吾妻鏡入門第卅巻

文暦二年乙未(1235)三月小

文暦二年(1235)三月小三日丙申。小雨灑。鶴崗八幡宮恒例神事。將軍家御參宮。

読下し                    こさめ そそ   つるがおかはちまんぐう こうれい  しんじ  しょうぐんけ ごさんぐう
文暦二年(1235)三月小三日丙申。小雨灑ぐ。 鶴崗八幡宮 恒例の神事。將軍家御參宮。

現代語文暦二年(1235)三月小三日丙申。小雨が降っています。鶴岡八幡宮での恒例の上巳の節句の神事です。将軍頼経様(18)もお参りです。

文暦二年(1235)三月小五日戊戌。午刻被立五大堂鐘樓。相州。武州被參。

読下し                    ごだいどう  しょうろう  たてられ   うんぬん  そうしゅう ぶしゅうまいらる
文暦二年(1235)三月小五日戊戌。五大堂に鐘樓を立被ると云々。相州、武州參被る。

現代語文暦二年(1235)三月小五日戊戌。五大堂に鐘楼(鐘撞堂)を立てたんだそうな。相州北条時房さん、武州北条泰時さんもそこへ来ました。

文暦二年(1235)三月小九日壬寅。リ。亥刻大地震。

読下し                   はれ  いのこくおおぢしん
文暦二年(1235)三月小九日壬寅。リ。亥刻大地震。

現代語文暦二年(1235)三月小九日壬寅。晴れです。午後10時頃地震です。

文暦二年(1235)三月小十一日甲辰。始行天変地震御祈等云々。

読下し                     てんぺんぢしん  おいのりら   しぎょう    うんぬん
文暦二年(1235)三月小十一日甲辰。天変地震の御祈等を始行すと云々。

現代語文暦二年(1235)三月小十一日甲辰。天の異常や地震へのお祈りを始めましたそうな。

文暦二年(1235)三月小十三日丙午。巳刻。地震小動。

読下し                     みのこく  ぢしんしょうどう
文暦二年(1235)三月小十三日丙午。巳刻。地震小動。

現代語文暦二年(1235)三月小十三日丙午。午前10時頃小さな地震です。

文暦二年(1235)三月小十六日己酉。夘刻大地震。今日。依天變地妖等事。可有御祈祷徳政等之由。於武州御亭。有其沙汰。師員朝臣爲奉行云々。

読下し                     うのこくおおぢしん
文暦二年(1235)三月小十六日己酉。夘刻大地震。

 きょう  てんぺん ちよう ら   こと  よっ     ごきとう  とくせい ら  あ   べ   のよし  ぶしゅう  おんてい  をい    そ   さた あ
今日、天變地妖等の事に依て、御祈祷徳政@等有る可き之由、武州の御亭に於て、其の沙汰有り。

もろかずあそんぶぎょうたり  うんぬん
師員朝臣奉行爲と云々。

参考@徳政は、ここでは単なる善政を指している。

現代語文暦二年(1235)三月小十六日己酉。午前6時頃大地震です。今日、手の異変や地の神の怒りを治めるためには、お祈りや良い政治をするようにと、武州北条泰時さんの屋敷でその決定をしました。中原師員さんが担当だそうな。

文暦二年(1235)三月小十八日辛亥。リ。相州。武州被參御所。有五大堂供養日時定。陰陽師等參進。各定申云。四月十一日上吉。同十八日下吉。五月五日上吉云々。四月十一日者。縱雖終土木成功。莊嚴不可出來。五月者。毎事忌來歟。四月下吉。与五月上吉。勝劣可爲何樣哉之由。有群議。親職申云。五月堂供養例繁多。五月上吉不可有憚云々。リ賢申云。五月所憚來之者。元服。着袴。移徙。嫁娶等事歟。依爲齋月。於佛事者。先例不憚。且正五九月可修善之由。載經文。所謂法成寺。釋迦堂。総持院。五月供養精舎也。宇治一切經會。五月被始之。可被用五月上吉日云々。忠尚。宣俊。資俊。文元等同之。仍治定。兩國司承定之。被退出云々。

読下し                     はれ  そうしゅう ぶしゅうごしょ   まいられ    ごだいどう くよう  にちじ   さだ  あ
文暦二年(1235)三月小十八日辛亥。リ。相州、武州御所へ參被る。五大堂供養の日時の定め有り。

おんみょうじらさんしん  おのおの さだ  もう    い      しがつじういちにちじょうきち  おな   じうはちにちげきち  ごがついつかじょうきち うんぬん
陰陽師等參進し、 各 定め申して云はく。四月十一日上吉。同じき十八日下吉。五月五日上吉と云々。

しがつじういちにちは   たと  どぼくじょうごう  おえ   いへど   しょうごん い  きた  べからず  ごがつは  まいじいみきた  か
四月十一日者、縱い土木成功を終ると雖も、莊嚴出で來る不可。五月者、毎事忌來る歟。

しがつ  げきちと ごがつ  じょうきち しょうれついかようたるべ   や のよし   ぐんぎ あ
四月の下吉与五月の上吉、勝劣何樣爲可き哉之由、群議有り。

ちかもともう    い       ごがつ   どうくよう    れいはんた    ごがつ じょうきち  はばか あ   べからず  うんぬん
親職申して云はく。五月は堂供養の例繁多す。五月の上吉は憚り有る不可と云々。

はるかたもう    い       ごがつ  はばか きた  のところは  げんぷく  ちゃっこ   いし    よめとりら   ことか
リ賢申して云はく。五月は憚り來る之所者、元服、着袴、移徙@、嫁娶等の事歟。

いみづき たる  よっ    ぶつじ  をい  は  せんれい はばからず
齋月A爲に依て、佛事に於て者、先例 憚不。

かつう しょうごくがつ  しゅうぜんすべ  のよし きょうもん  の     いはゆる ほうじょうじ しゃかどう   そうじいん   ごがつ くうよう  しょうじゃなり
且は正五九月に修善可き之由、經文に載す。所謂 法成寺B、釋迦堂、総持院は五月供養の精舎也。

 うじ   いっさいきょうえ  ごがつ  これ  はじ  られ    ごがつ じょうきち  ひ   もち  られ  べ     うんぬん
宇治の一切經會、五月に之を始め被る。五月の上吉の日を用ひ被る可きと云々。

ただなお のぶとし  すけとし ふみもとら これ  おな  よっ  ちじょう    りょうこくしこれ うけたまは さだ   たいしゅつされ   うんぬん
忠尚、宣俊、資俊、文元等之に同じ。仍て治定す。兩國司之を 承り定め、退出被ると云々。

参考@移徙は、引越し。
参考A齋月は、忌み慎むべき月。一月・五月・九月をいい、結婚・出産などを嫌った。Goo電子辞書から
参考B法成寺は、京都市上京区にあった藤原道長創建の寺院で、1020に阿弥陀堂が建てられ、その後大きくなり、阿弥陀堂・金堂・五大堂・薬師堂・釈迦堂・十齋堂・東北院・西北院などがあったそうな。ウィキペディアから

現代語文暦二年(1235)三月小十八日辛亥。晴れです。相州北条時房さん・武州北条泰時さんが御所へ出仕です。五大堂明王院の開眼供養の日時を検討しました。陰陽師達が来て、それぞれ占って云うのには、「4月11日が最上の日、同18日が少し良い日、5月5日は最上の日だそうな。4月11日はたとえ土木工事が終わったとしても、寺の荘厳な建設は間に合わないでしょう。5月にはどっちにして間に合うでしょう。四月の少し良い日と5月の最上の日とどっちが良いのか話し合いがありました。安陪親職がいうには「5月は式典が多すぎます。5月の最上の日は何も差し障りがありません。」との事。安陪晴賢が云うのには「5月は差し障りがあるのは、元服式や初めて袴を履かせる着袴の式、引っ越し、嫁取りなどだでしょう。5月は忌月なので、仏事は先例でも遠慮はしていません。又、1・5・9月に良い仏教行事をするようにお経にも載っています。京都上京の法成寺・嵯峨野の釈迦堂(清凉寺)、高野山の総持院は五月に建立された寺院です。又、宇治平等院の一切経の儀式はやはり5月に始められました。5月の最上日にしましょう。」安陪忠尚・安陪宣俊・安陪資俊・安陪文元はこれと同意見です。そこで決まりました。時房さん・泰時さんはこれを承知されて退出しましたとさ。

文暦二年(1235)三月小廿五日戊午。於武州御亭。五大堂供養日時事。重有其沙汰。是五月五日可遂供養之由。先日被定訖。件日者。鶴崗神事式日也。可爲何樣哉之由云々。又召陰陽師之輩。被仰合。忠尚以下申云。神佛事。一日内被行之例雖惟多。彼此共爲大營。可指合者。可被延引歟云々。武州仰云。然者可被用何日哉云々。六月廿九日最吉之由。各一同申之。仍付廷尉基綱。被申此由於御所云々。

読下し                     ぶしゅう  おんてい  をい    ごだいどう くよう  にちじ   こと  かさ    そ    さた あ
文暦二年(1235)三月小廿五日戊午。武州の御亭に於て、五大堂供養の日時の事、重ねて其の沙汰有り。

これ ごがついつか  くよう   と     べ   のよし せんじつさだ  られをはんぬ くだん ひ は   つるがおかしんじ しきじつなり  いかようたるべ   や のよし  うんぬん
是五月五日に供養を遂げる可き之由、先日定め被 訖。 件の日者、 鶴崗神事 の式日也。何樣爲可き哉之由と云々。

また おんみょうじのやから  め     おお  あ   され    ただなお いげ もう    い
又、陰陽師之輩を召し、仰せ合は被る。忠尚以下申して云はく。

しんぶつ こと  いちにち うち おこなはれ のれいこれおお   いへど   かれこれとも  だいえいたり  さ   あは  べ     ば   えんいんさる  べ   か   うんぬん
神佛の事、一日の内に行被る之例惟多しと雖も、彼此共に大營爲。指し合す可くん者、延引被る可き歟と云々。

ぶしゅうおお    い       しからば  なんにち  もち  られ  べ   や   うんぬん  ろくがつにじうくにち  さいきちのよし  おのおのいちどう  これ  もう
武州仰せて云はく。然者、何日を用ひ被る可き哉と云々。六月廿九日は最吉之由、 各 一同に之を申す。

よっ  ていい もとつな  ふ     かく  よしを ごしょ   もうさる    うんぬん
仍て廷尉基綱に付し、此の由於御所へ申被ると云々。

現代語文暦二年(1235)三月小二十五日戊午。武州北条泰時さんの屋敷で、五大堂明王院の開眼供養の日時について、又も指示がありました。これは、5月5日に式典をするように先日決められました。しかし、その日は鶴岡八幡宮での端午の節句の神事の日です。どうしたものかと陰陽師の連中を呼び集めてお聞きになりました。安陪忠尚以下が云うのには、「神仏の行事を一日の内に行う例は多いのですが、双方ともに大がかりな式典です。出席がかち合ってしまうなら、延期した方が良いです。」武州泰時さんは「それならいつの日にするのがよいであろうか?」「6月9日が一番良いお日柄です。」と揃って答えました。そこで、検非違使の後藤基綱に頼んで、御所の将軍へ伝えましたとさ。

文暦二年(1235)三月小廿八日辛酉。於武州御亭。五大堂供養事。召陰陽道勘文。昨日雖有其沙汰。依爲御所御衰日。及今日云々。

読下し                     ぶしゅう  おんてい  をい    ごだいどう くよう   こと  おんみょうどう かんもん  め
文暦二年(1235)三月小廿八日辛酉。武州の御亭に於て、五大堂供養の事、陰陽道に勘文を召す。

さくじつ そ   さた  あ    いへど    ごしょ  ごすいにち たる  よっ    きょう   およ    うんぬん
昨日其の沙汰有ると雖も、御所の御衰日@爲に依て、今日に及ぶと云々。

参考@御衰日は、外出したり、戦に出るには縁起がよくない日。

現代語文暦二年(1235)三月小二十八日辛酉。武州北条泰時さんの屋敷で、五大堂明王院の開眼供養の日時について、陰陽師等の上申書を出させました。昨日、日時を決めましたけど、将軍の衙異種に縁起が良くない日だったので、今日上申の日にしましたとさ。

四月へ

吾妻鏡入門第卅巻

inserted by FC2 system