吾妻鏡入門第卅巻

文暦二年乙未(1235)二月大

文暦二年(1235)二月大三日丙寅。於五大尊堂地。被始行土公祭。陰陽道相替連日可奉仕之由云々。

読下し                    ごだいそんどう  ち   をい    どくうさい  しぎょう   おんみょうどう あいかわ れんじつほうしすべ   のよし  うんぬん
文暦二年(1235)二月大三日丙寅。五大尊堂の地に於て、土公祭を始行す。陰陽道 相替り連日奉仕可き之由と云々。

現代語文暦二年(1235)二月大三日丙寅。五大堂明王院建設予定地で、土を掘り起こすため土の神様との契約の儀式を始めました。陰陽師の人達が交代で連日行うようにとの仰せだそうな。

文暦二年(1235)二月大四日丁卯。於五大堂地。可被崇社之由。有其沙汰。可奉勸請于唐門外之由。兼日被思食之處。其地狹小之間。相州。武州。并大膳權大夫。駿河前司等參會于件地。各加評議。可被卜門内歟。又可被點堂後山歟。意見區分。但山者自堂地高所也。可爲何樣哉之由。被仰合有職并陰陽道。仍如此惣社之地事。訪所處之例。強不及撰高下。宜依地形之由。河内入道〔光行〕。親職。リ賢等一同申之。此上有沙汰以堂東地可定其所云々。

読下し                    ごだいどう  ち   をい   やしろ あがめるべ   のよし  そ   さた あ
文暦二年(1235)二月大四日丁卯。五大堂の地に於て、社を崇被可き之由、其の沙汰有り。

からもん  そとにかんじょう たてまつ べ  のよし  けんじつおぼ めさる  のところ  そ   ち きょうしょうのあいだ
唐門の外于勸請し奉る可き之由、兼日思し食被る之處、其の地 狹小之間、

そうしゅう ぶしゅうなら   だいぜんごんのたいふ するがのぜんじらくだん  ちにさんかい
相州、武州并びに 大膳權大夫、 駿河前司等件の地于參會す。

おのおの ひょうぎ  くは    もんない  ぼくさる  べ   か   また  どう うしろやま  てん  らる  べ   か
 各 評議を加ふ。門内に卜被る可き歟。又、堂の後山を點じ被る可き歟。

いけん くぶん     ただ  やまは どう  ち よ   こうしょなり  いかようたるべ   や のよし  ゆうしきなら   おんみょうどう  おお  あ   さる
意見區分す。但し山者堂の地自り高所也。何樣爲可き哉之由、有職并びに陰陽道に仰せ合は被る。

よっ  かく  ごと  そうじゃの ち   こと  しょしょの れい  とぶら  あながち こうげ   えら    およばず
仍て此の如き惣社之地の事、所處之例を訪ひ、強に高下を撰ぶに及不。

よろ    ちけい   よ   のよし  かわちにゅうどう 〔みつゆき〕  ちかもと はるかたら いちどう  これ  もう
宜しく地形に依る之由、河内入道〔光行〕、親職、リ賢等一同に之を申す。

かく  うえ さた あ     どう  ひがし ち   もっ  そ  ところ  さだ  べ     うんぬん
此の上沙汰有りて堂の東の地を以て其の所に定む可きと云々。

現代語文暦二年(1235)二月大四日丁卯。五大堂明王院建設予定地内に、寺を守る神社を建設するように命令がありました。神社は唐門の外に建てるように前々から決めていましたが、そこの土地は狭すぎるので、相州時房さんや武州泰時さん、それに大膳権大夫中原師員さんや駿河前司三浦義村さんがこの場所に集まりました。みんなで話し合いましたが、門内にしようか、それともお堂の後ろの山を指定すべきか、意見が分かれました。ただし、山はお堂の土地より高い所になる。どうしたものかと学識者や陰陽師に聞いてみました。そこでこのような神社の建立地について、あちこちの例を調べてみたら高い低いで選ぶ必要はない。万事地形によると識者の河内入道源光行や陰陽師の安陪親職・安陪晴賢などが一斉にそう云いました。それらを踏まえて決断され、お堂の東側の土地にお決めになりましたとさ。

文暦二年(1235)二月大九日壬申。將軍家入御于後藤大夫判官基綱大倉宅。御水干。御騎馬也。陸奥式部大夫。相摸式部大夫。前民部少輔。駿河前司。伊東大夫判官。駿河大夫判官等供奉。五位水干。六位直垂。立烏帽子。上野七郎左衛門尉。同五郎。武田六郎。以上三人。着甲候于最末。今夜御止宿彼家。遊興非一。先御的。次小笠懸。次御鞠。次御酒宴。管絃。入夜和歌御會云々。相州。武州參給。
御的
  射手
 一番 三浦駿河次郎    岡邊左衛門四郎
 二番 佐々木八郎左衛門尉 神地四郎
 三番 武田六郎      横溝六郎
小笠懸
 相摸式部大夫       駿河次郎
 小山五郎左衛門尉     相摸五郎
 近江三郎左衛門尉     佐々木八郎左衛門尉
 横溝六郎         宇都宮四郎左衛門尉
 武田六郎         上総介太郎

読下し                    しょうぐんけ  ごとうのたいふほうがんもとつな おおくら  たくに い   たま   ごすいかん  おんきばなり
文暦二年(1235)二月大九日壬申。將軍家、後藤大夫判官基綱の大倉の宅于入り御う。御水干、御騎馬也。

むつのしきぶのたいふ  さがみしきぶのたいふ  さきのみんぶしょうゆう  するがのぜんじ  いとうのたいふほうがん  するがのたいふほうがんら ぐぶ
陸奥式部大夫、相摸式部大夫、 前民部少輔、 駿河前司、 伊東大夫判官、 駿河大夫判官等供奉す。

 ごい  すいかん  ろくい  ひたたれ  たてえぼし
五位は水干。六位は直垂。立烏帽子。

こうづけにしちろうさえもんのじょう  おな    ごろう  たけだのろくろう  いじょうさんにん   よろい つ   さいまつにそうら
上野七郎左衛門尉、同じき五郎、武田六郎、以上三人は、甲を着け最末于候う。

こんや か  いえ  ごししゅく  ゆうきょういつ  あら    ま   おんまと  つぎ  こがさがけ  つい  おんまり  つい  ごしゅえん  かんげん
今夜彼の家に御止宿。遊興一に非ず。先ず御的。次に小笠懸。次で御鞠。次で御酒宴、管絃。

よ   い    わか   おんえ  うんぬん  そうしゅう ぶしゅうさん  たま
夜に入り和歌の御會と云々。相州、武州參じ給ふ。

おんまと
御的

     いて
  射手

  いちばん みうらのするがじろう          おかべのさえもんしろう
 一番 三浦駿河次郎    岡邊左衛門四郎

   にばん ささきのはちろうさえもんのじょう    かみちのしろう
 二番 佐々木八郎左衛門尉 神地四郎

  さんばん たけだのろくろう             よこみぞのろくろう
 三番 武田六郎      横溝六郎

 こがさがけ
小笠懸

  さがみのしきぶたいふ               するがのじろう
 相摸式部大夫       駿河次郎

  おやまのごろうさえもんのじょう           さがみのごろう
 小山五郎左衛門尉     相摸五郎

  おうみにさぶろうさえもんのじょう          ささきのはちろうさえもんのじょう
 近江三郎左衛門尉     佐々木八郎左衛門尉

  よこみぞのろくろう                  うつのみやのしろうさえもんのじょう
 横溝六郎         宇都宮四郎左衛門尉

  たけだのろくろう                   かずさのすけたろう
 武田六郎         上総介太郎

現代語文暦二年(1235)二月大九日壬申。将軍頼経様は、大夫判官後藤基綱の大倉の屋敷へ入られました。水干を着て馬に乗っています。陸奥式部大夫北条政村・相模式部大夫北条朝直・前民部少輔三条親実・駿河前司三浦義村・大夫判官伊東祐時・駿河大夫判官三浦光村がお供をしました。五位の人は水干を着て、六位は直垂です。皆立烏帽子です。上野七郎左衛門尉結城朝広・同五郎結城重光・武田六郎信長の三人は鎧を着て、一番後について行きました。今夜は後藤基綱の家へお泊りです。お遊びは一種類だけに限りません。まずは、弓矢での的打ち、次は小笠懸です。その後に蹴鞠。宴会。管弦の演奏と続き、夜になって和歌の会を催しました。相州時房さんも武州泰時さんも出席です。
的矢
  射手は
 
一番が、駿河次郎三浦泰村    岡部左衛門四郎
 二番が、佐々木八郎左衛門尉信朝 神地四郎
 三番が、武田六郎信長      横溝六郎義行
小笠懸は
 相模式部大夫北条朝直 駿河次郎三浦泰村
 小山五郎左衛門尉長村 相模五郎北条時直
 近江三郎左衛門尉頼重 佐々木八郎左衛門尉信朝
 横溝六郎義行     宇都宮四郎左衛門尉頼業
 武田六郎信長     上総介太郎

文暦二年(1235)二月大十日癸酉。天リ風靜。將軍家自基綱家渡御于五大尊堂之地。相州。武州。大膳權大夫。駿河前司。長井左衛門大夫。出羽前司。加賀守以下供奉。今日被立御堂。親職。リ賢。文元等朝臣參進。申時刻事。及午刻有其儀。大工矢板次郎大夫也。引頭四人參上。事終。又工等賜祿。判官代大夫隆邦。C判官季氏等爲奉行。
大工分
 馬二疋
  一御馬〔鹿毛置鞍〕 野内太郎兵衛尉  同次郎引之
  二御馬〔黒葦毛〕  本間次郎左衛門尉 同四郎
 十物十種
  絹十疋  染絹十端 綿十兩 白布十端 藍摺十段
  奥布十端 直垂紺十 帷紺十 色革十枚
引頭分
 馬一疋
 五物五種
  絹五疋  白布五端 直垂紺五 帷紺五 奥布五段
    以上人別定
此外。桧皮大工。壁塗。鍛冶等。各御馬一疋。馬者。兩國司。并駿河前司。小山下野入道。千葉介等所進。以下皆政所沙汰也。

読下し                    そらはれかぜしずか しょうぐんけ もとつな いえよ     ごだいどう の ちに わた  たま
文暦二年(1235)二月大十日癸酉。
天リ風靜。 將軍家 基綱の家自り、五大堂之地于渡り御う。

そうしゅう ぶしゅう だいぜんごんのたいふ するがのぜんじ  ながいのさえもんたいふ  でわのぜんじ  かがのかみ いげ ぐぶ     きょう みどう   たてらる
相州、武州、大膳權大夫、駿河前司、長井左衛門大夫、出羽前司、加賀守已下供奉す。今日御堂を立被る。

ちかもと はるかた  ふみもとら   あそんさんしん    じこく  こと  もう
親職、リ賢、文元等の朝臣參進し、時剋の事を申す。

うまのこく およ  そ   ぎ あ     だいこうやいたのじろうたいふなり  いんとうよにんさんじょう
午剋に及び其の儀有り。大工矢板二郎大夫也。引頭四人參上す。

ことおは    たくみらろく  たま     ほうがんだいたいふたかくに せいのほうがんすえうじら ぶぎょう  な
事終りて工等祿を賜はる。判官代大夫隆邦、C判官季氏等 奉行を爲す。

だいこうぶん
大工分

  うまにひき
 馬二疋

    いちのおんうま 〔 かげ くら  お   〕    のうちのたろうひょうえのじょう   おな    じろう これ  ひ
  一御馬〔鹿毛鞍を置く〕 野内太郎兵衛尉  同じき次郎之を引く

     にのおんうま 〔 くろあしげ 〕         ほんまのじろうさえもんのじょう   おな    しろう
  二御馬〔黒葦毛〕    本間次郎左衛門尉 同じき四郎

  じうぶつじっしゅ
 十物十種

    きぬじっぴき   そめぎぬじったん わたじうりょう しらぶじったん  あいずりじったん
  絹十疋  染絹十端 綿十兩 白布十端 藍摺十段

    おくふ じったん ひたたれこんじう かたびらこんじう いろかわじうまい
  奥布十端 直垂紺十  帷紺十  色革十枚

いんとうぶん
引頭分

  うまいっぴき
 馬一疋

  ごぶつごしゅ
 五物五種

    きぬごひき     しらぶごたん  ひたたれこんご かたびらこんご  おくふごたん
  絹五疋  白布五端 直垂紺五  帷紺五 奥布五段

         いじょうじんべつ  さだ
    以上人別に定む

 こ  ほか  ひわだだいく  かべぬり   かぢ ら おのおの おんうまいっぴき
此の外、桧皮大工、壁塗、鍛冶等、 各 御馬一疋。

うまは  りょうこくしなら    するがのぜんじ  おやまのしもつけにゅうどう  ちばのすけら すす  ところ いげ みな まんどころ  さたなり
馬者、兩國司并びに駿河前司、 小山下野入道、 千葉介等進める所以下皆 政所の沙汰也。

現代語文暦二年(1235)二月大十日癸酉。空は晴れて風は静かです。将軍頼経様は後藤基綱の家から五大堂明王院の地へ行かれました。相州北条時房・武州北条泰時・大膳権大夫中原師員・駿河前司三浦義村・長井左衛門大夫泰秀・出羽前司中条家長・加賀守町野康俊以下の御家人がお供をしました。今日、お堂の建築です。安陪親職・安陪晴賢・安陪文元などの陰陽師が進み出て、縁起の良い時間を申し上げました。正午になってその式典がありました。建設責任者の棟梁は矢板二郎大夫です。進行役の引頭は四人きました。式典が終わって、技術者たちに褒美が与えられました。判官代大夫橘隆邦・判官清原季氏が担当です。
棟梁の分は
 馬二頭、一頭目は鹿毛で鞍を乗せています。が、野内太郎兵衛尉と弟の次郎が引いてきました。
 二頭目は、黒の葦毛で、本間次郎左衛門尉信忠と弟の四郎光忠が引いてきました。
 それに十づつの品を十種類です。
  絹が十匹(二十反分)、染めた絹十反、綿十両、白い布十反、藍色の摺り染めが十反
  奥州産の高級布十反、紺色の直垂十着、紺色の帷子十着、色つきの皮十枚です。
進行役の分は
 馬一頭
 五つづつが五種類で、絹五匹(十反分)、白い布五反、紺の直垂五着、紺の帷子五着、奥州産の高級布五反です。
    以上をそれぞれに配りました。
この他に、桧の皮で屋根を葺く職人の棟梁、左官屋さん、鍛冶屋さんにそれぞれ馬一頭を与えました。馬は、両国司の時房さん・泰時さん、駿河前司三浦義村・下野入道小山朝政・千葉介時胤が将軍に差し出した馬などを、政務事務所で選びました。

文暦二年(1235)二月大十五日戊寅。於御所南面。被行涅槃經論議。
僧衆八人
 光寳法印 兼盛法印
 定親僧都 頼兼僧都
 憲性僧都 定C律士
 審範已講 定修阿闍梨
晩景事終。有布施。左近大夫將監佐房。左近藏人親光。駿河藏人等取之。

読下し                      ごしょ  なんめん  をい    ねはんきょうろんぎ  おこなはれ
文暦二年(1235)二月大十五日戊寅。御所の南面に於て、涅槃經論議を行被る。

そうしゅう はちにん
僧衆 八人

  こうほうほういん  けんせいほういん
 光寳法印 兼盛法印

  ていしんそうづ   らいけんそうづ
 定親僧都 頼兼僧都

  けんしょうそうづ  じょうせいりっし
 憲性僧都 定C律士

  しんぱんいこう  ていしゅうあじゃり
 審範已講 定修阿闍梨

ばんけい ことおわ    ふせ あ     さこんたいふしょうげんすけふさ  さこんくらんどちかみつ  するがのくらんどら これ  と
晩景に事終り、布施有り。 左近大夫將監佐房、 左近藏人親光、 駿河藏人等之を取る。

現代語文暦二年(1235)二月大十五日戊寅。御所の公務用の南面で、坊さん同士の涅槃経の問答会を行いました。
坊さんは八人で、
 光宝法印 対 兼盛法印
 定親僧都 対 頼兼僧都
 憲性僧都 対 定清律師
 審範
已講 対 定修阿闍梨
夕方には終り、お布施が出されました。近衛左近将監大江佐房、左近蔵人源親光、駿河蔵人等がこれを配りました。

解説二月十五日は、釈迦の涅槃の日(入滅)と謂われる。

文暦二年(1235)二月大十八日辛巳。霽。弁僧正定豪於本坊供養一切經。導師興福寺東南院法印公宴。咒願大藏卿法印良信也。將軍家爲御結縁出御〔御輿〕。武藤左近將監役御釼。相州。武州以下供奉。

読下し                      はれ べんのそうじょう じょうごう ほんぼう  をい  いっさいきょう  くよう
文暦二年(1235)二月大十八日辛巳。霽。 弁僧正 定豪 本坊に於て一切經を供養す。

どうし   こうふくじとうなんいんほういんこうえん  しゅがん おおくらきょうのほういんりょうしんなり
導師は興福寺東南院法印公宴。咒願は大藏卿法印良信也。

しょうぐんけ ごけちえん ため い  たま  〔おんこし〕   むとうさこんしょうげんぎょけん  えき    そうしゅう ぶしゅう いげ ぐぶ
將軍家御結縁の爲出で御う〔御輿〕。武藤左近將監御釼を役す。相州、武州以下供奉す。

現代語文暦二年(1235)二月大十八日辛巳。晴れました。弁僧正定豪が、自分の僧坊で一切経の式典を主催しました。指導僧は、興福寺の東南院の法印公宴で、願文を読むのは大蔵卿法印良信です。将軍頼経様も仏様との縁を結ぶため出席しました〔輿です〕。武藤左近将監が刀持ちです。相州北条時房さんや武州北条泰時さん以下がお供をしました。

三月へ

吾妻鏡入門第卅巻

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