吾妻鏡入門第卅巻

文暦二年乙未(1235)六月大

文暦二年(1235)六月大十日辛未。將軍家御祈百日泰山府君祭始行。忠尚朝臣奉行之。

読下し                   しょうぐんけ  おいの ひゃくにちたいさんふくんさい  しぎょう    ただなおあそんこれ  ぶぎょう
文暦二年(1235)六月大十日辛未。將軍家の御祈り百日泰山府君祭を始行す。忠尚朝臣之を奉行す。

現代語文暦二年(1235)六月大十日辛未。将軍頼経様の安泰のため百日間の泰山府君祭を始めます。安陪忠尚さんが指揮担当です。

解説泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

文暦二年(1235)六月大十六日丁丑。地震御祈等始行。

読下し                     ぢしん  おいのりらしぎょう
文暦二年(1235)六月大十六日丁丑。地震の御祈等始行す。

現代語文暦二年(1235)六月大十六日丁丑。地震を静めるお祈りを始めました。

文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。被鑄五大堂洪鐘。而今日鑄損之。奉行人周防前司欲勘發鑄物師之處。陳申云。依銅不足如此。可被加銅歟云々。

読下し                     ごだいどう  こうしょう  い らる    しか    これ  きょう い そん
文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。五大堂の洪鐘を鑄被る。而るに之を今日鑄損じる。

ぶぎょうにんすおうのぜんじ  いもじ   かんぱつ     ほっ    のところ  ちん  もう    い       どうぶそく     かく   ごと    どう  くは  られ  べ     うんぬん
奉行人周防前司 鑄物師を勘發せんと欲する之處、陳じ申して云はく。銅不足にて此の如し。銅を加へ被る可しと云々。

現代語文暦二年(1235)六月大十九日庚辰。五大堂の梵鐘を鋳造しましたが、今日失敗をしてしまいました。指揮担当の周防前司中原親実は、鋳物師を叱りつけようとしたら、弁解して云うのには、「銅が足りなかったのでこうなりました。銅を足しますから。」との事でした。

文暦二年(1235)六月大廿一日壬午。洪鐘可被鑄改之由。於御所。有其沙汰。周防前司奉行之。來廿九日御堂供養以前。早旦可有此儀云々。

読下し                     こうしょう いあらた られ  べ   のよし   ごしょ   をい  そ    さた あ
文暦二年(1235)六月大廿一日壬午。洪鐘 鑄改め被る可し之由、御所に於て其の沙汰有り。

すおうのぜんじ これ  ぶぎょう    きた にじうくにち  みどう くよう いぜん     そうたんかく  ぎ あ   べ     うんぬん
周防前司 之を奉行す。來る廿九日の御堂供養以前に、早旦此の儀有る可しと云々。

現代語文暦二年(1235)六月大二十一日壬午。梵鐘の鋳造をやり直すように、御所で命令がありました。周防前司中原親実が担当します。二十九日の開眼供養の前に作り終えるようにとの事でした。

文暦二年(1235)六月大廿八日己丑。今夜。於新造精舎。被行解謝祭等。大鎭〔親職朝臣〕大土公〔リ賢朝臣〕大將軍〔文元朝臣〕王相〔廣相朝臣〕又供養之間。爲避魔障。被行南方高山祭。於名越山上。弁法印良算奉仕之。毛利左近藏人親光爲御使。

読下し                     こんや   しんぞう しょうじゃ  をい   げしゃさい ら   おこなはれ
文暦二年(1235)六月大廿八日己丑。今夜。新造の精舎に於て、解謝@祭等を行被る。

だいちん 〔ちかもとあそん〕    だいどくう  〔はるかたあそん〕   だいしょうぐん 〔ふみもとあそん〕   おうそう 〔ひろすけあそん〕
大鎭A〔親職朝臣〕、大土公B〔リ賢朝臣〕、大將軍C〔文元朝臣〕、王相D〔廣相朝臣〕

また  くようのあいだ  ましょう  さけ    ため    なんぽこうざんさい  おこなはれ   なごえ  さんじょう をい    べんのほういんりょうさんこれ  ほうし
又、供養之間、魔障を避んが爲に、南方高山祭を行被る。名越の山上に於て、弁法印良算之を奉仕す。

もうりさこんくらんどちかみつ おんし  な
毛利左近藏人親光御使を爲す。

参考@解謝は、神の怒りを解き、謝する。
参考A大鎭は、鎮魂らしい。
参考B土公は、土をつかさどる神。春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にあって、その季節にその場所を動かすと祟りがあるとされる。
参考C大将軍は、素戔嗚尊らしい。陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。金星で3年ごとに居を変え、その方角は万事凶とされ、特に土を動かす事が良くないとされる。
参考D王相は、王神と相神で月ごとに方角が禁忌とされる。

現代語文暦二年(1235)六月大二十八日己丑。今夜、新築の寺院で、神の怒りを解き感謝する解謝祭を行いました。大鎮は安陪親職さん、大土公(土神様)は安陪晴賢さん、大将軍は安陪文元さん、王相は安陪広相さん。又、式典の間、魔物が近づかないように南方高山祭を行いました。名越の山上で弁法印良算が勤めました。毛利左近蔵人親光が使者として代参しました。

文暦二年(1235)六月大廿九日庚寅。朝間雨降。巳以後属霽。寅夘兩時被行新造御堂安鎭。弁僧正〔定豪〕修之。又被鑄直洪鐘。〔高五尺二寸。經四尺〕先日以銅錢三百貫文鑄損之。今度卅余貫。成功殊勝云々。東大寺洪鐘。三ケ度被鑄直之。法勝寺鐘。承暦二年十二月二日鑄損之。後日被改云々。辰剋懸鐘。同時奉安置五大明王像於堂中〔不動。降三世。軍茶利。大威徳。金剛夜叉也〕。巳二點。依可有明王院〔五大尊堂〕供養。將軍家爲御參堂出御〔御束帶。御釼。笏〕。於西廊西向。有反閇。忠尚朝臣奉仕。出同東方。給祿〔蘇芳生衣一領〕。左近大夫將監佐房〔布衣〕取之。懸忠尚左肩。其後御出於南門。小町大路北行。塔辻東行。
  御出行列
先陣随兵
 上総介常秀          駿河前司義村
 小山五郎左衛門尉長村     筑後圖書助時家
 城太郎義景          宇都宮四郎左衛門尉頼業
 足利五郎長氏         越後太郎光時
 陸奥式部大夫政村       相摸六郎時定
御車〔路次間 無御劔役人〕
 上総介太郎          大須賀次郎左衛門尉
 小野澤次郎          宇田左衛門尉
 伊賀六郎左衛門尉       佐野三郎左衛門尉
 大河戸太郎兵衛尉       江戸八郎太郎
 本間次郎左衛門尉       安保三郎兵衛尉
 平岡左衛門尉
    已上直垂帶釼。列歩御車左右。
御調度懸
 加地八郎左衛門尉信朝
御後五位六位〔衣下下括 六位帶弓矢〕
 前民部少輔          相摸式部大夫
寺門内役御釼
 北條弥四郎經時        駿河次郎泰村
 陸奥太郎實時         左衛門尉大夫泰秀
 左近大夫將監佐房       修理亮泰綱
 大膳權大夫師員        木工權頭仲能
 加賀前司康俊         出羽前司家長
 駿河四郎左衛門尉家村     佐原新左衛門尉胤家
 三浦又太郎左衛門尉氏村    關左衛門尉政泰
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰    下河邊左衛門尉行光
 藥師寺左衛門尉朝村      近江四郎左衛門尉氏信
 河津八郎左衛門尉尚景     攝津左衛門尉爲光
 笠間左衛門尉時朝       信濃次郎左衛門尉行泰
 隱岐三郎左衛門尉行義     内藤七郎左衛門盛継
 武藤左衛門尉景頼       弥次郎左衛門尉親盛
 和泉六郎左衛門尉景村     長掃部左衛門尉
 弥善太左衛門尉康義      稗垂左衛門尉時基
 大曽祢兵衛尉長泰
後陣随兵
 河越掃部助泰重        梶原右衛門尉景俊
 氏家太郎公信         壹岐三郎時C
 後藤次郎左衛門尉基親     伊東三郎左衛門尉祐綱
 佐竹八郎助義         武田六郎信長
檢非違使
 駿河大夫判官光村       後藤大夫判官基綱
入御堂中。兩國司被參儲。午二點。有供養之儀。曼茶羅供也。執行師法橋快深奉行會塲事。願文大藏卿爲長草之。C書内大臣。〔實氏公。〕酉刻。事終還御。
大阿闍梨
〔當寺別當〕
 弁僧正定豪
職衆廿二口
〔別當定豪請之〕  〔當時供僧〕
 鳥羽法印光寳    助法印嚴海
          〔同供僧〕
 大夫法印忠遍    師僧都定基
〔供僧〕      〔供僧〕
 左大臣法印兼盛   宮内卿僧都承快
          〔鶴岳供僧〕
 大納言法印良全   大納言僧都定親
〔當寺供僧〕
 加賀律師定C    宰相律師實俊
          〔鶴岳供僧〕
 宰相律師圓親    大藏卿律師定雅
 三位阿闍梨範乘   少將阿闍梨實果
 大納言阿闍梨隆弁  越後阿闍梨定憲
 宰相阿闍梨長全   宰相内供定宗
 因幡阿闍梨定弁   兵部卿阿闍梨親遍
 少納言阿闍梨定瑜  大夫律師良賢
布施
導師分
 被物卅重〔色々〕  裹物一〔納染絹十五端〕
 白綾卅疋      染綾卅疋
 計張卅疋      顯文紗卅段
 丹後絹卅疋     巻絹卅疋
 染付卅巻      唐綾卅端
 筋計張卅疋     紫村濃卅端
 紫卅段       綾地卅段
 紺村濃卅段     帖絹卅疋
 絹淺黄卅段     紺染絹卅疋
 白布卅段      紺布卅段
 藍摺卅段      色革卅枚
 香炉筥一      居筥一
 水精念珠〔在銀折敷〕横皮〔在銀折敷〕
 法服一具      香染衣一具
 上童裝束一具    宿衣一領
加布施
 砂金百兩〔在銀折敷〕野釼一腰〔銀長覆輪在錦袋〕
此外供米廿石
 馬十疋
 一疋  佐原太郎兵衛尉     多氣次郎兵衛尉〔引之〕
 一疋  長尾平内左衛門尉    同三郎兵衛尉
 一疋  信濃三郎左衛門尉    隱岐五郎左衛門尉
 一疋  和泉次郎左衛門尉    同五郎左衛門尉
 一疋  小野寺小次郎左衛門尉  同四郎左衛門尉
 一疋  長三郎左衛門尉     同四郎左衛門尉
 一疋  豊田太郎兵衛尉     同次郎兵衛尉
 一疋  豊前太郎左衛門尉    布施左衛門太郎
 一疋  山内藤内        同左衛門太郎
 一疋  中澤次郎兵衛尉     同十郎
職衆分〔口別〕
 被物十重〔色々〕  裹物一
 白綾十端      色々絹十段
 巻絹十疋      帖絹十疋
 染付十巻      染絹十段
 白布十段      紺布十段
 藍摺十段      色皮十枚
 供米五石
 馬三疋〔一疋置鞍〕

読下し                     あさ あいだあめふ   み いご はれ  ぞく     とらう   りょうとき  しんみどう  あんちん  おこなはれ
文暦二年(1235)六月大廿九日庚寅。朝の間雨降る。巳以後霽に属す。寅夘の兩時、新御堂の安鎭を行被る。

べんのそうじょうていごう これ しゅう
 弁僧正定豪 之を修す。

また  こうしょう いなおさる   〔こうごしゃくにすん けいよんしゃく〕   せんじつ どうぜにさんびゃくかんもん もっ  これ  い そん
又、洪鐘を鑄直被る。〔高五尺二寸。經四尺。〕先日、銅錢 三百貫文 を以て之を鑄損じる。

  このたび さんじうよかん せいこうしゅしょう うんぬん
今度は卅余貫、成功殊勝と云々。参考銭一貫は、1000枚で3.75kg。

とうだいじ  こうしょう   さんかどこれ  いなおさる
東大寺の洪鐘は、三ケ度之を鑄直被る。

ほうしょうじ  かね   じょうりゃくにねんじうにがつふつかこれ  いそん     ごじつ あらた らる    うんぬん
法勝寺の鐘は、承暦二年十二月二日之を鑄損じ、後日改め被ると云々。

たつのこく かね か      どうじ  ごだいみょうおうぞうを どうちう  あんちたてまつ    〔 ふどう  ごうざんせ    ぐんだり    だいいとく    こんごうやしゃなり 〕
辰剋 鐘を懸くる。同時に五大明王像於堂中に安置奉る。〔不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉也〕

みのにてん みょうおういん 〔ごだいそんぞう〕  くよう あ   べ     よっ   しょうぐんけ ごさんどう  ため  い   たま     〔おんそくたい  ぎょけん  しゃく〕
巳二點。明王院〔五大尊堂〕供養有る可きに依て、將軍家御參堂の爲に出で御う。〔御束帶。御釼。笏〕

さいろう  をい  にし  むか    へんばいあ    ただなお あそん ほうし   おな    とうほう  い     ろく 〔すおうすずし いちりょう〕   たま
西廊に於て西に向ひ、反閇有り。忠尚朝臣奉仕す。同じく東方へ出で、祿〔蘇芳生衣@一領〕を給はる。

参考@生衣は、生絹とも書き、まだ練らないままの絹糸。またはその糸で織った絹。

さこんたいふしょうげんすけふさ 〔 ほい 〕 これ  と     ただなおひだり かた  か
左近大夫將監佐房〔布衣〕之を取り、忠尚左の肩に懸ける。

そ   ごみなみもんを ぎょしゅつ   こまちおおじ  きた  ゆ    とうのつじ ひがし い
其の後南門於御出し、小町大路を北へ行き、塔辻を東へ行く。

    ぎょしゅつ  ぎょうれつ
  御出の行列

せんじん  ずいへい
先陣の随兵

  かずさのすけつねひで                  するがのぜんじよしむら
 上総介常秀          駿河前司義村

  おやまのごろうさえもんのじょうながむら         ちくごとしょのすけときいえ
 小山五郎左衛門尉長村     筑後圖書助時家

  じょうのたろうよしかげ                    うつのみやのしろうさえもんのじょうよりなり
 城太郎義景          宇都宮四郎左衛門尉頼業

  あしかがのごろうながうじ                  えちごのたろうみつとき
 足利五郎長氏         越後太郎光時

  むつのしきぶたいふまさむら               さがみのろくろうときさだ
 陸奥式部大夫政村       相摸六郎時定

おくるま 〔 ろじ あいだ  ぎょけん えき  ひとな   〕
御車〔路次の間 御劔の役の人無し〕

  かずさのすけたろう                     おおすがのじろうさえもんのじょう
 上総介太郎          大須賀次郎左衛門尉

  おのさわのじろう                      うたのさえもんのじょう
 小野澤次郎          宇田左衛門尉

  いがのろくろうさえもんのじょう               さののさぶろうさえもんのじょう
 伊賀六郎左衛門尉       佐野三郎左衛門尉

  おおかわどのたろうひょうえのじょう            えどのはちろうたろう
 大河戸太郎兵衛尉       江戸八郎太郎

  ほんまのじろうさえもんのじょう               あぼのさぶろうひょうえのじょう
 本間次郎左衛門尉       安保三郎兵衛尉

  ひらおかのさえもんのじょう
 平岡左衛門尉

        いじょうひたたれ たいけん おくるま  さゆう  なら  ある
    已上直垂に帶釼。御車の左右を列び歩く。

 ごちょうどがけ
御調度懸

  かぢのはちろうさえもんのじょうのぶとも
 加地八郎左衛門尉信朝

おんうしろ ごいろくい  〔ころもしたすもくくり  ろくい  ゆみや  お    〕
御後五位六位〔衣下下括 六位は弓矢を帶びる〕

  さきのみんぶしょうゆう                  さがみのしきぶたいふ
 前民部少輔          相摸式部大夫

 じもんない  ぎょけん  えき
寺門内の御釼を役す

  ほうじょういやしろうつねとき               するがのじろうやすむら
 北條弥四郎經時        駿河次郎泰村

  むつのたろうさねとき                   さえもんのじょうたいふやすひで
 陸奥太郎實時         左衛門尉大夫泰秀

  さこんたいふしょうげんすけふさ             しゅりのすけやすつな
 左近大夫將監佐房       修理亮泰綱

  だいぜんごんのたいふもろかず             むくごんのかみなかよし
 大膳權大夫師員        木工權頭仲能

  かがのぜんじやすとし                   でわのぜんじいえなが
 加賀前司康俊         出羽前司家長

  するがのしろうさえもんのじょういえむら         さわらのしんさえもんのじょうたねいえ
 駿河四郎左衛門尉家村     佐原新左衛門尉胤家

  みうらのまたたろうさえもんのじょううじむら        せきのさえもんのじょうまさやす
 三浦又太郎左衛門尉氏村    關左衛門尉政泰

  うさみのとうないさえもんのじょうすけやす        しもこうべのさえもんのじょうゆきみつ
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰    下河邊左衛門尉行光

  やくしじのさえもんのじょうともむら            おうみのしろうさえもんのじょううじのぶ
 藥師寺左衛門尉朝村      近江四郎左衛門尉氏信

  かわづのはちろうさえもんのじょうなおかげ       せっつのさえもんのじょうためみつ
 河津八郎左衛門尉尚景     攝津左衛門尉爲光

  かさまのさえもんのじょうときとも              しなののじろうさえもんのじょうゆきやす
 笠間左衛門尉時朝       信濃次郎左衛門尉行泰

  おきのさぶろうさえもんのじょうゆきよし          ないとうのしちろうさえもんもりつぐ
 隱岐三郎左衛門尉行義     内藤七郎左衛門盛継

  むとうのさえもんのじょうかげより              いやじろうさえもんのじょうちかもり
 武藤左衛門尉景頼       弥次郎左衛門尉親盛

  いずみのろくろうさえもんのじょうかげむら        ちょうのかもんさえもんのじょう
 和泉六郎左衛門尉景村     長掃部左衛門尉

  いやぜんたさえもんのじょうやすよし           ひえだれさえもんのじょうときもと
 弥善太左衛門尉康義      稗垂左衛門尉時基

  おおそねいやひょうえのじょうながやす
 大曽祢兵衛尉長泰 参考大曽祢長泰は、藤九郎盛長の二男時長が出羽国大曽祢荘を領して大曽祢氏を名乗り、長泰はその子。

こうじん  ずいへい
後陣の随兵

  かわごえのかもんのすけやすしげ             かじわらのうえもんのじょうかげとし
 河越掃部助泰重        梶原右衛門尉景俊

  うじいえのたろうきんのぶ                  いきのさぶろうとききよ
 氏家太郎公信         壹岐三郎時C

  ごとうのじろうさえもんのじょうもとちか           いとうのさぶろうさえもんのじょうすけつな
 後藤次郎左衛門尉基親     伊東三郎左衛門尉祐綱

  さたけのはちろうすけよし                  たけだのろくろうのぶなが
 佐竹八郎助義         武田六郎信長

  けびいし
檢非違使

  するがのたいふほうがんみつむら             ごとうのたいふほうがんもとつな
 駿河大夫判官光村       後藤大夫判官基綱

 みどうちう   い    りょうこくしまい  もう  られ    うま  にてん  くよう  ぎ あ     まんがらぐなり   しぎょうしほっきょうかいしんかいじょう こと  ぶぎょう
御堂中に入る。兩國司參り儲け被る。午の二點。供養の儀有り。曼茶羅供也。執行師法橋快深會塲の事を奉行す。

がんもん おおくらきょうためながこれ  そう    せいしょ  ないだいじん 〔さねうじこう〕   とり  こく  ことおわ  かんご
願文は大藏卿爲長之を草す。C書は内大臣〔實氏公〕。酉の刻、事終り還御す。

 だいあじゃり   〔とうじべっとう〕  べんのそうじょうていごう
大阿闍梨〔當寺別當〕 弁僧正定豪

しきしゅうにじゅうにく
職衆@廿二口 参考@職衆は、法会の時お経を上げたり散華を撒いたりする坊さん達。

  とばのほういんこうほう    〔べっとうていごうこれ  う    〕      すけのほういんがんかい   〔とうじ ぐそう〕
 鳥羽法印光寳〔別當定豪之を請く〕    助法印嚴海〔當時供僧〕

  たいふほういんちうへん       そちのそうづていき   〔 どうぐそう 〕
 大夫法印忠遍    師僧都定基〔同供僧〕

  さだいじんほういんけんせい  〔 ぐそう 〕     くないきょうそうづじょうかい  〔 ぐそう 〕
 左大臣法印兼盛〔供僧〕   宮内卿僧都承快〔供僧〕

  だいなごんほういんりょうぜん     だいなごんそうづていしん     〔つるがおかぐそう〕
 大納言法印良全   大納言僧都定親〔鶴岳供僧〕

 かがのりっしていせい   〔とうじ ぐそう〕      さいしょうりっしじつしゅん
 加賀律師定C〔當寺供僧〕    宰相律師實俊

  さいしょうりっしえんしん        おおくらきょうりっしていが    〔つるがおかぐそう〕
 宰相律師圓親    大藏卿律師定雅〔鶴岳供僧〕

  さんみあじゃりはんじょう        しょうしょうあじゃりじっか
 三位阿闍梨範乘   少將阿闍梨實果

  だいなごんあじゃりりゅうべん     えちごのあじゃりていけん
 大納言阿闍梨隆弁  越後阿闍梨定憲

  さいしょうあじゃりちょうぜん      さいしょうないくじょうそう
 宰相阿闍梨長全   宰相内供定宗

  いなばのあじゃりじょうべん      ひょうぶきょうあじゃりしんぺん
 因幡阿闍梨定弁   兵部卿阿闍梨親遍

  しょうなごんあじゃりじょうゆ      たいふりっしりょうけん
 少納言阿闍梨定瑜  大夫律師良賢

ふせ
布施

 どうしぶん
 導師分

 かずけものさんじうえ 〔いろいろ〕   つつみもの 〔そめぎぬじうごたん  おな  〕
 被物三十重〔色々〕 裹物〔染絹十五端を納む〕

  しろあやさんじっぴき         そめあやさんじっぴき
 白綾卅疋      染綾卅疋

  けいちょうさんじっぴき         けんもんささんじったん
 計張卅疋      顯文紗A卅段 参考A顕文紗は、顕紋紗で紗の衣装の模様の部分だけを平織で浮き出させたもの。

  たんごぎぬさんじっぴき        まきぎぬさんじっぴき
 丹後絹卅疋     巻絹卅疋

  そめつけさんじっかん         からあやさんじったん
 染付卅巻      唐綾卅端

  きんけいちょうさんじっぴき      むらさきむらこいさんじったん
 筋計張卅疋     紫村濃卅端

  むらさきさんじったん         あやぢさんじったん
 紫卅段       綾地卅段

  こんむらこいさんじったん      ちょうけんさんじっぴき
 紺村濃卅段     帖絹卅疋

  きぬあさぎさんじったん       こんぞめぎぬさんじっぴき
 絹淺黄卅段     紺染絹卅疋

  しらぶ さんじったん         こんぷさんじったん
 白布卅段      紺布卅段

  あいずりさんじったん         いろかわさんじうまい
 藍摺卅段      色革卅枚

  こうろばこいち             すえばこいち
 香炉筥一      居筥B 参考B居筥は、居箱で法会の際導師のそばに置くふたのない経巻などを入れる長方形の箱。

  すいしょうねんじゅ 〔ぎん  おしき  あ   〕   おうひ 〔ぎん  おしき  あ   〕
 水精念珠〔銀の折敷に在り〕横皮C〔銀の折敷に在り〕 参考C横皮は、右肩にかける袈裟

  ほうふく いちぐ             こうのそめごろもいちぐ
 法服一具      香染衣一具

  じょうどうしょうぞくいちぐ        しゅくえいちりょう
 上童裝束一具    宿衣一領

 かぶせ
加布施

  さきんひゃくりょう 〔ぎん  うちしき あ   〕  のだち ひとこし 〔ぎん  ちょうぶくりん  わた  ふくろあ   〕
 砂金百兩〔銀の打敷に在り〕野釼一腰〔銀の長覆輪、錦の袋在り〕

このほか くまいにじっこく
此外 供米二十石

  うまじっぴき
 馬十疋

  いっぴき    さわらのたろうひょうえのじょう        たけのじろうひょうえのじょう 〔これ  ひ   〕
 一疋  佐原太郎兵衛尉     多氣次郎兵衛尉〔之を引く〕

  いっぴき    ながおのへいないさえもんのじょう     おなじきさぶろうひょうえのじょう
 一疋  長尾平内左衛門尉    同三郎兵衛尉

  いっぴき    しなののさぶろうさえもんのじょう       おきのごろうさえもんのじょう
 一疋  信濃三郎左衛門尉    隱岐五郎左衛門尉

  いっぴき    いずみのじろうさえもんのじょう        おなじきごろうさえもんのじょう
 一疋  和泉次郎左衛門尉    同五郎左衛門尉

  いっぴき    おのでらのこじろうさえもんのじょう      おなじきしろうさえもんのじょう
 一疋  小野寺小次郎左衛門尉  同四郎左衛門尉

  いっぴき    おさのさぶろうさえもんのじょう        おなじきしろうさえもんのじょう
 一疋  長三郎左衛門尉     同四郎左衛門尉

  いっぴき    とよだのたろうひょうえのじょう         おなじきじろうひょうえのじょう
 一疋  豊田太郎兵衛尉     同次郎兵衛尉

  いっぴき    ぶぜんのたろうさえもんのじょう        ふせのさえもんたろう
 一疋  豊前太郎左衛門尉    布施左衛門太郎

  いっぴき    やまのうちのとうない              おなじきさえもんたろう
 一疋  山内藤内        同左衛門太郎

  いっぴき    なかざわのじろうさえひょうえのじょう     おなじきじうろう
 一疋  中澤次郎兵衛尉     同十郎

しきしょうぶん 〔くべつ〕
職衆分〔口別〕

  かずけものとう 〔いろいろ〕      つつみものいち
 被物十重〔色々〕  裹物一

  しろあやじったん           いろいろぎぬじったん
 白綾十端      色々絹十段

  まきぎぬじっぴき           ちょうけんじっぴき
 巻絹十疋      帖絹十疋

  そめつけじっかん           そめぎぬじったん
 染付十巻      染絹十段

  しらぶ じったん            こんぷ じったん
 白布十段      紺布十段

  あいずりじったん           いろかわじうまい
 藍摺十段      色皮十枚

  くまい ごこく
 供米五石

  うまさんぴき 〔いっぴきくら  お   〕
 馬三疋〔一疋鞍を置く〕

現代語文暦二年(1235)六月大二十九日庚寅。朝の内は雨でした。午前10以後は晴れてきました。午前2時頃から4時頃まで闇が穢れを隠しているうちに新築のお堂の鎮魂祭を行いました。弁僧正定豪がこの加持祈祷を行いました。又、釣鐘を鋳直しました〔高さは157.56cm。幅121.2cm〕。先日銅銭三百貫文(30万枚1,125kg)を使っても失敗しました。今度は30貫ちょっと足してうまく出来上がりました。東大寺の鐘は、三度も鋳直しました。法勝寺の鐘は、承暦2年(1078)12月2日に失敗して、後日改めて作ったそうな。
午前8時頃この鐘を吊るしました。同時に五大明王像をお堂の中に備えました〔不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王〕。
午前九時半頃に五大堂明王院の開眼供養があるので、将軍頼経様はお参りのためにお出でです〔衣冠束帯に剣を履き笏を持ってます〕。西の廊下で西に向かってお祓いの踊りを安陪忠尚さんが勤めました。そのまま東へ出て、褒美〔蘇芳染の生絹着物一着〕を戴きました。左近大夫将監大江佐房が〔狩衣〕これを持って渡し、安陪忠尚は左の方にかけました。その後、将軍は南門を出て、小町大路を北へ向かい、塔の辻(筋替え橋)を東へ行きました。
  お出かけの行列は、
 上総介境常秀     駿河前司三浦義村
 小山五郎左衛門尉長村 筑後図書助時家
 城太郎安達義景    宇都宮四郎左衛門尉頼業
 足利五郎長氏     越後太郎名越流北条光時
 陸奥式部大夫北条政村 相模六郎北条時定
将軍の牛車〔行列の進行途中は刀持ちはありません〕
 上総介太郎境秀胤   大須賀次郎左衛門尉胤秀
 小野沢次郎時仲    宇田左衛門尉
 伊賀六郎左衛門尉光重 佐野三郎左衛門尉実綱
 大川戸太郎兵衛尉広行 江戸八郎太郎景益
 本間次郎左衛門尉信忠 安保三郎兵衛尉
 平岡左衛門尉
    以上は、鎧直垂を着て剣を履き、将軍の牛車の左右に並んで歩きました。
将軍の弓矢を掛けているのは、
 加治八郎左衛門尉信朝
将軍の後付きの五位六位の位の人〔袴の裾は足首結びの下括りです。六位は弓矢を見に付けています〕
 前民部少輔北条有時と相模式部大夫北条朝直。
寺の門から内側での太刀持ち
 北条弥四郎経時     駿河次郎三浦泰村
 陸奥太郎北条実時    左衛門大夫長井泰秀
 左近大夫将監大江佐房  修理亮宇都宮泰綱
 大膳権大夫中原師員   木工権頭伊賀仲能
 加賀前司町野康俊    出羽前司中条家長
 駿河四郎左衛門尉家村  佐原新左衛門尉胤家
 三浦又太郎左衛門尉氏村 関左衛門尉政泰
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰 下河辺左衛門尉行光
 薬師寺左衛門尉朝村   近江四郎左衛門尉佐々木氏信
 河津八郎左衛門尉尚景  摂津左衛門尉狩野為光
 笠間左衛門尉時朝    信濃次郎左衛門尉二階堂行泰
 隠岐三郎左衛門尉二階堂行義 内藤七郎左衛門尉盛継
 武藤左衛門尉景頼    弥次郎左衛門尉親盛
 和泉六郎左衛門尉景村  長谷部掃部左衛門尉秀達
 三善弥善太左衛門尉康義 稗垂左衛門尉時基
 大曽根兵衛尉長泰
後ろの武装儀仗兵
 河越掃部助泰重    梶原右衛門尉景俊
 氏家太郎公信     壱岐三郎時清
 後藤次郎左衛門尉基親 伊東三郎左衛門尉祐綱
 佐竹八郎助義     武田六郎信長
検非違使
 駿河大夫判官三浦光村 後藤大夫判官基綱
お堂の中へ入りました。両国司の時房さんと泰時さんが来て仕度を整えました。午前11時半頃に開眼供養の儀式がありました。曼荼羅を唱える式です。寺務筆頭(執行師)の法橋快深が会場の準備の指揮監督をしました。仏へあげる願の文章は、大蔵卿菅原為長さんが下書きをして、清書は内大臣西園寺実氏さまです。午後6時頃式が終わってお帰りです。
大阿闍梨
 〔この寺の代表〕
 弁僧正定豪
この寺での儀式にお供をした坊さん22人
 鳥羽法印光宝〔筆頭の定豪が推薦しました〕 助法印厳海〔この寺に所属〕
 大夫法印忠遍 師僧都定基〔同様にこの寺所属〕
 左大臣法印兼盛〔ここ所属〕 宮内卿僧都承快〔ここ所属〕
 大納言法印良全 大納言僧都定親〔鶴岡八幡宮所属〕
 加賀律師定清〔この寺に所属〕 宰相律師実俊
 宰相律師円親   大蔵卿律師定雅〔鶴岡八幡宮所属〕
 三位阿闍梨範乗  少将阿闍梨実果
 大納言阿闍梨隆弁 越後阿闍梨定憲
 宰相阿闍梨長全  宰相内供定宗
 因幡阿闍梨定弁  兵部卿阿闍梨親遍
 少納言阿闍梨定瑜 大夫律師良賢
お布施
指導僧の分
 色々の被り物三十枚 風呂敷包み一〔染めた絹15反を包む〕
 白い綾絹30匹 模様を織り出した顕紋紗30反
 丹後産絹30匹 巻絹30匹
 染付布30巻 唐織の綾30反
 筋計張30匹(不明) 紫のグラデーション30反
 紫染め30反 綾織の生地30反
 紺のグラデーション30反 帖絹(つむぎ)30匹 絹淡黄色(山吹色)30反 紺に染めた絹30匹 白い布30反 色染の皮30枚
 香炉箱1 経巻入れの箱1 水晶の数珠〔銀の折敷に載せてる〕 横皮〔銀の折敷に載せてる〕 法会用の装束1セット 丁子で染めた装束1セット
 稚児装束1セット 宿直装束1着
おまけのお布施 砂金百両(1.868kg約800万円)〔銀の折敷の載せてる〕 野太刀〔銀造りで、錦の袋に入れてる〕
この他に米20石(50表3000kg) 馬10頭
 一頭目 佐原太郎兵衛尉経連と多気次郎兵衛尉〔引き出してきた(ので引き出物)〕
 二頭目 長尾平内左衛門尉景茂と同三郎兵衛尉光景
 三頭目 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱と隠岐五郎左衛門尉二階堂行方
 四頭目 和泉次郎左衛門尉天野景氏と同五郎左衛門尉天野政泰
 五頭目 小野寺小次郎左衛門尉通業と同四郎左衛門尉通時
 六頭目 長谷部三郎左衛門尉朝連と同四郎左衛門尉
 七頭目 豊田太郎兵衛尉と同次郎兵衛尉
 八頭目 豊前太郎左衛門尉と布施左衛門太郎康高
 九頭目 山内藤内通景と同左衛門太郎
 十頭目 中沢次郎兵衛尉と同十郎中沢成綱
 この寺での儀式にお供をした坊さんの分〔ひとりづつに〕
 色々の被り物十枚 風呂敷包み一 白い綾絹10匹 色々に染めた絹10反 巻絹10匹 
帖絹(つむぎ)10匹 染付布10巻 染めた反物10巻
 染めた絹10反 
白い布10反 紺に染めた布10反 藍色の摺り染め10反 色染の皮10枚 米5石(12表半) 馬三頭〔一頭は鞍置き〕

じこくのてん時刻の點は、2時間を5等分したのが点。午なら11時〜11:24を一点、11:24〜11:48を二点、11:48〜12:12を三点、12:12〜12:36を四点、12:36〜13:00を五点。

文暦二年(1235)六月大卅日辛夘。來月依爲閏月。今夜可被行六月祓哉否事。爲藤内判官定員奉行。被尋問有職并陰陽道輩。河内入道等申云。如義解文者。可行于閏月事分明也。和歌云。後之ミソカヲ三十日トハセヨ者。其上。治承四年。建久八年。建保四年。皆被行于閏月云々。諸人一同之。資俊申云。兩月行之例存之云々。然而就多分儀不被行云々。

読下し                   きた  つき うるうづきたる  よっ    こんや ろくがつはら   おこなは べ     や いな    こと  とうないほうがんさだかず  ぶぎょう  な
文暦二年(1235)六月大卅日辛夘。來る月は閏月爲に依て、今夜六月祓へを行被る可き哉否やの事、藤内判官定員を奉行と爲し、

ゆうしきなら   おんみょうどう やから じんもんさる    かわりにゅうどうらもう    い        ぎげ   ふみ  ごと  ば  うるうづきに おこな べ   ことぶんめいなり   わか   い
有職并びに陰陽道の輩に尋問被る。河内入道等申して云はく。義解の文の如く者、閏月于行う可き事分明也。和哥に云はく。

のちの  晦日  を  晦日   とはせよ
後之ミソカヲ三十日トハセヨ

てへ    そ   うえ  じしょうよねん けんきゅはちねん けんぽうよねん  みなうるうづきに おこなは  うんぬん  しょにんこれ いちどう    すけとしもう    い
者り。其の上、治承四年、建久八年、建保四年、皆閏月于行被ると云々。諸人之に一同す。資俊申して云はく。

りょうげつ おこな のれい  これ  ぞん   うんぬん  しかれど たぶん  ぎ   つ   これ  おこなはれず うんぬん
兩月に行う之例、之を存ずと云々。然而も多分の儀に就き之を行被不と云々。

現代語文暦二年(1235)六月大三十日辛卯。来月は閏月なので、今夜年に二回の祓への六月分をやるべきかどうか、藤内判官藤原定員を指揮担当として、有識者や陰陽師の連中に質問されました。河内入道源光行などが云うのには、「文章を解き明かす文書によると、閏月に行うことがはっきりしています。和歌にも後の晦日を晦日にしなさいとあります。」との事です。そのうえ、「治承4年(1180)建久4年(1193)建保4年(1216)は全て閏月に行われました。」だとさ。皆これに賛成しました。陰陽師の安陪資俊が云うには、「両方の月に行った例も知っています。」とのこと。しかし、それは多すぎるだろうとやらないことにしましたとさ。

閏六月へ

吾妻鏡入門第卅巻

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