文暦二年乙未(1235)正月小
文暦二年(1235)正月小一日乙未。垸飯〔相州御沙汰〕。御釼駿河前司義村持參之。御弓矢出羽前司家長。御行騰相摸式部大夫。 |
読下し おうばん 〔そうしゅう おんさた 〕 ぎょけん するがのぜんじよしむら これ も まい
文暦二年(1235)正月小一日乙未。垸飯〔相州の御沙汰〕。御釼は駿河前司義村、之を持ち參る。
おんゆみや でわのぜんじいえなが おんむかばき さがみしきぶのたいふ
御弓矢は出羽前司家長。御行騰は相摸式部大夫。
現代語文暦二年(1235)正月小一日乙未。将軍(頼経18才)への御馳走のふるまいは、相州北条時房さんの献上です。刀の献上は駿河前司三浦義村さんが持ってきました。弓矢の献上は出羽前司中条家長。乗馬袴(行縢)乗馬沓は相模式部大夫大仏流北条朝直です。
文暦二年(1235)正月小二日丙申。垸飯〔武州御沙汰〕。御釼陸奥式部大夫。御調度駿河次郎。御行騰越後太郎。 |
読下し おうばん 〔 ぶしゅう おんさた 〕 ぎょけん むつのしきぶのたいふ ごちょうど するがのじろう おんむかばき えちごのたろう
文暦二年(1235)正月小二日丙申。垸飯〔武州の御沙汰〕。御釼は陸奥式部大夫。御調度は駿河次郎。御行騰は越後太郎。
現代語文暦二年(1235)正月小二日丙申。将軍(頼経18才)への御馳走のふるまいは、武州北条泰時さんの献上です。刀の献上は陸奥式部大夫北条政村。弓矢の献上は駿河次郎三浦泰村。乗馬袴(行縢)乗馬沓は越後太郎北条光時です。
文暦二年(1235)正月小三日丁酉。垸飯〔越州御沙汰〕。御釼駿河前司。御調度加賀守。御行騰城太郎。 |
読下し おうばん 〔えつしゅう おんさた 〕
ぎょけん するがのぜんじ ごちょうど かがのかみ おんむかばき じょうのたろう
文暦二年(1235)正月小三日丁酉。垸飯〔越州の御沙汰〕。御釼は駿河前司。御調度は加賀守。御行騰は城太郎。
現代語文暦二年(1235)正月小三日丁酉。将軍(頼経18才)への御馳走のふるまいは、越州名越流北条朝時さんの献上です。刀の献上は駿河前司三浦義村。弓矢の献上は加賀守町野康俊。乗馬袴(行縢)乗馬沓は城太郎安達義景です。
文暦二年(1235)正月小五日己亥。將軍家御方違事。被經御沙汰云々。 |
読下し
しょうぐんけ おんかたたが こと おんさた
へ ら うんぬん
文暦二年(1235)正月小五日己亥。將軍家の御方違への事、御沙汰を經被ると云々。
現代語文暦二年(1235)正月小五日己亥。将軍頼経様(18歳)の方角変えについて、協議をしましたとさ。
文暦二年(1235)正月小九日癸卯。霽。將軍家節分御方違。入御越後守名越亭。此宿所始入御之間。毎事盡花美。 |
読下し はれ しょうぐんけ
せちぶん おんかたたが えちごのかみ
なごえてい い たま
文暦二年(1235)正月小九日癸卯。霽。將軍家、節分の御方違へ。越後守が名越亭へ入り御う。
かく すくしょはじ
い たま のあいだ まいじ かび つく
此の宿所始めて入り御う之間、毎事花美を盡す。
現代語文暦二年(1235)正月小九日癸卯。晴れました。将軍頼経様の節分の方角変えで、越後守北条朝時さんの名越の屋敷へ入られました。この宿所へは初めて入られたので、全てに贅沢を極めております。
文暦二年(1235)正月小十二日丙午。快霽。將軍家御參鶴岳八幡宮〔御束帶。御車〕。佐原新左衛門尉持御釼。攝津左衛門尉懸御調度。」今夜。爲御方違。入御周防前司親實大倉家。是爲大將軍王相方御方違也。春間十五日一度。可有渡御也。 |
読下し
かいせい しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん 〔おんそくたい おくるま〕 さはらのしんさえもんのじょう
ぎょけん も
文暦二年(1235)正月小十二日丙午。快霽。將軍家
鶴岳八幡宮 へ御參〔御束帶。御車〕。佐原新左衛門尉
御釼を持つ。
せっつのさえもんのじょう
ごちょうど か
攝津左衛門尉御調度を懸く。」
こんや おんかたたが
ため すおうのぜんじちかざね おおくら いえ
い たま これ だいしょうぐん おうそうかた おんかたたが
ためなり
今夜、御方違への爲、周防前司親實が大倉の家へ入り御う。是、大將軍@王相A方の御方違への爲也。
はる あいだじうごにち いちど
とぎょ あ べきなり
春の間十五日に一度、渡御有る可也。
参考@大将軍は、素戔嗚尊らしい。陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。金星で3年ごとに居を変え、その方角は万事凶とされ、特に土を動かす事が良くないとされる。
参考A王相は、王神と相神で月ごとに方角が禁忌とされる。
現代語文暦二年(1235)正月小十二日丙午。快晴です。将軍頼経様(18)は鶴岡八幡宮へお参りです〔衣冠束帯で牛車です〕。三浦佐原新左衛門尉胤家が刀持ち。摂津左衛門尉狩野為光が弓矢を担いでいます。」
今夜、方角変えのため、周防前司中原親実の大倉の屋敷へお入りです。これは大将軍と王相の方角が悪いから変えるのです。春の間は15日に一度廻ってきますので、方角を変えます。
文暦二年(1235)正月小十五日己酉。五大尊堂門木作始也。來月十日依可被立堂舎。先有此沙汰。周防前司親實。攝津左衛門尉爲光奉行之。 |
読下し
ごだいそんどう もん こづく はじ なり
文暦二年(1235)正月小十五日己酉。五大尊堂の門、木作り始め也。
らいげつとおかどうしゃ
たてられ
べ よっ ま かく さた あ すおうのぜんじちかざね せっつのさえもんのじょうためみつ
これ ぶぎょう
來月十日堂舎を立被る可しに被て、先ず此の沙汰有り。周防前司親實、 攝津左衛門尉爲光 之を奉行す。
現代語文暦二年(1235)正月小十五日己酉。五大堂の門の、柱類の切り刻み初めです。来月10日には建物を建てるようにと、まずこの命令がありました。周防前司中原親実と摂津左衛門尉狩野為光が指揮担当です。
文暦二年(1235)正月小廿日甲寅。將軍家爲御方違。入御于周防前司親實大倉家。明日依可被立五大堂之門。令違天一方給云々。而先之。就御方違方角事。前漏刻博士宣友有申旨。仍御出以前。於小御所東面。直被召決之。忠尚、親軄、リ賢、文元等候于渡殿透廊北縁。宣友申云。遊年方。与大將軍王相。各別無謂云々。忠尚等云。各別事也。越州亭者。爲令違御遊年方御。周防前司家者。自舊年爲御本所被違御方訖云々。 |
読下し
しょうぐんけ おんかたたが ため
すおうのぜんじちかざね おおくら いえに い たま
文暦二年(1235)正月小廿日甲寅。將軍家
御方違への爲、周防前司親實の大倉の家于入り御う。
あす
ごだいどうの もん たてられ べ よっ
てんいつ かた たが せし たま うんぬん
明日五大堂之門を立被る可きに依て、天一@方を違は令め給ふと云々。
しか これ さき おんかたたが
ほうがく こと つ
さきのろうこくはくじのぶとも もう むねあ
而るに之より先、御方違への方角の事に就き、前漏刻博士宣友
申す旨有り。
よっ おんいでいぜん こごしゃ とうめん をい じき これ めしけっ られ
仍て御出以前に、小御所の東面に於て、直に之を召決せ被る。
ただなお ちかもと
はるかた ふみもとら わたどのすいろう ほくえんに
そうら
忠尚、親軄、リ賢、文元等渡殿透廊の北縁于候う。
のぶとももう い ゆうねん
かたと だいしょうぐんおうそう
かくべつ いは な うんぬん
宣友申して云はく。遊年の方与
大將軍王相、各別な謂れ無しと云々。
ただなおら
い
かくべつ ことなり えつしゅう ていは ごゆうねん
かた たが せし たま ため
忠尚等云はく。各別の事也。越州が亭者、御遊年の方を違へ令め御はん爲。
すおうのぜんじ
いえは きゅうねんよ ごほんじょ な おんかた
たが られをはんぬ うんぬん
周防前司の家者、舊年自り御本所と爲し御方を違へ被
訖 と云々。
参考@天一は、天一神(なかがみ)が天に上っているという日。癸巳の日から戊申の日までの16日間。
現代語文暦二年(1235)正月小二十日甲寅。将軍頼経様は方角変えのため、周防前司中原親実さんの大倉の屋敷へ入りました。明日、五大堂明王院の門を建てるので、その出かける方向が、天一神の居る方向だから変えます。それなのにその前に方角変えの方向について、前漏刻博士(時間計算責任者)の安陪宣友さんが言い分があります。それで出かける前に小御所の東の濡れ縁で、将軍様の前に直接集め対決させました。安陪忠尚・安陪親職・安陪晴賢・安陪文元などが、渡り廊下の吹き抜け作りの北に集まりました。安陪宣友が云うには「お出かけの方角に大将軍と王相との関係は特にいけないと云う謂われはありません。」とのことです。安陪忠尚達が云うのには、「これは特別な事です。越州北条朝時様の屋敷は、お出かけ用に方角変えとしました。周防前司中原親実さんの家は、去年から滞在場所として方角変えをしているからです。」だそうな。
文暦二年(1235)正月小廿一日乙卯。御願五大堂建立事。相州。武州度々巡檢。被撰鎌倉中之勝地。去年雖被定城太郎甘繩地。猶不相叶。頗思食煩之處。相當于幕府鬼門方有此地。毛利藏人大夫入道西阿領也。依爲御祈祷相應之所。被點之。即被引地訖。仍今日先総門計被建之。相州。武州。大膳權大夫以下數輩被相向。伊賀式部入道光西。C判官季氏等爲奉行。 |
読下し
ごがん ごだいどうこんりゅう こと そうしゅう ぶしゅう
たびたび じゅんけん かまくらちうの
しょうち えら れる
文暦二年(1235)正月小廿一日乙卯。御願の五大堂建立の事、相州、武州
度々 巡檢し、鎌倉中之勝地を撰ば被。
きょねん じょうのたろう
あまなわ ち さだ らる いへど
なおあいかな ず すこぶ おぼ め わずら のところ
ばくふ きもん かたに あいあた かく ち あ
去年、城太郎が甘繩の地を定め被ると雖も、猶相叶は不。頗る思し食し煩う之處、幕府の鬼門の方于相當り此の地有り。
もうりくらんどたいふにゅうどうせいあ りょうなり ごきとう そうおうのところたる よっ これ てん られ すなは ち ひかれをはんぬ
毛利藏人大夫入道西阿が領也。御祈祷相應之所爲に依て、之を點じ被る。即ち地を引被
訖。
よっ きょう ま そうもんばか
これ たてられ
仍て今日先ず総門計り之を建被る。
そうしゅう ぶしゅう だいぜんごんのたいふいげ すうやから
あいむかはれ いがのしきぶにゅうどうこうさい せいのほうがんすえうじら ぶぎょうたり
相州、武州、
大膳權大夫 以下數輩 相向被る。 伊賀式部入道光西、
C判官季氏等 奉行爲。
現代語文暦二年(1235)正月小二十一日乙卯。将軍念願の五大堂明王院建立について、相州時房さんと武州泰時さんが何度も捜し歩いて鎌倉内の景勝の土地を選んだのです。去年は、城太郎安達義景の甘縄の土地を決めたのですが、お気に召しませんでした。かなり思い悩まれたのですが、幕府の鬼門に当たる場所にこの地がありました。蔵人大夫入道西阿毛利季光の領地です。それ相応の祈祷をしたうえでそこに指定しました。すぐに現地縄張りをしました。そして今日、まず総門だけを建設しました。相州時房さん・武州泰時さん、大膳権大夫中原師員さんを始め数人が一緒に向いました。伊賀式部入道光西伊賀光宗と判官清原季氏が指揮担当です。
文暦二年(1235)正月小廿六日庚申。今夜。爲御方違。入御周防前司親實大倉家。於此所有庚申御會。被講二首和歌。題。竹間鸎。寄松祝。石山侍從。河内前司光行入道。大夫判官基綱。式部大夫入道光西。東六郎行胤等進懷紙云々。 |
読下し
こんや おんかたたが
ため すおうのぜんじちかざね おおくら
いえ い たま
文暦二年(1235)正月小廿六日庚申。今夜、御方違への爲、周防前司親實が大倉の家へ入り御う。
かく ところ をい こうしん おんえ あ にしゅ わか こう られ だい ちけま うぐいす まつ よ いわ
此の所に於て庚申の御會有り。二首の和歌を講じ被る。題は、竹間の鸎。松に寄せて祝う。
いしやまじじゅう かわちぜんじみつゆきにゅうどう たいふほうがんもとつな しきぶのたいふにゅうどうこうさい とうのろくろうゆきたね
ら かいし しん うんぬん
石山侍從、
河内前司光行入道、 大夫判官基綱、
式部大夫入道光西、 東六郎行胤 等懷紙を進ずと云々。
現代語文暦二年(1235)正月小二十六日庚申。将軍頼経様は、今夜は方角変えのため周防前司中原親実の大倉の屋敷へ入りました。そこで庚申のねずの宴があり、二首の題の和歌を歌いあいました。題名は「竹藪の鶯」と、「縁起の良い松を使って祝う」です。石山侍従藤原教定・河内前司源光行入道・大夫判官後藤基綱・式部大夫入道光西伊賀光宗・東六郎行胤などが、歌を書いた和歌懐紙を提出しましたとさ。
文暦二年(1235)正月小廿七日辛酉。被禁断鎌倉中僧徒之兵杖云々。 |
読下し
かまくらちう そうとの へいじょう
きんだんされ うんぬん
文暦二年(1235)正月小廿七日辛酉。鎌倉中の僧徒之兵杖を禁断被ると云々。
現代語文暦二年(1235)正月小二十七日辛酉。鎌倉中の坊さんの武器の保有を禁止しました。
解説この記事により鎌倉にも僧兵が居たことがわかる。