年(1235)十二月大廿三日辛亥。尊勝@護摩一七ケ日之を始行す。

参考@尊星王は、北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれる。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十三日辛亥。北極星を祀る尊勝王の護摩炊き(疱瘡治癒)は、七日間を始めました。

嘉禎元年(1235)十二月大廿四日壬子。重爲御祈。於所處本宮。令轉讀大般若經。可修御神樂之由被仰下。被付雜掌人。仍面々遣使。依可勤仕之也。
 伊勢内外宮〔相州御沙汰〕  石C水八幡宮〔武州御沙汰〕
 賀茂社〔大炊助入道沙汰〕  春日社〔長井判官代〕
 日吉社〔駿河入道〕     祇園社〔陸奥掃部助〕
 大原野社〔武州御沙汰〕   吉田社〔毛利入道〕
 北野社〔武州御沙汰〕    若宮〔武州〕
 熱田社〔出羽左衛門尉〕   熊野社〔正月十五日以後可被始此御祈〕
 本宮〔佐原三郎左衛門尉〕  新宮〔備中左近大夫〕
 那智〔湯淺二郎入道〕
此外
 尊星王護广         宰相律師圓親
 不動護广          莊嚴房僧都行勇
 炎魔天供          宮内卿律師征審

読下し                       かさ    おいのり ため  しょしょ  ほんぐう  をい   だいはんやきょう てんどくせし
嘉禎元年(1235)十二月大廿四日壬子。重ねて御祈の爲、所處の本宮に於て、大般若經を轉讀令め、

おかぐら   しゅう  べ   のよし  おお  くだされ  っしょうにん つけらる   よっ  めんめん  つか    つか      これ  ごんじ すべ    よっ  なり
御神樂を修す可き之由仰せ下被、雜掌人に付被る。仍て面々に使いを遣はす。之を勤仕可きに依て也。

  いせ ないげくう  〔そうしゅう   ごさた 〕     いわしみずはちまんぐう 〔ぶしゅう   ごさた 〕
 伊勢内外宮〔相州の御沙汰〕  石C水八幡宮〔武州の御沙汰〕

  かもしゃ   〔おおいのすけにゅうどう  さた 〕    かすがしゃ 〔ながいのほうがんだい〕
 賀茂社〔大炊助入道が沙汰〕  春日社〔長井判官代〕

   ひえしゃ  〔するがのにゅうどう〕          ぎおんしゃ 〔むつのかもんのすけ〕
 日吉社〔駿河入道〕     祇園社〔陸奥掃部助〕

  おおはらのしゃ 〔ぶしゅう   ごさた 〕       よしだしゃ 〔もうりにゅうどう〕
 大原野社〔武州の御沙汰〕  吉田社〔毛利入道〕

  きたのしゃ 〔ぶしゅう   ごさた 〕          わかみや 〔ぶしゅう〕
 北野社〔武州の御沙汰〕   若宮〔武州〕

  あつたしゃ  〔でわのさえもんのじょう〕        くまのしゃ  〔しょうがつじうごにちいご こ  おいのり  はじ  らる  べ   〕
 熱田社〔出羽左衛門尉〕   熊野社〔正月十五日以後此の御祈を始め被る可し〕

  ほんぐう 〔さわらのさぶろうさえもんのじょう〕      しんぐう 〔びっちゅうさこんたいふ〕
 本宮〔佐原三郎左衛門尉〕  新宮〔備中左近大夫〕

   なち  〔ゆあさのじろうにゅうどう〕
 那智〔湯淺二郎入道〕

 こ  ほか
此の外

  そんじょうおうごま                  さいしょうりっしえんしん
 尊星王護广        宰相律師圓親

   ふどうごま                     しょうごんぼうそうづぎょうゆう
 不動護广         莊嚴房僧都行勇

  えんまてんぐ                    くないきょうりっしせいしん
 炎魔天供         宮内卿律師征審

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十四日壬子。尚も疱瘡治癒のためのお祈りのために、各神社の本社で、大般若経を摺り読みさせて、お神楽を奉納させるようにとの言葉を、事務官を通して仰せになられました。そこでそれぞれに使者を派遣しました。お祈りを勤めさせるためです。
 
伊勢神宮の内宮外宮 相州時房提供  石清水八幡宮 武州泰時提供
 賀茂上下社 大炊助入道提供     春日大社 大江長井泰茂提供
 日吉社 駿河入道中原季時提供    祗薗社 陸奥掃部助実時提供
 大原野神社 武州泰時提供      吉田神社 毛利季光入道提供
 北野天満宮 泰時提供。       鶴岡八幡宮 武州泰時
 熱田神宮 出羽左衛門尉中条家平   熊野三山 正月15日以後にこの祈りを始めるように
 熊野本宮 佐原三郎左衛門尉家連   熊野新宮 備中左近大夫重氏
 那智大社 湯浅次郎入道宗業

この他、
 妙見菩薩の護摩炊き 宰相律師円親
 不動明王の護摩炊き 荘厳房僧都退耕行勇
 閻魔大王の護摩炊き 宮内卿律師征審

嘉禎元年(1235)十二月大廿六日甲寅。今曉。於御所南庭。被行如法泰山府君祭。大舎人權助國継奉仕之。被下祭物之上。御甲冑。御弓箭。御雙紙筥。御馬〔置鞍〕。此等被置祭庭。甲冑等者燒上之云々。今夕始行御祈。
 十一面護广    鳥羽法

 大白祭      法眼承澄
 北斗護广     法印明弁
 御當年星供    法橋珎譽
等也。

読下し                       こんぎょう  ごしょ  なんてい をい    にょほうたいさんふくんさい おこなは   おおどねりごんのすけくにつぐ これ  ほうし
嘉禎元年(1235)十二月大廿六日甲寅。今曉、御所の南庭に於て、如法泰山府君祭を行被る。 大舎人權助國継 之を奉仕す。

さいもつ  くださる  のうえ  おんかっちう おんゆみや  おんそうしばこ  おんうま 〔くら  お  〕   これら  まつり  にわ  おかれ    かっちゅうらは これ やきあげ    うんぬん
祭物を下被る之上、御甲冑、御弓箭、御雙紙筥、御馬〔鞍を置く〕此等を祭の庭に置被る。甲冑等者 之を燒上ると云々。

こんゆうおいのり しぎょう
今夕御祈を始行す。

  じういちめんごま          とばのほういん
 十一面護广    鳥羽法

  だいはくさい            ほうげんしょうちょう
 大白祭      法眼承澄

   ほくとごま             ほういんみょうべん
 北斗護广     法印明弁

  ごとうねんじょうぐ          ほっきょうちんよ
 御當年星供    法橋珎譽

らなり
等也。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十六日甲寅。今朝の夜明けに、御所の南庭で、規則通りきちんとする病気治癒の泰山府君祭を行いました。大舎人権助安陪国継がこれを勤めました。神前に供える物を下賜した上に、将軍の甲冑・弓矢・奉書入れの箱、馬〔鞍置き〕などを祈願する祭場所に用意しました。甲冑などは火にくべ、神へ捧げましたとさ。
夕方にもお祈りを始めました。
 十一面観音の護摩炊     鳥羽法印光宝
 太白星
(金星)        法眼承澄
 北斗星の護摩焚       法印明弁
 今年にあたる方角の星への祈 法橋珍与達です。

嘉禎元年(1235)十二月大廿七日乙夘。重爲御祈。於鶴岳八幡宮。被行仁王百講。又相州。武州別依被申請。可有御祭等。
 屬星祭〔忠尚可奉仕 武州御沙汰〕
 天地災反祭〔宣賢可奉仕 相州御沙汰〕
次被行靈所祭。
 由比浦〔大膳亮資俊〕    金洗澤〔陰陽權大允リ茂〕
 固瀬河〔主計大夫廣資〕   六浦〔前右京亮經昌〕
 鼬(元文獣編于由)河〔相州權守俊定〕    杜戸〔雅樂大夫泰房〕
 江嶋〔備中大夫重氏〕
今夕。仰大佛師康定。奉造始佛像。明後日〔廿九日〕可奉造畢之由云々。
 千躰藥師像一尺六寸
 羅嗷星〔忿怒形相 乘牛左右手捧日月〕
 計都星〔忿怒相 乘龍 左手捧日 右手持月〕
 御本命星藥師像
入夜。被修計都星祭〔文元朝臣奉仕之〕

読下し                       かさ    おいのり  ため  つるがおかはちまんぐう をい   におうひゃっこう  おこなは
嘉禎元年(1235)十二月大廿七日乙夘。重ねて御祈の爲、 鶴岳八幡宮に 於て、仁王百講を行被る。

また  そうしゅう  ぶしゅうべっ    もう  う   らる    よっ    おんまつりらあ  べ
又、相州、武州別して申し請け被るに依て、御祭等有る可し。

  ぞくしょうさい 〔ただなおほうし すべ   ぶしゅう  おんさた 〕
 屬星祭〔忠尚奉仕可し 武州の御沙汰〕

  てんちさいへんさい 〔のぶkたほうし すべ    そうしゅう  おんさた 〕
 天地災反祭〔宣賢奉仕可し 相州の御沙汰〕

つぎ  れいしょさい おこなは
次に靈所祭を行被る。B

  ゆいのうら  〔だいぜんりょうすけとし〕        かねあらいさわ 〔おんみょうごんのだいじょうはるもち〕
 由比浦〔大膳亮資俊〕    金洗澤〔陰陽權大允リ茂〕

  かたせがわ 〔かぞえのたいふひろすけ〕       むつら 〔さきのうけいりょうつねまさ〕
 固瀬河〔主計大夫廣資〕   六浦〔前右京亮經昌〕

  いたちがわ〔そうしゅうごんのかみとしさだ〕       もりと 〔うたのたいふやすふさ〕
 鼬河〔相州權守俊定〕    杜戸〔雅樂大夫泰房〕

  えのしま 〔ごんのちうたいふしげうじ〕
 江嶋〔備中大夫重氏〕

こんゆう  だいぶっしこうじょう  おお     ぶつぞう  つく  はじ たてまつ  みょうごにち 〔にじうくにち〕  つく  をは たてまつ べ   のよし  うんぬん
今夕、大佛師康定に仰せて、佛像を造り始め奉る。明後日〔廿九日〕造り畢り奉る可し之由と云々。

  せんたいやくしぞう いっしゃくろくすん
 千躰藥師像一尺六寸

  らごうせい 〔 ふんぬのぎょうそう  あおうし   の    さゆう   て   にちげつ   ささ  〕
 羅嗷星@〔忿怒形相 牛に乘り左右の手に日月を捧ぐ〕

  けいとせい 〔ふんぬそう    りゅう  の      ひだりて  ひ   ささ      みぎて  つき  も  〕
 計都星A〔忿怒相 龍に乘り 左手に日を捧げ 右手に月を持つ〕

  ごほんみょうじょうやくしぞう
 御本命星藥師像

 よ  い     けいとせいさい  しゅうさる    〔ふみもとあそん これ   ほうし  〕
夜に入り、計都星祭を修被る。〔文元朝臣之を奉仕す〕

参考@羅喉星は、九曜星の1番目。本尊は大日如来。方位は南東。胎蔵界曼荼羅では南。この年に当たるときは大凶。他行すれば災難有り。又、損失病気口説事あり。慎むべし。
参考A計都星は、九曜星の7番目. 本尊 地蔵菩薩. 方位 南西 胎蔵界曼荼羅では東. この年にあたるときは、何ごとも悪し。 商売は損失または住居に心配事あり。 秋冬は少し良し。計斗星は、九曜の一。昴宿にある星。両手に日月を捧げ憤怒相で青竜に乗る。ヒンドゥー教の神話では日食が起こる月の昇交点がラーフ(羅喉星)、降交点がケートゥ(計斗星)という2人の魔神として擬人化されこの二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅喉星・計斗星の名で七曜に付けくわえられ、九曜の一員を成している。
参考B七瀬の御秡は、七か所の流水場でお祓いをする。場所を書いた記事は、
ここ26巻貞応3年(1224)6月6日条では、  由比ガ浜・七里ヶ浜・片瀬川・六浦・鼬川・森戸海岸・江の島龍穴。
又、27巻寛喜
2年(1230)11月13日条の霊所、由比ガ浜、七里ヶ浜、片瀬川、六浦、鼬川、森戸海岸、田越川。
又、29巻嘉禎
1年(1235)12月27日条の霊所、由比ガ浜、七里ヶ浜、片瀬川、六浦、鼬川、森戸海岸、江の島。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十七日乙卯。続けてお祈りのため、鶴岡八幡宮で仁王経を百人で上げさせました。また、相州時房さんと武州泰時さんは特別に申し出て提供してまじないの祭りをします。

 生まれの干支により運命を支配する北斗七星の星にあてて祈る属星祭は、安陪忠尚が勤めます。泰時さんの提供です。
 天災地変から守る天地災変祭は、安陪宣賢が勤めます。時房さんの提供です。

次に七か所の水流でのお祓いを行いました。
 由比浦は大膳亮資俊   七里ヶ浜は陰陽権大允晴茂
 片瀬川は主計大夫広資  六浦は前左京亮経昌
 いたち川は相州権守俊定 森戸海岸は雅楽大夫泰房
 江ノ島は備中大夫重氏

今日の夕方から、大仏師康定に命令して、仏像を作り始めました。明後日までに作り終えるようにとのことです。

 千体の薬師像は48cm。
 
羅喉星〔怒りに満ちた形相。青い牛に乗り左右の手の平に日月を乗せている〕
 計都星〔怒りに満ちた形相。青竜に乗り、左手に日、右手に月を捧げている〕
 生まれによる守り本尊の薬師如来像

夜になって、計都星のお祈りを行いました〔文元さんが勤めました〕

嘉禎元年(1235)十二月大廿八日丙辰。相州。武州被申請御祭。忠尚。宣賢等今日始行之。又被修三万六千神祭。親職奉仕之。

読下し                      そうしゅう  ぶしゅうおんまつり もう  う   らる   ただなお  のぶかたら きょう これ  しぎょう
嘉禎元年(1235)十二月大廿八日丙辰。相州、武州御祭を申し請け被る。忠尚、宣賢等今日之を始行す。

また さんまんろくせんじんさい しゅうさる   ちかもとこれ  ほうし
又、三万六千神祭を修被る。親職之を奉仕す。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十八日丙辰。時房さん・泰時さんはお祈りを申し出て引き受けました。忠尚と宣賢が今日これを始めました。又、天変地異を防ぐ三万六千神祭を行いました。親職が勤めました。

嘉禎元年(1235)十二月大廿九日丁巳。六波羅飛脚參着。申云。去廿四日辰一點。南都衆徒奉捧春日社神木。發向于木津河邊之間。在京勇士等。依勅定爲奉禦留。悉以馳向。是八幡神人与春日神人鬪諍之刻。當社神人多以被疵之間。爲訴申也。執柄家并藤氏公卿皆以閇門云々。即武州參御所給。評定衆參進。至丑剋。被經條々沙汰。此事爲公卿重事。差進御使。可有沙汰之由。議定畢後。飛脚歸洛。

読下し                       ろくはら   ひきゃくさんちゃく   もう    い       さんぬ にじうよっか たつのいってん
嘉禎元年(1235)十二月大廿九日丁巳。六波羅の飛脚參着し、申して云はく。去る 廿四日 辰一點、

なんと  しゅと かすがしゃ  しんぼく  ささ たてまつ   きづがわあた  に はっこうのあいだ
南都の衆徒春日社の神木を捧げ奉り、木津河邊り于發向之間、

ざいきょう  ゆうしら  ちょくじょう よっ  ふせ  とど たてまつ  ため ことごと もっ  は   むか
在京の勇士等、勅定に依て禦ぎ留め奉らん爲、悉く以て馳せ向う。

これ  はちまんじんにんと かすがじんにん とうじょうのとき  とうしゃ じんにんおお  もっ  きずされ のあいだ  うった もう  ためなり
是、八幡神人与春日神人、鬪諍之刻、當社の神人多く以て疵被る之間、訴へ申す爲也。

しっぺいけなら    とうし   くぎょう  もなもっ  もん  とざ    うんぬん
執柄家并びに藤氏の公卿、皆以て門を閇す@と云々。

すなは ぶしゅう ごしょ  まい  たま  ひょうじょうしゅう さんしん   うしのこく いた   じょうじょう   さた  へ ら
即ち武州御所へ參り給ふ。評定衆 參進す。丑剋に至り、條々の沙汰を經被る。

かく  こと  くぎょう  ちょうじたり  おんし   さ   すす     さた あ   べ   のよし  ぎじょう をはんぬ のち ひきゃくきらく
此の事、公卿の重事爲。御使を差し進め、沙汰有る可き之由、議定し畢の 後、飛脚歸洛す。

参考@皆以て門を閇すは、春日大社は藤原氏の氏寺なので、逆らうと放氏(姓氏を取上げられ)をされて神様に見放されるから。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大二十九日丁巳。六波羅からの伝令が到着して報告するのには、「先日の24日の午前七時過ぎ、奈良の興福寺の僧兵共が、春日大社のご神木を担いで、木津川辺りへ進んだので、京都駐在の武士たちが、朝廷の命令で京都への親友を阻止するため皆走り向かいました。この原因は、石清水八幡宮の下っ端侍と春日大社の下っ端侍とが喧嘩をした時、春日大社の侍が大勢怪我をさせられたことを、朝廷に訴えるためです。摂関家や藤原氏の一門は氏寺のお怒りなので、下手に逆らうと藤原氏の名を取り上げられてしまうので、皆門を閉めてしまいました。」とさ。すぐに泰時さんは御所へあがりました。政務検討員の評定衆が集まりました。午前2時頃まで色々と検討されました。この問題は、公卿にとって一大事です。使いを派遣して処理しようと衆議一決したので、伝令は京都へ帰りました。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。辰なら7時〜7:24を一点、7:24〜7:48を二点、7:48〜8:12を三点、8:12〜8:36を四点、8:36〜9:00を五点。

嘉禎元年(1235)十二月大卅日戊午。佛師康定。去夜奉造畢尊形。是千躰藥師。祿存星。羅計二星等也。仍今日早旦。奉渡于卿法印良信本坊。即爲導師。展開眼供養之儀。藤内判官定員行向彼坊奉行之。兩國司渡御。以巻絹十疋。南庭一。被宛布施物云々。

読下し                     ぶっし こうじょう  さんぬ よ そんぎょう つく  お  たてまつ   これ  せんたいやくし ろくぞんせい ら けい にせい な なり
嘉禎元年(1235)十二月大卅日戊午。佛師康定、去る夜尊形を造り畢え奉る。 是、千躰藥師、祿存星@、羅計二星等也。

よっ  きょう   そうたん きょうのほういんりょうしんぼうに わた たてまつ   すなは どうし  し     かいがんくようの ぎ  の
仍て今日の早旦、卿法印良信本坊于渡し奉る。 即ち導師を爲て、開眼供養之儀を展ぶ。

とうないほうがんさだかず  かのぼう  ゆ   むか  これ  ぶぎょう
藤内判官定員、彼坊へ行き向い之を奉行す。

りょうこくし わた  たま   まきぎぬせんびき なんてい いつ もっ  ふせもの  あてらる    うんぬん
兩國司渡り御う。巻絹十疋、南庭A一を以て布施物に宛被ると云々。

参考@祿存星は、財産を司り、衣食住の充実に巨大な能力を発揮する。
参考A南庭は、銀の延べ板で、レンガ大で厚さはレンガの半分。

現代語嘉禎元年(1235)十二月大三十日戊午。仏師の康定は、昨夜仏像を作り終えました。これは、千体の薬師如来、羅喉星と計都星の二つの星です。出来たので今日の早朝に卿法印良信の坊舎へ渡しました。すぐに指導僧によって開眼供養の儀式を行いました。藤内判官定員が、その坊舎へ行って指示担当をしました。時房さんと泰時さんもお参りに行きました。巻いた絹の反物10匹、銀の延べ板1枚をお布施にしましたとさ。

吾妻鏡入門第廿九巻

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